jujutsu
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バチン! 感電を想起させるような乾いた炸裂音が人気の無い廊下を貫く。
思えば、痛みとは斯様なものであった。左の頬を平手打ちにされた五条は、久方振りに励起した痛覚が錆び付いていない事に、場違いな程に冷静な見解を抱いていた。
打たれた弾みでほつれた白髪のひと束を後ろに撫で付ける。咄嗟に歯を食い締めた事が功を奏して、口内の無事は守られた。舌に血の味の広がらない事を確かめてから、衝撃に逸れた視線を戻す。その先には、女が、いた。よもや当たるとは思っていなかったのであろう。出会い頭に暴力を行使しておきながら、目を見開いて呆気に取られている。何とも間の抜けた様子が堪らなく可笑しくて、いとおしくて、五条は頬のひりつきを全く忘れて笑ってしまった。
「満足した?」
胸ぐらを掴む細作りの手は、酷い感冒に罹っているかのようにぶるぶると震えている。余りに寒そうなものだから、五条はそうっと包もうとするが、女は彼の身体を突き飛ばして全霊で拒んだ。剣呑な光をぎらりと放つ瞳は、刺し違えようとしかねない程の憎しみを宿している。一族郎党の仇になった気分にさせるそれを真正面から受け止めて、尚、五条は笑みを崩す事がなかった。
そのように憎悪を燃やされる理由は理解している。懇意にしていた男と、親密な関係になりたかった歴々の男達と、悉く破局したのが自分の手引きによるものだと遂に露見したのであろう。――気づくの、遅かったな。勘の鈍さすらも可愛く映るのでは仕様も無い。
くつくつと笑う声は悪魔の囁きじみて聞こえるのか、女が一歩、気圧されたように後退った。気味悪そうに戦慄く唇から、手負いの獣の唸り声よりも低い音が漏れる。
「馬に蹴られてしまえ。」
「へえ。あれ、恋愛のつもりだったんだ。」
「他に何だと?」
「僕からは交配相手を探しているようにしか見えなかったけど。実際、その通りな訳でしょ。」
呪術師にしては珍しく進んで所帯を持ちたがる女は、しかし、平々凡々な家庭を築く夢を見ている訳ではなかった。彼女の生まれついた家は代々呪術師を輩出してはいるが、名家に数えられるには歴史の厚みが足りなかった。中途半端な位置にぶら下がる家系を永く続かせようと、人柱宛らに身を差し出して、良質な種集めに奔走するだなんて。遺伝子をより良く掛け合わせて、次代へ継承する為に生きようだなんて。
「家畜じゃあないんだからさぁ。」
血の気の引く迄、固く。女の拳が握られた。五条の左頬を目掛けて、再度、手が振り被られる。しかし、五条とて二度目は受けてやれなかった。掲げられた女の手首を掴む。即座に左の手に攻撃の意志を託した機転は流石だが、拳を握り込む前に其方も捕らえる。
両手を封じられた女が、充血した目で五条を睨み据えた。息を荒げ、髪を振り乱して抵抗する。「貴男に、」と血を吐くようにして吐き出されたのは先駆けのみだ。激情が、噛み締められた唇の内側にじっと蟠る。何がわかるのか。そう接ごうとした口は、御三家の嫡男と言う、しがらみの多く見える相手を慮って噤まれたのであろう。
そんな女の深慮も、五条相手には意味を為さなかったが。言わんとしていた通りに、五条にはその苦労が十全にはわからなかった。五条の家に於いて独裁が許されている彼だ。早く世継ぎを残すよう懇願する声は確かに存在すれども、決定権は彼自身が掌握しており、好きにやれる立場を確立している。女の気遣いは見事に空回りしているのだが――五条は上機嫌にもささやかな笑い声を奏でた。どれだけ憎々しく思う相手であっても、踏み躙ってはならない一線がある。それを弁えようとする彼女の甘さとも言える健気さを可愛がるものであったが、女からすれば鼻で笑われたと感ずるのも宜なる哉。食い縛った奥歯の隙間から、怨嗟の声が漏れ出でる。
