jujutsu
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最近の私は兎に角ついていなかった。
天や運と言ったもののみならず、長年に亘って付き合っていた彼氏にも見離されてしまうと、いよいよ精神の安定を欠く始末。それを埋めるべく食事も睡眠も疎かにして仕事に打ち込もうとしたが、自棄っぱちでは悪手にしかならなかった。痛め付けられた心身で成せるパフォーマンスなんて高が知れている。大なり小なりミスをしては、上司に叱責され、方々に頭を下げて回る日々。ストレスは何時しか雪だるま式に膨れ上がっていた。こうなったら酒の力を借りて一時の安楽を得よう。今日の失敗のツケを残業で支払った私は、不穏当な思考に突き動かされて、退勤したその足で手近な大衆居酒屋に飛び込む事を決めた。
赤っぽい照明のもとでがやがやと賑わう空間。其所でひとり湿っぽく、カウンターの隅っこを陣取ってかぷかぷと空きっ腹にアルコールを染み込ませていると、不図、後ろから一つの声が掛けられた。
「景気が良いな。」
一人で飲んでいる女性客は私の他には見当たらない。酔客が冷やかしに絡んで来たのだと決め付けて、これは良い八つ当たり先が出来たものだと、正当性を訴える嗜虐心が醜く喜んだ。
振り返るなり、切り付けるようにぎろりと睨んでやる。初めに、だらしのない黒色のスウェットが目に入った。場によく溶け込んでいるところを見るに、近所に住まう常連客だろうか。片手をポケットに突っ込み、もう片手にビールジョッキを携えて、見世物目当てに態々他所の席から移って来たらしい。好奇心旺盛な男のご尊顔を拝んでやろうと、険しさを込めに込めた視線を持ち上げてゆく。
「随分とご機嫌で、羨ましいこった。」
難なく往なした笑みは、獲物を前に爪牙を研ぐ肉食のけものめいていた。
ひと目で理解させられた。明らかに真っ当な生き方をしていない。くたくたに弱った女が到底太刀打ち出来るものではない、と。
不味い男に目を付けられたと、咄嗟に逃げ出そうとして、カウンター席から勢い良く立ち上がる――が、酒に漬かった脳味噌も両足も役割を果たしてくれない。定まらぬ重心。ぐわんぐわんと揺れる視界。縺れる足。あわや床に倒れ込むと言ったところで、肩を掴まれた。自分の胸へと引き寄せる男の手は大きく厚く、振り払おうにもびくともしない力強さは、逃避の無意味さを否応無しに心身に刻み付けた。
酔いの回り切った頭が無力感に泣いてしまいたがった。こわい、と幼子のように素直に震えてしまいたかった。
「はなして、ください。」
虚勢を幾ら詰め込もうとちっともしゃんとしてくれない。店員のよく通る声に散らされて喧騒の波に攫われる、私の声の弱々しさと言ったらなかった。だぼついた衣服に秘された逞しい胸板を押して試みた抵抗だって、懇願、と名付けた方が相応しい。
男はしかし、身に纏う獰猛な気配とは裏腹に、気遣いの有るさまで椅子迄案内してくれた。私が確りと座ったのを見て、最初から其所に席を取っていたかのような自然なしなやかさで、するりと隣のスツールに腰を下ろす。
「危なっかしい飲み方してるからだ。水、飲んでなかっただろ。」
お冷や一つ。あくせくとキッチンとホールとを行き来していた店員に、男は人さし指を立てて申し付けた。
不可思議に思ったのは当然の事である。酔い醒ましなど与えない方が、持ち帰るにせよ無体を働くにせよ都合が良い。だのに男は、「気分は?」などと親身の情すら感じられる訊き方をして来るではないか。疲弊した心のひ弱い箇所をいたわり深く撫で摩られて、酔いの力も相俟って涙腺が弛んでしまう。
「最悪の気分です。お気に入りのパンプスのヒールは折れるし、下着泥棒には遭うし、仕事はまるで上手く行かないし、彼氏にはフられるし、本当、最悪です。」
