jujutsu
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あれ程に五月蝿かった蝉の鳴く声が遠退く。
数分前迄高鳴っていた胸の鼓動すらもぴたりと止んで、世界は無音に支配された。
「当主様、今、なんと――」
「悟に房事の手解きをしてやれ。その内に見合いをさせる。今は好きにさせているが、高専を卒業し次第、世継ぎを残して貰わねばなるまい。」
夏の盛りだと言うのに、底冷えがする。
▼
今朝方に遣った打ち水が既に跡形も無い事に辟易した。
天上から降り注ぐ燦々とした威光には、一片の容赦も感じられない。生きとし生けるものを憎悪し赫怒しているかのように、万物を頭より焼き焦がし、地面から照り返して肌を嬲る。
立っているだけで着物の内側がじっとりと湿る溽暑の中、私は門前に出て、彼のひとの到着を待ち続ける。幾らかした頃。陽炎燃ゆる人気の無い道の向こうから、背高の影法師がやって来るのが見えた。
瞬間、身体の隅々に至る迄、新鮮な生命が吹き込まれた心地がした。心の臓が叫ぶように大きく脈動する。
「悟さん。」
御名をこぼした唇は、震えていた。
帰省に際して車を手配すると事前に申し出ると、仰々しいと素気無く断られてしまった。公共交通機関と徒歩で帰ると聞いた時は気が気ではなかったが、些かの遅れはあったにせよ、お一人の力で此所迄無事に帰って来られた。杞憂に終わって何よりであり、蝶よ花よと育てられた彼が自力で電車の切符を買えるようになっただなんて、お世話を任されている身には感じ入るものがある。
驚いた事は他にもある。最寄りのバス停から五条邸迄は結構な距離がある筈だが、悟さんの足取りと言ったら軽やかで、泥濘みたいに重く粘つく暑さをものともしていない。遠目に見ても涼しげで、彼の居る一画だけ避暑地でも切り貼りしたかのようだ。可視光線か赤外線か紫外線か、何某かに対して術式を用いているからなのだろう。一層磨かれた術式に舌を巻かざるを得ない。
男子三日会わざれば刮目して見よ、とは言うが正しくその通りであった。玉の汗を浮かせている自分が俄に恥ずかしくなって、袂からハンカチを取り出して念入りに額を拭った。
白の半袖ティーシャツに黒のトラックパンツ、そして荷物はボディバッグ一つきりと言う、身に着けたものの仔細が視認出来る距離になると、彼の方も私の存在に気が付いたらしかった。気軽なさまで片手が上げられる。
思わず一歩、二歩と前に出た。早く御顔が見たいと願う魂に急かされる。気忙しい私の振る舞いを見兼ねたのか、悠然としていた悟さんの歩幅が大きいものとなった。あっと言う間に門迄辿り着いてしまうと、ひと呼吸置いた後、彼の唇は堪えていたものを解くようにゆうっくりと綻んだ。
「ただいま。夢子。」
「おかえりなさい。悟さん。」
また少し背が伸びたのだとは、彼を見上げる首の角度で気が付いた。高いところに在る白と青のコントラストは、背負った夏空に溶けてしまいそうだった。
妙なる光景を一心に見詰める私はぼうっとして、熱に浮かされて見えたのであろう。は、とすると、悟さんが目の前で手を振って意識の有る無しを確かめていた。サングラスの奥の瞳の訝りように、咄嗟に会釈をして誤魔化す。その時にうなじを伝ったひと筋の汗を見付けられてしまったのだと思う。私が顔を上げると同時に、悟さんは、「オマエさあ。」と語気鋭くも、心底からげんなりとした声を放った。
「いつからここで待ってた?」
「お電話があってから、お待ちしておりました。」
「何十分前だよ。これだけ暑かったらハチ公だって切り上げて日陰に行くわ。」
荷物を持とうと差し出した手が握られる。汗ばむ事のない、さらりとした手だった。対して私の手と言ったら、触れられるのが申し訳無くなるくらいに汗水漬くとなっている。「お離しください。」と泡を食って願い出るが、悟さんは素知らぬ振り。その儘無言でずかずかと門を潜り、屋敷へと引っ張って連れてゆかれる。