「最低。」
「君好みの男で何より。」
「貴男なんて好みではない。性格の悪い男はお呼びではありません。」
「こんな世界にいて性格が良い男を求めるなんて、図太いって言うか。王子様はかぼちゃパンツで白馬に乗ってやって来るとか思ってる?」
「少なくとも、黒尽くめで怪しい眼帯なんて格好はしていません。貴男は私の王子様ではないと言う事です。それでは、さようなら。」
女が乱暴に腕を振り払って拘束を振り切り、踵を返そうとする。だが、五条はそれを許しはしなかった。一層力を込めて押しとどめる。力ずくで動きを制して、小さな耳に顔を寄せる。悪戯心が掻き立てられて、ふ、と吐息を吹き込むと、女は大袈裟に顔を背けた。
これ程の優良株は世を見渡してもそうは居ないと自負しているが、彼女の心証は相当悪いらしい。柄でもなく、悪漢の魔手からヒロインを助け出すだなんて、如何にも王子様らしい振る舞いをしていると言うのに。
「夢子が擦り寄った男だって、誰一人として、夢子が夢見るような王子様じゃあなかったよ。」
直近の男は、モラル・ハラスメントをお得意とする根っからの男尊女卑主義者だったか。五条が、二、三、話をしただけで這う這うの体で逃げ出したのだから、悪意害意を腹の奥に隠し持っていたと声高に言っているも同然である。その男だけではない。彼女のお眼鏡に適った男達、彼女の家に見合いを持ち掛けた男達は、いずれも注視すれば襤褸の羊の皮を被っているとわかるような男ばかりであった。それでも、術式を相伝している才人と言うだけで、彼女が媚びを売る理由には足りていたのであろう。才能。それのみで言ったって、自分を措いて他に相手はいないではないか。
激昂によって育まれた涙が、じわり。女の決した眦に溜まってゆくのを、間近で眺める。何時迄そうやって目を曇らせている心算なのだろうと、五条はたっぷりの呆れと僅かばかりの疲弊の滲む溜息を吐き出した。
「君は、優しい性格です、なんて釣書を鵜呑みにしていたみたいだけどね。あれ、優しいフリが出来ます、って浅い自己紹介だよ。」
「性格の悪い貴男が言うと、まるで、自分は真に優しい人間だと吹聴しているかのようですね。」
「まさか。僕はただ、夢子が傷ものにされるのを黙って見過ごせる程、非道な男にもなれないってだけ。」
掴んでいた手を解放する。途端に痛みを宥めるようにして手首を摩る女に、五条は、自分が思うよりも感情が荒立っていたのだと自覚させられた。
一連の妨害工作は嫉妬によるものではない。一心に彼女の為を考えての行動だと信じていたが、恋心を抱いていては、中々如何して無私では動けぬようであった。
気を取り直す為に、つい、と傍らの窓硝子の向こうを見遣る。すっきりと澄み渡る青空にぷかぷかと浮かぶ綿雲。この廊下での出来事など露程も知らぬ長閑な空模様が、チリリと熱を帯びる左頬に触れさせた。先程の平手は、正に晴天の霹靂の一撃と言えよう。滅多には聞かない盛大な音を思い返すだに、五条の喉に笑いが込み上げて来る。
「――幾ら腐れ縁で気心が知れているとは言えども、ていの良い女除け欲しさにここ迄やりますか。」
ぼうっとしている間に、一言、二言、聞き逃したか。五条が不可思議そうに首を傾ける。
「何の話?」
「貴男が私の恋路や、婚活の邪魔をする理由の話です。」
「あー……え? そう受け取る?」
「そうでなければ、我が家をお取り潰しにでもしたいのですか。」
幾ら至宝の六眼と言えども人の心を見透す神通力は宿っていないが、女が本気で言っている事だけは五条にもありありと感じ取れた。