管を巻く気は無かったが、涙を堪えた反動だろうか。うらめしい思いが滔々とあふれ出て来る。事の仔細を語ると、男はビールを舐めながら、「へえ。」とか「大変だったな。」とか、合間合間に相槌を打って聞いてくれた。他人の不幸をつついて肴にしている風ではなく、適当な距離感を取って邪魔にならない位置から掛けられるそれが話し易い雰囲気を作っている事に気が付いたのは、胸の痞を全て吐き出し終えてからであった。
此方を覗き込むようにして首を傾ける仕草も、前髪の隙間から向ける流し目も、唇の薄らとした笑みも、胸をざわめかせる低い声も、人の――女の懐に潜り込む術に長けている。警戒や緊張と言った身を守る為の機構が、会話一つ、目配せ一つで丁寧に剥がされてゆく心地であった。もしかすると、おそれを抱いた儘、ぐずぐずに溶かされているだけやも知れない。この男は、手を出せばたちまちに爛れる劇薬の類いなのだろうから。
一気に捲し立てて喉が渇いた。店員の手によって迅速に届けられていた水をちびちびと口にし、角の丸くなった氷のひと片を含んでちろちろと舐める。横目で見遣ると、男もビールを呷って喉を潤していた。美味そうに上下する喉仏に、頭を抱えたくなるような、得も言われぬ感情に見舞われる。
「何より最悪なのは、悪酔いして悪い男に捕まった事ですけれど。」
「イイ男の間違いだろ。」
軽口を叩く男の思惑を見抜いてやろうと、格好の餌食なりに躍起になる。改めて見ると、成程、堂々と言ってのけた台詞――明らかに皮肉だが――に見合う程には目鼻立ちの整った男であった。華が備わっていない事が不思議でならないが、代わりに匂い立つものがある。噎せ返る程に毒々しい退廃的な色香だ。何で創ったものか知れない唇の端の目立つ切り傷だって、触れてはならない秘密めいていてうつくしい飾りにすら感ぜられる。顔で食べてゆける、とはきっとこう言った美貌を指して用いるのだろうと得心のいく、厄介な風情の色男であった。
カウンターテーブルに頬杖を突いた男が、意地の悪そうな笑みを唇に乗せた。観察の心算が、何時の間にか目を奪われていたらしい。揶揄されるかとばつが悪くなったが、男はと言うと気にした様子もなく、可笑しそうに親指で背後を示した。
「最悪ついでに、あそこに座ってる若い奴等に狙われてたって知ってたか?」
「……知りませんでした。」
「だろうな。俺が声をかけてやらなかったら、今頃、ホテルにでも無理矢理連れ込まれてたんじゃねぇの。」
「それはどうも、ご親切に。恩着せがましく、私の貞操を守ってやった、とでも?」
取り澄まして言ってはみたものの、忍び寄って来ようとしていた危険に怯えて声が固くなったところは否めない。
男が不意に椅子を近付けた。距離が詰められる。傍目からは知人、友人、恋人のいずれかの関係に映っている事であろう。強がる頬の強張りを、男は容易く見透かしてしまったのだ。「ありがとう、ございます。」。謝るべきかとも思ったが、口を衝いて出たのはお礼の方であった。
牽制しているのか、私を食いものにしようとしていると言う男達の方を剣呑な眼差しで一瞥した後で、男がわらう。肩を竦めてせせら笑う。
「慈善事業は性に合わねぇんだよ。」
空となったビールジョッキを奥へと遣って、男は卓上に片手を置いた。
「俺にも下心があってな。――残念だったな。精々、好きなケダモノを選べ。」
小指と小指が触れ合いそうな位置に置かれたそれは、私が自ずから手を取り易いようにしている。選べと言っておきながら誘っているのだ。念の為に、肩越しにそろそろと後ろを窺おうとする。が、無為に思えて直ぐにやめた。
近頃は碌な目に遭っていない。食い散らかされて瑕疵が増えたところで、目立つ傷になんてなりやしないだろう。捨て鉢な考えだが、これが転機となる事を期待する自分が居るのも事実であった。
何時もは選ばぬ道を選んでこそ、運命とやらは変わると言う。
如何せ変えられるならば、如何せ逃げられないのならば、このひとに歪められたい。