「目が離せない側仕えってどうなんだか。」
皮肉気にぼやいた彼に強がりの一つでも返そうとしたが、焼石宛らに熱された身体の方は正直極まりなかった。霧のようにしんとした涼しさが満ちる家屋に入るなり、喉に詰めていた虚勢の悉くが安堵の吐息と変わってしまった。
確かに、長く日に当たり過ぎたのだろう。目が軽く眩めいてもいる。視界に蓋をして遣り過ごそうとすると、三和土に上がり込むと同時に離れた悟さんの手が、今度は私の片頬へと伸びて来た。骨張った手の甲が当てられる。
「熱っ! もう良いから、部屋行って休んでろよ。」
「大丈夫です、少し休めば。喉が渇いたでしょう。只今、お茶をお持ちいたします。」
「じゃあ、俺とオマエの二人分、用意しといて。」
頬をするりとひと撫でされると、身体に溜まっていた嫌な熱が残らず取り去られるようだった。
靴を脱いだ悟さんが大股で廊下をゆく。履き物を揃えながら窺った背中は、奥まった所に在る自室とは別の場所に消えようとしていた。
「どちらへ?」
「親父のトコ。帰って来たって報告しとかないと、後で五月蝿いからな。」
さ、と。血の気が引く音を聞いた。
朝方に賜った厳命が、耳の奥でわんわんと谺する。
悟さんにも直々に告げられるだろうか。
「待っ、」。思わず制止の声を上げかけて、直ぐ様に噛み潰した。それが当主様のご意向であるならば、此所で彼を引きとめたところで何になる。
耳聡くも聞き付けた悟さんが、言葉の続くのを振り返って待ってくれている。不自然にならないように、調子に気を遣って適当なものを接ぎ合わせなければ。
「――手洗いとうがい、なさってくださいね。」
「ガキかよ。」
顰めっ面で吐き捨てると、悟さんは足音荒く、彼にとっては父親に当たる当主様の御座す部屋へと向かった。
――如何か、如何か。痛いくらいに締め付けられた心臓の相手に精一杯となった私の身体は、何とも知れぬ神に益体も無い祈りを捧げなければ動き出せなかった。
▼
我が家系は代々、五条の家にお仕えしている。
五条悟様と言う、五条家待望の無下限術式と六眼の二つを備えた稀代の御方がお生まれになると、誰がお側に侍るか、それはもう侃々諤々の話し合いが為されたと聞く。そんな中で誰も彼もを差し置いて彼の側仕えを任じられたのは、当時五つになったばかりの幼い私であった。選出理由は単純だ。悟さんとは比べるべくもないにしても、いざと言う時に誰よりも頑丈な盾となれるくらいの呪術の才が宿っていたからにほかならない。私は、人の力では左右しようのない、天よりのその贈りものに感謝しない日はなかった。生まれながらにして呪術界の頂点に立つような御方をお守り出来る事は一族の代表として誉れ高く、個人としての私の日々だって、年格好の近い彼の成長を間近で感じられる喜びで満ちていた。
しかし、それが今は如何だ。私は何時からか、悟さんの事を一人の男性として意識し始めていた。
人生の殆ど全てを一緒に過ごして来たからこそ、切っ掛けは幾つもあった。世界を一変させる圧倒的な存在感に触れた、初めて顔を合わせた瞬間。様など付けずに呼べと仰せになられた、彼の名前を繰り返し呼んでは後を付いて回った日。夜通し対戦ゲームをした所為で二人してくたくたになり、日の射し込み始めた部屋で寄り添って眠った朝。大人達に秘密で二人で屋敷を抜け出して街に出て、当主様や両親に酷く叱責された夕暮れ。成長痛に苛まれて苦しむ彼の御御足に手を当てて過ごした夜更けには、珍しくも、「悪い。」との言葉を貰った。
手を焼かされた記憶すらもいとおしい。これは深々と降り積もっていった、穏やかな恋だった。――穏やかな恋、だったのに。
「――熱い。」
力強く握られた手からだけ、何時迄経っても熱が抜けない。
