jujutsu
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「恵くんは知っている? 高専の寮室は遮音性が高いんだ、って。」
無心を装って学習机に齧り付いていた伏黒が、プリントの白地に行儀良く整列する数式の一列から目を離す。振り返った視線の先には、寝台、そしてその上で猫のように伸びやかに転がるようく見知った――憎からず想っている女の姿が在った。
つい先程、本棚から得手勝手に取り出された一冊のノンフィクション小説は、既に閉じられている。五枚か、十枚か。ぱらぱらとページを手繰っていた女の飽きっぽい手が、今度は傍らの壁をノックする。言葉の通りに、壁の厚みを感じさせる鈍い音は部屋に響かず、壁紙の向こうのコンクリートに吸い込まれる。
「決まった時間に祝詞を上げなければならない、読経しなければならない、なんて縛りを設けている術師も居ない事はないからね。これでも一応は学校だから、生徒の勉学の妨げにならないように配慮されているんだって。」
妨げにならないように、なんて一体どの口が言っているのか。伏黒は眉間に深い皺を幾筋も刻んだ顔を、学習机の上のプリントへと引き戻した。
呪術について専門的に学ぶ稀有な学舎と言えども、世間的な高等専門学校らしく、一般科目の座学も最低限用意されている。本日、宿題として出された数学の問題を解くべく、伏黒は夜に沈む自室で自学自習に勤しんでいたのだが。「恵くん、あーそーぼ!」と言う、凡そ年上とは思えない調子で無遠慮に部屋に上がり込んで来たのが、彼女であった。
上がり込んで来た事を取り立てて問題視しているのではない。それだけであれば何時もの事だと受け流せた。
「尤もらしい事を言う前に隠したらどうですか。」
「何を?」
「……腹、とか。」
「いやん。」
幾ら後輩としか思っていない相手であっても、男の部屋で、無防備に、薄着で、腹をちらつかせて、ベッドに寝転がるな。
寝間着のシャツの裾から覗いていた薄い腹の白さに目が眩んで、伏黒は目蓋を閉ざした――が、間も無く開かれる事となる。五感を一つ遮断すると、それを補うようにして、他の感覚が鋭敏になる。巫山戯混じりの嬌声も、着衣の乱れを正す衣擦れも、寝台のスプリングの軋む音も、全て壁が吸い込んでくれたならば良かったが、生憎とそうは行かなかった。
生々しさすら感じられる音の数々は、冴えた聴覚をよく刺激して若い想像力を掻き立てる。伏黒は遂に問題の読解を諦めて、プリントを手放した。沸々と煮えようとする頭の中心を冷まそうと、長く長く息を吐く。
「――どれだけ遮音性が高くても、部屋の中で騒がしくされたら意味無いですよ。」
「おっと。辛辣だ。」
おどけた気配を無視した伏黒は、カチカチ、カチカチ、とシャープペンシルのノックボタンを何度か押し込む。芯を出しては引っ込め、出しては引っ込めと無為なおこないを繰り返して、疚しさに支配されそうな精神を統一せんと試みていた。
女は果たして後輩の健気さを知らぬようで、寝台から身軽に起き上がると、ハードカバーの単行本を棚へと戻してから、伏黒の側迄無邪気に寄って行った。肩口に頤を乗せる形で手もとを覗き込んで、洗い立てのシャンプーの清らな香りを振り撒く。伏黒も、「近いです。」と言って抗おうとするが、女は却って擦り寄るばかりであった。
「でもね、その通りだよ。私達が今からなにをしようとも、隣の部屋には聞こえない。なあんにも、だよ。」
内緒話でもするかのように潜められた声は、蠱惑的な響きで無音を蹂躙した。やわく弧を描いた華脣が薄らと開かれ、其所に納められている舌が妖艶にもぬらりと光る。
力が入った事で、伏黒の手の中でシャープペンシルの芯が、パキン、と折れた。
「ねえ。息抜きに楽しいこと、しない?」
熱く湿った吐息に、甘えた猫撫で声に、耳朶を擽られる。
伏黒の瞳孔が開く。は、と。疑問を呈そうと唇からこぼした音は、夢の中にでも放り出されたかのようにぼんやりとしてか細い。まさか、と思う。そんなまさか、とは思うが、頭蓋の中の想像と目の前の現実が合致してしまうのではないか。期待とも危惧ともつかない興奮が血潮をめぐらせて、心臓に熱を運び込む。
長らくの沈黙を肯定に近しいものと取ったのであろう。伏黒の強張る横顔に向けて、女は安心させるように慈しみ深く微笑んで――
「スマブラしようよ! この時間に大声を出してやるスマブラは楽しいよ!」
伏黒が椅子からずり落ちた。
唐突に盛大によろめき、派手な音を立てて床に沈んだ後輩に、「どうしたの?」と心底からの驚きの声を上げる女。その動転した様子からは、気を持たせようとして思わせ振りな事を言ったのではないとありありと透けていた。
――タチ悪ぃ。体勢を立て直した伏黒は、立ち上がるなり女の肩を掴んだ。掴んで、触れているだけでも毒になりかねない程に華奢なその身体をくるりと反転させた。訳もわからずされるが儘となっている彼女を、玄関の方へと押し出す。
「夢子さん。お願いですから帰ってください。」
「マリカーの方が良かった?」
「帰ってください。」
「何で怒っているの。」
「怒ってはいないです。」
自身に宿る肉欲を飼い慣らすのに、時間が欲しいだけで。
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