jujutsu
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朝には未だ張られていた規制線が解かれている。
これは私への、草臥れた私への、三時間のサービス残業なる悪徳に打ちのめされた私への、天からのちょっとしたご褒美ではなかろうか。黄色い帯で雁字搦めにされていた遊歩道の入口だって、久方振りに開放された喜びから口をぽっかりと開けて深呼吸しているようにも見える。パンプスのつま先が吸い込まれるようにして進路を変えたのは、必定であった。
そもそも、刃傷沙汰さえ起こらなければ、此所は何の変哲も無い会社への通い道だったのだ。
この辺りはナントカ言う曰く付きのようで、その所為も有るのか、小競り合いがよく起こる。今迄、幸運にも事件やオカルトの類いと無縁で過ごして来た私としては、賃貸物件の家賃が安く設定されている事を有り難く思っている限りなのだが。
点々と設置された街灯は、どれも手入れを待つ木々に埋もれて突っ立っているばかりだ。投げ遣りに放られる薄ぼんやりとした頼りない明かりは、一寸先もはっきりとさせてくれやしない。通い慣れた道の筈だが、鬱蒼とした木立の隙間を縫う影が私のものだけである事に、忽ちに心細くなった。事件から間もない事もあるのだろう。不審者が狼藉を働くとしたら絶好の機会だろうな、との考えが脳裏に過る。刃傷沙汰を起こした犯人は、捕まったのだったか? 身体中に力が入る。警戒心が首をめぐらせる。辺りを見回して、人気の無い事に安堵しながら、隙間風のようにひやりと吹き込んだ不安が自然と足早にさせた。昼間は木漏れ日が優しく降り注ぐこの遊歩道が、今は薄気味悪い。死出の旅路はこのような道を通るのではないか。
一足分のパンプスのヒールの音だけが忙しく響き渡る薄闇の中、気付けば私は、思考を逸らす事に一所懸命になっていた。帰ったら久方振りにお酒でも飲もう。冷蔵庫の中に肴になるものはあっただろうか。コンビニにでも寄ろうか。疲れてしまったから明日の朝ご飯も買おうか。食べる時間はあるだろうか。あるだろう。この道が使えているのだから、明日からは普段通りの出勤時間で良くなる。朝は十分程早く出て、夜は十分程遅く帰る羽目になった、時間泥棒の回り道とおさらば出来たのだ。喜ぶべきだろう。まったく、喧嘩だか痴情の縺れだかには本当に困ったものだ。闇討ちには持って来いの暗がりではあるが――辟易する事に、逸らしたかった筈の思考に戻って来てしまった。
いっそ、走って突っ切ってしまおうか。既に競歩宛らのスピードは出ていたが、更に速めようと足を――
「――、」
足を止める。足が、止まる。目の前の木下闇が縛り付けた。
それは、視界に入れたくもない虫の存在を否応無しに察知してしまう、本能的な働きに似ていた。異なるのは、頭蓋の中で警鐘が激しく打ち鳴らされている事だ。生命を害するものが潜んでいるぞ、と全身全霊に向けて叫んでいる。
なにかが、いる。
不審者でも小動物でもない、なにか、が、いると。
固唾を呑んで、数メートル先の木の影を睨み付ける。
樹木に寄り添う街灯が、弱々しくチカチカと明滅する。
「――ッ!?」
ぬるり、と闇から這い出たすがたかたちの全てを、私は果たして視認出来ただろうか。答えは否だ。世界が一変してしまうような輪郭をはっきり認識する事を、脳味噌は拒んだ。だと言うのに、悪夢じみた光景から目を逸らす事は僅かたりとも許してくれなかった。
ひたり。話に聞く水死体のようにぶくぶくと膨れた足――と思しき部位――が此方に狙いを定める。恐怖を駆り立てようとするように、勿体付けてゆっくりと近付いて来る。
逃げなければ、死んでしまう、と強く思うのに身体が動かない。唯一動いてくれたのは喉だけだが、それも、ヒ、と引き攣るくらいしかかなわない。
人知を超えたおぞましい物体が、地を摺る程に長い、腕らしきものを伸ばす。慰撫しようと言うのではない事は心臓の在処である胸に向かっている事からも明白で、ぎょろりと剥く一つ、二つ、三つ――幾つもの目の全てが、今からお前を殺すのだと嗤っている。