呟きに呼応するように、開け放した障子戸から風が吹き込む。新緑の項垂れる茹だる中庭から到来したそれは、微温湯みたいな一陣だった。畳を舐め上げて藺草の香りを巻き込み、四隅を行き交い、散る。畳敷きからも、文机からも和箪笥からも、ブラウン管のテレビからもゲーム機からも、十余畳の広々とした部屋のいずこからも埃が舞い上がる事はない。主が不在の間でも掃除は欠かさなかった。置いて行かれた私には、それくらいしか気を晴らす術がなかったのだから。
悟さんが東京都立呪術高等専門学校に入学される運びとなった時、当然、私も付いてゆくものだと思った。目論見ではなく、自然な成り行きとして疑いもしなかった。だが、彼から言い渡されたのは、五条の屋敷にとどまるように、との沙汰であった。幾ら理由を問うても、「オマエのコスプレになんて興味ねぇよ。」なんて五つの年の差への揶揄と、「夢子はそこに居るくらいが丁度良い。」と言う謎めいた答えしか返って来なかった。機嫌を損ねる事をしでかしてしまったから同伴を許されないのか、と思い煩いもしたが、一週間食い下がっても答えは変わらなかった。
「俺が居なくてさみしいからって泣くなよ。」との軽口が意地悪な笑顔と共に押し付けられた、春。桜の散り始めに、彼は別天地へと一人で出立した。それから三年生になった今夏迄、此所へはお帰りにならなかった。
無理を押してでも付いてゆけば良かった。帰省の目処である盆を迎えるどころか、三日も経たずして私の忍耐は限界を見ようとしていた。彼の居ない人生と言うものが私にとって如何に空虚であるかを思い知らされた。胸に空いた大穴を別のもので埋めるようにして、私はよく働いた。細々とした雑事から当主様の付き人役迄、あれやこれやと仕事を入れて貰い、時間が空けば呪術の修練に励んだ。何かをしていないと穴から吹き付ける隙間風が寒くて、寒くて、凍えてしまいそうで仕方が無かったのだ。
砂を噛むような精彩を欠いた日々の中でも、時折、悟さんから電話やメールが舞い込む事があった。学校で出来たお友達のお話、任された任務のお話、美味しかったお菓子のお話、躓いていると言うゲームのお話。他愛の無い日常が語られる都度に、一つ一つ、世界に色が戻って来るようであった。一言聞く毎に安心して、一言聞く毎に安心したくなって。忙しい学校生活を送っているにも関わらず連絡をくれているのだから、本当は遠慮しなければならない。けれども、もっと聞きたい。そうささやかに強請ると愉快気に笑ってくれるから、電話などは夜遅く迄続く事が屡々だった。
そろそろ来られる頃合いだろうかと、盆に載った薄口のグラスに冷茶をたっぷりと注ぎ入れながら、久方振りに会った彼の姿へ思いを馳せる。随分と見違えた。笑い方も変わられたようで、門前で向けられた口もとの有りさまは、慣れ親しんだ達観した冷笑とは程遠かった。余程良い友人に恵まれて、楽しい学校生活を送られているのであろう。僅かばかりのさみしさが小さな棘となって差し込むが、真実、喜ばしく思う。その時が永く、末永く続いて欲しいとも。
「高専をご卒業なさったら――お世継ぎを――」
当主様のご意志をなぞると、薄緑の海の中の氷が、かろりと音を立てて崩れた。ふた度の寒気が忍び寄って来る。
彼に世継ぎを残させる為に見ず知らずの女を悦ばせる術を教えろ、だなんて。
「酷な事を仰有られる。」
庭の若木に一匹の蝉が取り付いた。ヂ、と短い前置きを済ませて、腹を振動させて力のあらん限りがなり立てている。絶望すらも思い上がりだ、と責め立てられている気にすらさせられた。
「――、」
不意に、ぎいし、ぎいし、と板張りが鳴き出した。
主人の到来を知らせるものだが、今の私には死神の足音にしか聞こえなかった。