名も知らぬ男の小指にそうっと触れ、手を重ねて、指を絡める。下心を、欲を、受け入れると温度で伝える。鋭い形をした双眸が北叟笑む先で、底に残った冷や水をひと息に胃腑に流し込んでみても、仄暗い昂りは冷める事がなかった。
それから如何様な遣り取りをしたのかだけが、頭に十重二十重に靄が掛かったように思い出せない。男に支えられながら居酒屋を出て、明かりの乏しい道をふわふわと歩いたのは覚えている。近くのホテルの一室に雪崩れ込んだ事も、其所で交えた吐息の熱さだって、鮮明に覚えているのに。
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夢から覚めた、と表現するには余りにも生々しかった。
熱にすっかり溶かされて朧気になった、自分の輪郭。一度手離した意識が少しずつ馴染んでゆくに連れて、浴室から微かに漏れ出るシャワーの音が捕らえられるようになると、居酒屋を出る前に浴びた冷や水が今になって頭を冷やした。酒の抜け切らない身体は只でさえ重たい。内から外から隅々迄を攻め立てられた後となれば、倦怠感はひと入である。起き上がるにも鉄塊でも背に括りつけられているようで難儀した。
情事、とは呼べない行為を終えた男は、今し方、体液で汚れた身体を清めに向かったばかりだ。退室時間迄未だ余裕が有り、終電の発車時刻迄未だ猶予が有る。時の許す限り休んでいたいが、この機会を逃すのも惜しまれた。
ベッドの脇に投げ出された衣服とバッグとをのろのろと掻き集める。財布から紙幣を何枚か取り出して、手頃な場所に在ったローテーブルの真ん中へと目につくように願って置いた。ゆきずりの関係だ。部屋代に色をつけただけの額を置いておけば、追われる心配もないだろう。
ベッドに腰掛けて、ひと纏めにした衣類の中から下着を引き摺り出す。一つ一つ身に着けてゆこうとするが、ブラジャーのホックが上手く留められない。指先が震えてうまく噛み合わない。
何も、男から手酷い扱いを受けて怯み切って、と言う訳ではない。寧ろ、その逆だ。研ぎ澄まされた素肌が晒された時は確かに、拳の一つでも振るわれたらひと堪りもない、と生命の心配をして縮み上がりもしたが、男の振る舞いは至って理知に富んでいた。筋骨にものを言わせて乱暴にされるのだとの覚悟は、飴玉を与えて懐柔するかのような手口でほぐされ、暴力的な迄の快楽を以て骨子から蕩かされる事となった。男の手管は、麻薬、としか形容出来なかった。忘我のひと時を思い返すだに身体の芯が熱されて、浮かされて、溺れてしまいそうで身震いがするのだ。
「風呂、空いた。」
思考に没入していて、男が戻って来ていた事に気が付かなかった。背中に腕を回した格好で間抜けにも硬直していると、「入らねぇのか?」と重ねて尋ねられる。
差した影を降り仰ぐ。暑そうにスウェットパンツを穿いただけの男が、訝しそうな表情で私を見下ろしていた。無駄な肉が削ぎ落とされた鍛え上げられた上半身は、間接照明の柔らかな光のもとに在っても冴え冴えとして、ひと振りの抜き身の刀を彷彿させる。この造形美の肉体が十数分前迄私に覆い被さっていたのだと思ったら、言葉は頭の中を彷徨った挙げ句に消失してしまった。
肩に引っ掛けたタオルで水気を含んだ髪を撫で付けて、男が視線を宙へと遣る。何某かを考えている素振りを暫し見せた後、居酒屋でしたように滑らかな動作で私の隣に座った。軽く押すようにして肩に触れられる。
「やってやる。」
何を、との問い掛けは、下着のホックを掛け違えるばかりの手を下ろされた事で飲み込ませられた。着けてくれると言うのだろう。肩を下って背中に触れる男の手は指先も節も掌も甲も固いが、散々からだを探られた後だ。今更、傷付けられる心配だけはしなかった。
「外した事はあっても、つけてやった事はそうないな。」