喉すらも遂に硬直してしまった。キャアだかもっとみっともない悲鳴だかがソーセージみたいに気管いっぱいに詰まる。
私は断末魔も上げられずに、訳もわからないものに訳もわからない儘殺されるのか。此所に案内した天を逆恨みする胸に、正に魔手が突き立てられ――ようとした、その瞬間。
突風が、真横を通り過ぎた。
「ハ、ァ、」
圧迫感が、迫り来る死の気配が、俄に霧消した。
詰めていた息を、恐る恐る吐き出す。肉薄していた死のかたちが、吹き散らされたかのように消え去っている。
「低級だ。飲み込んで良い。」
冷淡な音の囁きは、風の吹いて来た方から聞こえた。強張る身体を漸う動かして振り返る。
白熱灯が浮かび上がらせたのは、青年に近しい年格好の一人の少年だった。闇に溶ける黒い制服と、髪と、瞳。面貌だけが白いものだから、大学時代に鑑賞した能楽の面を思い起こさせて、ぞわりとした。
「あの、」。人間であるかの確認をしたかったのだと思う。声を掛けてみると、不図、にこりと笑い掛けられた。途端に生気が吹き込まれたようで、不気味に見えた白い頬は、今や新雪のようにきらきらと光って見える。
「変質者は逃げて行ったようです。大丈夫ですか。」
此方は怯えさせないようにとの気遣い故だろう。少年はゆったりとした足取りで近付いて来た。
見越し入道よろしく、やけに身長が高いな。平均身長ぴったりである私とは大分差が有る。頭幾つ分離れているだろうか、とぼやける頭で計算しようとした矢先に、急速に身長差が縮まった。膝を折って此方に手を差し伸べる彼の姿から、自分が腰を抜かしてへたり込んでしまっているのだと知らされた。
「有り難う御座います。」
丁重に助け起こしてくれる手には張りがある。手の平や甲の若さの割りには、何か格闘技でも嗜んでいるのか、拳は随分と固かった。
手引きされて、自立しようと足に力を込める。込める。込めた先から抜けてゆき、上手に立つ事すら儘ならない。
「大丈夫ですか。」
見かねた少年に肩を抱かれる。その儘、軽々と抱き起こされた。
こくりと頷いてみたが、実際は全く大丈夫ではなかった。何とか立ち上がった儘で居られてはいるが、ヒールを初めて履いた日のように膝が覚束無い。彼も承知しているのだろう。未だに手からも肩からも支えは外されなかった。
年若の子に身を預ける情けなさから、段々と顔が俯いて行ってしまう。と、視界の端っこをなにかがするすると滑っているではないか。
「なに……?」
意識を向けてよくよく見てみる。節足動物になった大型犬くらいのツチノコ、としか形容出来ないフォルムの、生まれてこの方見た事が無い不可思議な生き物だった。体躯に見合わぬ大きさの唇はいやにリアルな作りで、其所がキモカワイイと言えなくもない。
新種の動物かな。学会に発表したら、発見者である私の名前が付けられたりするのだろうか。だが、その珍妙な生物は、明確な意思を持って青年の足もとに侍った。野生の動物とは思えない待ての姿勢は、よく訓練されているであろう事が窺える。如何やら、私の名前が図鑑に載る事は無さそうだった。
「ペットですか。」
「え?」
「その、足もとの子。もしかして、散歩の途中でしたか。」
「そう言う訳では――と言うより、見えているんですね。」
私の様子が落ち着き始めたのを認めてか、少年の手がそろそろと身体から離された。ふむ、と他所へと視線を投げ掛けて、彼が何事かを考え始める。
見えている、とは一体。これ迄通りに生きたいならば追究してはいけない事のような気がして、身体が無意識に一歩、後退った。ぐらりと傾ぎそうになるのを、精一杯の力で踏ん張って堪える。
まばたき五つした後に取って返した黒瞳が、思うところ有り気に私を捉えた。
「家は近いんですか。」
「まあ、その、そうですね。」
恩人相手でも、年下の男の子相手でも、出会ったばかりの人間に女の一人暮らしの住居を知らせるのは流石に気が引けた。