この事が悟さんにも伝えられているとすれば、一体、どのような顔をすれば良いと言うのか。決められずに顔を伏せると、汗を纏ったうなじがひやりとした。首を露にして、まるで断頭台に登ったかのようではないか。膝の上に載せた手を見詰める。すっかりぬくもりを忘れて微かに震えていた。
ぎし、と鳴るのを最後に、足音が変わった。敷居を越えたのだ。一畳、二畳、三畳と踏み越えて、足が止まった。固唾を呑んで、出方を待つ。
「扇風機くらいつけろよ。」
スイッチを入れる固い音がする。静かな唸りを上げて羽が回り出し、部屋に蟠っていた空気が循環する。
恐る恐るおもてを上げてみる。悟さんは首を振る扇風機の真ん前に陣取って、盆の上をついと指さした。
「それ、葛饅頭?」
「はい。ようく冷えています。」
「上出来。」
そう言うと悟さんは手を伸べた。盆を持って近く迄寄り、緑茶と氷で満ち満ちたグラスを手渡す。受け取るなりひと息に呷られた。「あー……。」と眉間に皺を刻んで小さく呻いているところを見るに、急に冷たいものを摂取した所為でキンキンとした痛みが頭に走っているのであろう。
気取らない姿にひと先ずの安堵を得る胸の前へ、ずいと腕が突き出された。結露で滑らせないように注意を払ってグラスを取り上げ、お代わりを注ぐべく冷水筒を取ろうとする。と。悟さんが私の膝に頭を預けて寝転んだ。
「何の心算ですか。」
「膝枕。」
「していればわかります。お疲れならばお布団を敷きますけれど。」
「これで充分だよ。」
悟さんは横向きになって盆へと手を遣ると、探り探り黒文字を摘まみ上げた。流れるように陶の器の上でぷるりと揺れる葛饅頭を目掛けるものだから、グラスを置いた手で透かさず叩き落とした。
「お行儀が悪いですよ。」
「だったら食べさせてよ。はい、あーん。」
「喉に詰まらせますから、駄目です。」
涼を求めてぽっかりと開いた口は大人しく噤まれたが、唇の尖りようには拗ねた子どもの面影が宿っていた。
甘えられるのは素直に嬉しい。望む全てを端から叶えて差し上げたいが、こればかりは容認出来ない。
「食べたいならば起き上がってください。」
「何? 重たいって?」
「言っていません。」
「じゃあこの儘で。」
ごろりと仰向けになると、そうっと目蓋を伏せられた。
雪膚に仇為す恐れのあるサングラスを外して気付いた事だが、無防備なかんばせに薄らと汗が浮いている。雪の精の如きすがたかたちにも汗腺は存在するのかと、不可思議な気持ちを抱きつつ、扇風機と共に用意しておいた団扇を携える。ゆったりと扇いでそよ風を生み出し、暑気を追い払うと、弛んだ唇から微かな息が漏れるのを聞いた。今しも寝息に変わりそうな息遣いは、安楽を得て心地好さそうだ。
転た寝されるのであれば押入からタオルケットを取り出して差し上げるべきなのだろうが、最早手遅れだろう。悟さんは膝から退く気は無い。掛かる重みが雄弁に語っていた。
――この分だと、彼は聞かされなかったのだろうか。なれば如何する。当主様は何時何時迄に、と期限は設けられなかった。五日ばかりのご滞在の間、隠してしまおうか。裡に秘めた儘、夜を越えてしまおうか。
胸に縮こまっていた安堵が伸びやかに身体をめぐろうとする気配を感じ取りでもしたのか。ぱちり、と真っ白な縁取りが凝らされた目蓋が上がり、青い光が閃いた。覗き込んでいた私の頭が、両の長い腕によって絡め取られる。首を捩って脱しようにも敵わず、鼻先が触れ合わんばかりの近距離迄引き寄せられる。其所は嘘の吐けない距離だった。
「誰かにいじめられた?」
「そんな、まさか。」
「だったら何で泣きそうな顔してんだよ。俺に会えて嬉しい、って顔じゃないだろ。それ。」
見据えられる居心地の悪さを振り切りたくて、視線を他所へと逸らす――事は許されなかった。「逃げんな。」とのご命令に退路を塞がれる。
格別のまなこだ。秘したものを見通されてしまいそうで、見詰め返す事はおそろしく勇気が要った。それでも覆い隠そうとして、唇をぐいと吊り上げて取り繕ってみせる。