く、とバック布が小さく引かれる。何所か猫撫で声にも聞こえる声音に紛れて、ぷち、とホックの掛かる感覚がしたのは直ぐの事であった。甲斐甲斐しい、と言うよりも媚を売っているような献身に礼を言って、さっさと立ち去るべく衣服を着込――もうとする動きはあっさりと封じられてしまった。後ろから腹に腕が回される。
「で、あの金は?」
私の肩口に頤を載せると、男はローテーブルを指さした。其所に在るのは言わずもがな、手切れ金、だが――満足する金額には足りないとせびっているのだろうか。ならばと財布を取りにゆこうにも腕に込められた力は一切弱まる事はなく、武骨な手に触れて、離してくれ、と訴え掛けてもまるで取り合ってくれない。これでは帰る事も叶わない。男の望むところがわからず、私の望むところも果たされず、遂には美人局にでも遭っているかのような心細さに苛まれると、許してください、なんて泣き言がこぼれ出そうであった。
俎板に上げられた鯉の如く口をはくはくと開けては閉じてを繰り返す私の無様な唇を見兼ねてか、答えの期待出来ない長らくの沈黙を厭うてか、男は小さな溜息を吐き出した。
「聞き違えたか? 俺は、飼ってくれ、って言ったんだがな。」
続けられた言葉の調子を鑑みるに、しみじみとした呆れから転び出た溜息だったのだろう。それでも不機嫌さは感じられなかったので、安心して聞き慣れない単語をゆっくりと噛み砕く事が出来た。「貴男を、飼う。」。人間を、飼う? 噛み砕く事は出来たが、嚥下出来る内容ではなかった。
未だ酒精に浮かされているようにぼんやりとした繰り返しを気にもとめず、男が、「ああ。」と短く軽く応じる。
「居酒屋を出る時に話しただろ。行く当てが無いから面倒見てくれ、って。」
そんな話、しただろうか。だとしたら、事に及んだのは売り込みの一環なのだと、それだけは察せられた。
記憶を繋ぎ合わせようとも、酩酊していた所為で掴み損ねたものが数多くある。散らばって纏まらない情報にうんうん唸っていると、取り落とした約束を代わりに拾い上げるみたいにして、男が私の片手を掬い上げた。その儘自分の頬に持ってゆく。
「悪い話じゃねぇ、だろ?」
蜂蜜でも含んでいるかのような甘ったるい声が鼓膜に注ぎ込まれた。次いで、手の平に擦り寄られる。ぞくり、とした。野生の狼や獅子と言った荒々しく猛々しい獣を手懐けたとて、これ程の高揚は得られないだろうと思えた。
首を傾けて、灰をまぶした青色のまなこと視線を交わす。美しいけものは、静かに答えを待っていた。切れ長の目を冷たく光らせて、静かに。
此所で断ったら、彼はあっさりと私を解放するに違いなかった。ローテーブルの上の金を手に、引っ掛けられそうな女を新たに見繕いにゆく背中がはっきりと見える。それを引きとめる自分の姿も。――私の心は、既にこの男の手の平の上に在るのだろう。
「そう、ですね。よろしくお願いいたします。」
これからよろしく、なんて言うのも奇妙な気がしたが、然りとて何と言ったものかもわからない。
嗄れた喉から漸く絞り出された事務的な調子が琴線に触れたのか、将又衣食住の確保が出来た喜ばしさからか、男はくつくつと機嫌良く笑った。悪戯なさまで腹を撫でられたかと思えば、ぐ、と引き寄せられる。端から衣服の隔たりは存在していなかったが、これで本当に一分の隙も無くなった。露な背中に男の肌がしっとりと吸い付き、体温が満遍無く伝わって来る。嘗て付き合っていた恋人とは異なる熱さが、甘い毒のように染む。思わず為した身動ぎは、戦慄きにも似ていた。
「うぶな反応だな。悪くない。」
私の手を頬から離すと、男は今度は手の甲に愛撫のような口付けを施した。忠誠でも誓った心算か。軽薄そうな唇で。余りにも似つかわしくなくて、上等な冗談らしくて、私の喉にも笑いが込み上げて来た。
持ち帰られるのではなく、持ち帰らせられた、訳だが――慣れない事はしてみるものだ。
一線を踏み越えると運命が変わった。今は、気がするだけだけれど。
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