「そうですか。」と呟いた少年が今一度、しゃがみ込む。追って見てみると、あのキモカワイイ生き物は何時の間にか跡形も無く消えていた。逃げたのだろうか。然り気無く周辺を見渡しても居ない。彼はと言えば、まるで初めから存在していなかったものかのように少しも気にする素振りが無い。私の通勤鞄を拾い上げると、土埃を払いながら立ち上がった。そうして。
「送ります。もう夜も遅い。女性の一人歩きは危険でしょう。」
鞄と一緒にそんな提案を差し出した。
大事な大事な財布や鍵や携帯端末等が収納されているそれを受け取る事も忘れて、彼の頭の天辺からつま先迄をまじまじと眺める。
詰め襟に、ボンタン。やや時代錯誤ではあるが、立派な学生服に相違無いだろう。
「貴男、高校生ですよね。」
「専門学校生です。」
違いはわからないが、学生服の、少年と、夜道を歩く。
それが招くものを、社会人である私はよく理解している。
頭の中に、青い制服を着込んだ影がちらつく。「厚意は有り難いのですが。」と前置きをする声は、我ながら苦々しい。
「こんな時間に一緒に歩いていると、職務質問を受けませんか。私が。」
「その時は姉弟だと誤魔化しますよ。会社から帰宅途中の姉と、塾帰りの弟だとでも言って。」
「罷り通りますか。顔立ちも似ていないのに。」
「通らなくても、貴女を放ってはおけない。」
学生に手を出すような不道徳心は持ち合わせていなかった筈だが、中々にぐっと来る真剣な声音であった。
一連の問答は送り狼を警戒しての抵抗だと思ったのだろう。事実、その心配が全く無いと言えば嘘になる。
「どうか信じてくれませんか。」
それでも、私を射つ双眸には真摯さのみが込められているのだから、信じたくもなってしまう。
得体の知れないものが現れ出でた暗がりを振り返る。少年の足もとと交互に確かめて、風が吹き抜けた時の事を思い返す。もしやあれは、化け物に化け物をぶつける、ようなものだったのではないかと点と点とを結び付ける。ならばその道――除霊、とか言うものだろうか――に精通している人間に傍に居て貰えるのは心強い。仮令そうでなくとも、おそろしい体験をしたばかりだ。此所で一人きりで放り出される方が余程堪らない。
長らく持たせてしまっていた鞄を受け取りつつ、小さく頭を下げる。
「よろしくお願いいたします。」
目を細めて力強く頷いてくれた少年は、年齢以上に頼もしく感ぜられた。黒衣に包まれた腕が、示すようにして軽く持ち上げられる。
「貸しましょうか。まだ、一人では歩けないでしょう。」
「姉弟で腕を組んで歩くのはおかしいでしょう。」
「それは確かに。だったら、年下の恋人、と言う事で。」
穏やかな表情はポーカーフェイスじみていて、真意が読み取り難い。少なくとも下心は無いだろう。ならば完全に冗談だ。真面目そうな少年が浮わついた事を言うアンバランスさが、背伸びをしている子どものようで微笑ましい。緊張の解けた心に可笑しく響いて来て、フ、と肩の力と共に息が抜けた。
「冗談が上手ですね。」
「やっと笑ってくれましたね。慣れない事を言った甲斐があった。」
肩を竦める少年の白い頬には、確かに赤みが差している。出会ってから終始落ち着いていた彼が見せた少年らしさに、フフ、と忍び笑いが次々と漏れ出て来る。その内に、少年が咳払いを一つした。如何にもばつが悪そうなさまが可愛く思えたが、口には出さない事にした。
「行きましょうか。歩けないようなら言ってください。手を貸します。それくらいは姉弟の範疇でしょう。」
促されて、我が家の在る方向へ、試しに一歩を踏み出す。二歩、三歩。勢い付くと、のろのろとだが進んでゆけた。これならば手を借りる事もないだろう。傍らを仰ぐ。少年は言葉通りに、何時でも手を貸せる適切な距離で隣を付いて来てくれている。
今は名前も知らない彼だが、このひとが隣に居てくれるならば、夜闇は最早敵ではない。
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