「嬉しいですよ、ご成長を確かめられて。ご立派になられましたね。」
納得していないと眉の形が訴えて来たが、こればかりは嘘ではない。
大人びる精悍な顔立ち、均整の取れた頼もしい体躯、鼓膜を甘く掻くような低い声、比肩し得る者のない呪術の才覚、捻くれているからわかり難いだけの清い心根。長い指を備える男らしい手の輪郭だって、余す事なく美しい。彼からどれを取っても、世の女性は放って置かないだろう。縁談の話を持ち掛けずとも引く手数多に違いない。
手を重ねると、それが鍵だったかのようにすんなりと拘束が解かれた。
悟さんが身体を起こす。二の句が継がれる前に、私も立ち上がる。
「夕食の準備を手伝って参ります。折角起きたのですから、お菓子、召し上がってくださいね。」
努めて冷静に畳の上をゆき、縁側に出る。床鳴りが彼の代弁者となって足を止めようとしている気がした。踏み散らして前へと進む。進む。角を曲がり、彼のひとの目の届かない所迄来ると、足が縺れて無様にも転倒した。
床に這いつくばる私の傍らで、恋に焦がれた亡霊が嘲笑う。
お前はいずこへも進めずに置いてゆかれるがさだめだと。
▼
ひと通りの立ち居振舞いは仕込まれていたが、側仕えと言っても何を志して何を為せば良いのか、初めの内はわからなかった。両親に尋ね掛けようとも、悟様の身の回りのお世話をして彼をお守りする事だと、何よりもご機嫌を損ねない事がお前の為すべき事だとしか教えられなかった。其所には強大な力への畏怖があったのやも知れないが、幼い私には深くは理解出来なかった。
只、年の近い子は周りには珍しかったものだから、仲良くなりたかった。
出会ったばかりの――私が十を数えた頃は、不慣れなりにあれこれと大きなお世話を焼いて、手を尽くそうと躍起になっていた。街にゆくと言うので護衛役を申し出たら、誰も自分に敵う道理がないのに、と鼻で笑われたりもした。当時の悟さんは今よりもずっと冷ややかな方で、今以上に斜に構えている方だったので、遣る事為す事兎に角手応えが無かった。
役割を否定されているようでさみしくなった私は、或る時、取り縋ったものだ。何をしたらあなたのためになりますか、と。
そうすると悟さんは、それが運命であるかのように厳かに告げた。「ずっと俺のそばにいろ。」と。
その言葉を信じて来た。信じて来た筈が、気付かされてしまった。ずっと、は無いのだと。小さかった悟さんの背丈が私を追い越して行ったのと同じで、私の抱いていた思慕が何時しか恋慕に変じていたのと同じで、変わらないものはこの世の何所にも無い。
悟さんは呪術界でも屈指の名家である五条の家を受け継ぐ御方だ。選りすぐりの中から相応しい婚約者に恵まれる事だろう。こうして学校に通えたのだから、女生徒と恋愛結婚と言うのも良い。彼の言う事ならばきっと、当主様も一族の方々も飲まざるを得ない。
――けれども、私は。私は、奥方となった女性と幸福そうに笑う悟さんの姿を祝福し続けられるだろうか。一番近くで、生命の尽きる迄。
日が傾き始めた。世界と無理心中でもしようとしているかのように、太陽が地平線のそばで赤々と燃えている。
近く、夜が、来る。
「――いっその事。」
男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがる。そんな迷信を、一体誰が口にしたのか。
中庭を渡る風は熱く湿り気を帯びている。情交の吐息みたいだ。深く胸に取り込むと、腹が決まった。
▼
夕食は当主様と取られるとの事であったので、私は胸を撫で下ろした。彼だって、他者が同席している場で秘め事を暴こうとする程、無神経ではない。世話をしている最中も膳を下げる時も言葉を交わさずに済んだのは僥倖と言うべきで、一言でも交わしてしまえば決意がぼろぼろとこぼれ落ちてしまいそうであった。脆い覚悟だと自嘲するよりないが、それも此所迄だ。