五条が閉口した隙に女は顎を持ち上げる。迷惑なのだと、苦々しい表情を彼に見せつけて伝える。険しい眼差しに引っ掛かった涙が、窓からの陽光を受けてぴかりとした。
誘われるようにして、五条が女の目もとへと手を伸べる。親指の腹ででも拭ってやろうとしたが、敢えなく撥ね除けられてしまったので、唇を尖らせる事で不服の意を唱える。その仕草を毅然と無視して、女は自らの指先で以て落涙の始末をつけた。
「残念ながら、私では貴男の女除けにはなりませんよ。今日も見事に、厄介な人間に言い寄られたばかりです。」
「それはお疲れ様。因みに、何て?」
「貴男の格別の遺伝子とやらを欲しがる女術師から、種を分けてくれ、なんて嘘みたいな懇願をされました。」
「種馬扱いかよ。ウケる。人気者はつらいね。」
「ウケませんし、つらいのはこちらです。男には逃げられ、女には詰め寄られ、散々なのですから。」
心底から辟易した口振りの女に対して、「ふーん。」と気の無い相槌を打つと、五条は傲岸不遜な迄に不敵に口角を吊り上げた。
「そうは言っても、僕は夢子の事を買ってるんだ。変な虫にも、馬の骨にも勿体無い。誰にも譲る気はないよ。」
「譲るも何も、これで私に来ていた見合い話は零になった訳ですが。」
「それは男運が無くて何より。」
「ええ。本当に。貴男と出会ったのが運の尽きです。」
深呼吸の一つで逆巻く感情を鎮め果せる女の姿は、実に呪術師らしかった。将又、諦めの極致に至っただけなのやも知れない。視界を歪めていた涙の残滓をすっかり拭い去ると、女は、下火となってはいるものの未だ憤怒ちらつく半眼を五条へと差し向ける。
「良いですか。貴男が為出かしてくれたお陰で、私は五条悟のお手付きなのだと、不名誉な噂を立てられているのです。如何やって落とし前をつけてくれるのですか。」
誤解を解く為にも御三家乃至良縁となり得るつてを紹介しろ、と暗に乞うているのであろう。
――飽くまで僕は眼中にない、か。
一族の期待と言う呪いに雁字搦めになっている彼女。近く解いてやりたいと言う気持ちは真実であったし、遠からぬ内に自分が選ばれるのだろうと信じて疑わずにはいるが、この時に五条の胸に去来したのは、終ぞ感じた事のない程に不愉快な焦燥感であった。
眼帯の下で女の節穴を静かに射抜くと、五条は無言で細腕を引いた。片頬に手を添えて逃げ道を奪う。「なに、」と慌てた声を上げる華脣。其所に吸い付いたならば、一体どんな表情を浮かべるだろうか。思うだけで弧を描きたがる唇で、五条は女の左の頬に触れる。柔らかな感触を楽しむ間と、耳もとに甘言を注ぎ込むだけの時間は与えられた。
「それじゃあ、名実共に僕の彼女になっちゃおっか。」
「なりません!」
は、と意識を取り戻すなり、女は悲鳴にも近しい声をきんきんと張り上げる。近距離から鼓膜にぶつけられた返答は耳に痛く、五条は反射的に全ての拘束を解く事となった。
俊敏にも五条の手の届かない位置迄一足飛びに逃げると、女は真っ赤に染め上がった頬をごしごしと手の甲で拭いた。それから、「ばか! へんたい!」とうぶとも幼稚とも取れる罵倒を置いて走り去る。
真意は少しでも伝わっただろうか。嵐のように慌ただしく現れては消えてゆく彼女の背を見送りながら、五条は鬱陶しそうな手付きで眼帯を引き下げる。露になった青色は、焦げ付いていた。
「落ちて来やすいようにしてるんだから、良い加減、落ちて来いっての。」
僕に。恋に。
彼女に倣って、左頬に手の甲を当ててみる。熱いのは、殴られた所為ばかりではない。
白い面立ちに赤色をよく映えさせて、才覚に恵まれた最強である筈の男はひとり、廊下の真ん中で恋の儘ならなさについて暫し煩悶するのであった。
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