私が側仕えの仕事を為し終えた頃には、夜の帳は降り切っていた。臥し待ち月が顔を出すには未だ幾許の猶予がある、夜半。念入りに、念入りに身体を禊いだ後、彼の部屋へと向かう。無明の中を、行く。彼の部屋に、行く。
縁側に出ると日が落ちて更に湿気った空気が、清潔な身体を汚そうと纏わり付いた。薄く汗が滲む。重たい夜気の所為なのか、卑怯な真似をする後ろめたさから染み出したものなのか、自分にもわからなかった。
「――悟さん。」
ケラやコオロギが鳴き声を叩き付けて来る、ざわめきの夜だ。口の中で溶かすようなひっそりとした呟きでは聞こえていないやも知れない。
ふた度、入室の是非を問おうと口を開く。先んじて、「どーぞ。」と小ざっぱりとした許しが下った。
「失礼、いたします。」
障子戸は電灯の明かりを透かして白く煌々とし、触れる事を躊躇わせる潔癖さを漲らせて主人を守護奉っている。
だから如何したと言うのだ。夏の夜は短く、迷っているいとまなど有りはしない。すらりと戸を開ける。狼藉者を押し流そうと、光が洪水となって押し寄せて来た。圧されぬように、一歩、踏み込む。
待ち構えていたのは、殊更に神妙な顔付きであった。
「来たな。で、なんかあった?」
敷いておいた布団の上で胡座を組んだ悟さんが、昼の話の続きを顎で促す。
障子戸が一度でうまく閉められなかったのは、極度の緊張が手指をこごらせたからだ。逃げ道を残す心算なんて、心の何所にもある訳がない。――然りとて、止まれば止まってしまうのだろう。
怖じ気を薪とした焦燥に炙られて、足早に悟さんの御前にゆく。正座で座り、三つ指を突いて畏まり、こうべを垂れる。
「僭越ながら、房事の手解きをしに参りました。」
「いらん。」
予想はしていた事なので動じなかった。一度、頭を上げる。羽虫を払いでもするかのように手を振る悟さんの表情と言ったら、ともすれば術式の一つでも使って家を焼き払ってしまいそうな程に心底から不愉快そうなものだった。
「親父に言われて来たんだろ。」
矢張り、聞かされていたのか。
隠し立てする必要も無くなった事で大人しく首を縦に振ると、「余計な事しやがって。」と不機嫌な舌打ちが放たれた。共犯者である私にも直ちに追い討ちが掛かる。
「っつーか手解きも何も、オマエ、処女じゃん。出来んの? 出来ねぇだろ。」
「それは、そう、ですけれど。でも、身体の作り自体は世の女性と然程変わりません。」
図星を指されてからからとなった喉からやっと絞り出した言葉は、只でさえ煩わしそうにしている彼の不興を買ってしまったと見える。射かける剣呑な眼差しが冷たく燃えてゆく。苛立ちを僅かでもほどく為のその長息は、唾棄しているようにも、嘲っているようにも聞こえた。
「そんなにヤりたきゃ一人でヤれよ。」
「――、わかりました。」
「は?」
悟さんの言う通りに、確かに私は男の人を知らない。悦ばせる心得も持ち得ていないし、悦ばせる仕草に心当たりも無い。それでも、その気にさせる事が叶うだろうか。
血が通わずに白くなった指先を襦袢の襟にかけて、披いてゆく。肩をはだけさせたところで、悟さんが酷く慌てた様子で被さって来た。強い力で両の肩を捕らえられて、動きを押しとどめられる。
「何してんだよ、オマエは!」
「貴男が仰有った事ではありませんか。その気にさせろ、と。」
「言ってねぇし、何でもかんでも言いなりかよ!」
「言いなりでこんな事が出来る訳がないでしょう!」
大きないかづちみたいな金切り声。斯様な声が自分の喉から迸るだなんて。落雷に打たれて息絶えたように、虫の音もぱたりと止んだ。
暫くの間、いっそ平穏にすら感じられる夜のしじまの中にこの部屋は浮かんでいた。
「――だって、」。静寂を破ったのは我知らぬ雨だった。畳にばたばたと、みっともなくも大粒の涙が降り頻る。
「だって、私、本当に、貴男を他の誰にも触れさせたくないんです、それが無理ならば、せめてこの機に、せめて今宵限りでもと思って、」
途切れ途切れに語ると、肩を掴む手が強張ったのがまざまざとわかった。わかってしまった。――嗚呼、駄目だ。
「薄気味悪いですよね。これきり、側仕えの任を解かれても――」
「誰が解くか。いや、将来的には解くだろうけど。」
水浸しの瞳では、悟さんが如何様な表情をしているかわからない。打っ切ら棒に言われた事の意味も解せないが、改めて力が込め直された手の熱さが心地よい。
「ちゃんと言えよ。それがどう言う感情なのか。誰が、欲しいのか。」
チカチカとする青色は夜空に一等煌めく天狼星のようで、不鮮明な世界の中でしるべとなる。
何時だってその輝きを見逃したくなくて、とめどない涙を袖で拭う。
悟さんの双眸は、これ迄共にしたどの瞬間にも見た事が無いくらいに真剣で、なにかを期待して熱っぽく光っていた。
長らく秘めていた感情が、堰を切ってあふれる。
「好きです。悟さんのすべてが欲しいです。」
泣いてしまうのでは。そうどきりとするような表情を滲ませた悟さんは、徐に私の肩口に顔を埋めた。深々とした溜息がしみじみと吐き出される。かと思えば、高らかに朗らかに笑い出したではないか。
「欲張り。」
「そのようです。」
「すべて、なんて簡単に言ってくれるけど、受け止め切れんの?」
ゆっくりと御顔が持ち上げられる。肩から離された両の手が、硝子細工を取り扱う以上の慈しみ深さでそうっと私の頬を包み込んだ。少し上向きにされたのでこわごわと視線を合わせてみると、とろりと下がった眦と出会った。
「俺も好きだよ。夢子が思っているよりも、ずっと。」
今、好き、と。目の前のいとしいひとは仰有ったか。
息が止まる。そんなにも都合の良い事が起こり得るのだろうか。頬を抓って確かめる迄も無く、痛いくらいに脈打つ血潮が、私を見詰める彼の甘やかな瞳が、これはうつつであると告げている。それでも口から転び出てしまう。
「うそ、」
「信じられないような男を好きになったのかよ。イイ趣味してるな。」
「違、」と呟く事が精一杯の私に、態とらしくじっとりとした目を向けていた彼が、ふ、と微笑む。いとおしい、と言う感情が詰め込まれているのだろうと有無を言わせずに理解させる、柔らかな頬であった。
わななく唇を、親指の腹で二度、三度となぞられる。寒そうな其所に体温を分け与えるかのようだ。あたたかな手付きに氷解させられて、止まった筈の涙がふた度、込み上げて来る。
「私、良家の出でもないのに。」
「関係無い。後、何年もしない内に俺が当主になるんだし。第一、俺がこの目で選んだ。それで文句なんて出せると思う?」
「思いません。けれども――」
「けど、何? ビビってんの? 今更、立場を盾に取ったくらいで逃げられるとでも思ってんだったら、ナメ過ぎ。」
軽く頭突きをされた後で、額を擦り合わされる。
「ずっと俺のそばにいろ、って言っただろ。忘れてんなよ。」
上目使いに此方の心の窓を覗く彼の口振りは不貞腐れたものだが、それを引き合いに出すならば私にだって言い分がある。
「そうは言いますが、高専には連れて行ってくださらなかったではありませんか。」
「そんなに呪術師になりたかったなんて初耳。」
「貴男のおそばに居たかったんです。何時も、何時までも。」
「だからだよ。――ま、遠距離恋愛も燃えるだろ。」
身を引いて私の濡れた頬を手の甲で拭うと、悟さんは立ち上がった。まるで絵本で見るお姫様にするように恭しく手が攫われたのを合図にして、私も彼に倣う。
現実だと信じた上で、現実味が無い。夢見心地にふわふわとする身体が引かれる先は、もうわかっている。
「今から夢子の全部を貰うわけだけど、覚悟、出来てる?」
「はい。この部屋に来た時から。」
決意は頑ななのに、格好が付かない、緊張で掠れ切ったか細い声が出て来た。「大丈夫かよ。」と余裕も持っていそうに苦笑してはいるが、悟さんの表情とて何所かぎこちなく見えた。
▼
遠くにあった蝉時雨の喧騒が意識を表層へと引っ張り上げた。
やけに、暑い。東雲の青い薄闇がのっぺりと広がる室内で、先ず感じたのはそれだった。次に障子戸迄の距離が普段よりも遠い事に気が付くと、昨晩の出来事が頭の中を駆けめぐり、急速に思考が回転を始めた。結局年上らしいところを一つも見せられなかっただとか、特に熱い横臥の背中の所以だとか、彼が起きたらどんな表情で何を言えば良いのだろうとか。
「起きた?」
不図、後ろから声が掛けられたものだから、大袈裟なくらいに背筋が跳ねてしまった。寝起き、ではないのだろう。少し掠れてはいるもののはっきりとした調子に、何時から起きていたのだろうとの疑問が浮き上がって来る。
だんまりを続けていると、「二度寝すんの?」と、露になった肩に指を這わせる悪戯を仕掛けられる事となった。たった数時間前の記憶を掘り返すには、十分過ぎる刺激だ。余計に振り返れずにいると、肩から這い上がった手によって、無遠慮に後ろから顎を掬い上げられた。可笑しそうな笑い声が鼓膜を擽る。
「狸寝入り下手クソだな。」
喉頸を晒して大きく見上げる格好は起きしなの固まった身体には厳しい体勢で、何よりも、羞恥心は燃え立つばかりで一向に鎮まる気配が無いのだ。今、顔を合わせるのは、大火に油を目一杯注ぐようなものだ。身動ぎをして抵抗――したくとも実行は出来なかった。別段、腹にもう片腕が回されて自由を奪われた訳ではない。
遮光された部屋に於いてもきらきらとまたたく瞳は、晴れた空の取り分け澄んで奇麗なところだけを集めたよう。それを間近で眺められる特権がこの手にあるのだと思うと、恥じらいなんてちっぽけなもの、何所かへと素っ飛んでしまったのだ。
それはそれとして。腰の辺りで丸まっていたタオルケットを手探りで引っ掴んで、肩迄引き上げる。
「……おはよう、御座います。」
声が見事に嗄れている。タオルケットを頭迄引っ被って隠れてしまいたかったと言うのに、聞くなり悟さんはご機嫌な様子で、愛猫にするみたいに喉もとを撫でて来た。
「おはよう。調子、どう。」
「少し気怠いです。それと、暑いです。」
「エアコン無いからな、この家。」
頤を解放すると、悟さんは枕元に予め置いていた団扇を手に取って、そよそよと扇いでくれた。自分も風を浴びて、「あちー。」とぼやいているのに、離れる気は更々無さそうだ。私も心を同じくしているからこそ、こうしてじいっとしているのだが。汗まみれの身体は気持ちが悪いが、それすらもしあわせの実感を伴っていて、とても、とても離れ難い。
「側仕え失格かも知れません。」
「なに、急に。」
「悟さんにお茶の一つでも差し入れるべきなのに、もう少しだけこの儘でいたい、だなんて。」
呆れ果ててしまったのか、長らくの間、蝉の合唱が間を埋めた。
「こっち向いて。」
団扇を置いた悟さんからそう乞われる。言われた通りに寝返りを打って体勢を変えるが、夜明けは正気を引き連れて遣って来るらしい。向かい合うとなると、流石に素肌で密着している事実が恥ずかしくて腰が引けたが、悟さんはお構い無しであった。
頬に手が添えられ、唇を食まれる。眠りに落ちる前にも幾度も施された接吻だった。
「あれだけ愛されたら、彼女の自覚も出来るもんだね。」
反射的に降ろした目蓋をうっそりと持ち上げようとすると、其所にも一つ、口付けが落とされた。耳もとで低い音で笑われ、頬を愛撫される。
残り火が、じわり。身体を芯から火照らせる。
――夏の盛り。彼の腕の中に在って、寒さはもう、一つも感じられなかった。
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