jujutsu
name change!
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
高校の風紀委員会の顧問を思い出させる厳しい眼差しは、トングをかちかちさせるのを今直ぐに止めろと叱咤しているように見えた。
淡い色をしたスーツを着こなすこの男性は、体幹の強さを感じさせるさまで背筋をぴしりと正してパンと向き合っている。余程パンが好きなのだろう。なればトングによる無用の威嚇行為を咎めるのも宜なる哉、と未だ注がれ続ける視線に理由をつけて己を納得させ、会釈をしてこわごわ遣り過ごす。何を思ったものか、間を一つ置いて、男性も会釈を返して来た。
カラオケボックスのパーティールーム程のこぢんまりとした店内は、私と男性、中年に差し掛かろうとする小母様と大学生らしき青年、近くの歯科勤めと思われる白衣の若い女性、それと店頭で売りものの世話を焼く店員一名とで犇めき合っている。パンをトレイに納めるにしろ様子を見るにしろ、壁三面に沿って設置された陳列棚と一台の平台に圧迫された手狭な通路を譲り合い、擦れ違わなければならない。一先ず場を治められはしたが、男性と鉢合ってしまう事になれば気不味い事この上無い。だが、折角、休憩時間に抜け出して来たのだから畏縮してばかりいては損だろう。
勤めている会社から少し足を伸ばした所に在るこのパン屋は、社内でその評判を耳にする事の増えた新進気鋭の店だった。何でも、店主はフランスの何某と言う有名店で研鑽を積んだのだとか。地元に長く愛される店にしたいと敢えて質素な店構えにしたのだとか。クロワッサンが美味しいのだとかいやいやフランスパンこそが絶品なのだとか。此所暫く酷く重たい頭を少しでも晴らせるかと訪れたものだが、まさか知らない男の人にガンをつけられる羽目になろうとは、人生とは全く儘ならないものだ。
隣に立った歯科助手の女性に倣い、私も昼のささやかな楽しみを確保しようと、種々様々なパンがお行儀良く並ぶ棚へ意識を向ける。カリカリのジュワジュワに揚げられた狐色のカレーパン。焼かれたカットトマトが甘そうな具沢山のピザパン。味付けされた高菜がぎっしりと詰め込まれているお焼きパン。ボリュームの有る大きなコロッケが挟まるコロッケパン。そして噂に名高い、ぴかぴかと輝く三日月形のクロワッサン。今日は菓子パンよりもお惣菜パンで胃袋を満たしたかったので、その辺りを重点的に眺める。
不図、背後の平台の真ん中辺りが気になった。見てみると、パリパリの皮とむちむちの生地に明太子のペーストがたっぷりと塗られた明太フランスが、ぽつねんと迎えを待っている。最後の一本である為か、中々手を伸ばされないらしかった。
売れ残りには福があると言う。明太フランスとの間に何色かの糸が繋がれた気がして、すっかり押し黙ったトングを構える。
「少し良いですか。」
横合いから硬質な声が掛けられた。低いその音は理知的な深い落ち着きを持っていたものだから、先程の視線の痛みも忘れて安心して振り仰げてしまった。
「何か。」
声の主であるパンを愛するサラリーマン――とするには何所か形容し難い引っ掛かりを覚えるが――は、変わった形の眼鏡を押し上げると、木目が美しい木組みの台の上で一本きりの明太フランスに目を遣った。それから私へと取って返す。
トングを打ち鳴らす真似をしていないからか、レンズの奥の瞳は穏やかに凪いでいる。だと言うのに剣呑さは失われておらず、寧ろいや増しているようにも思われた。実はこの店に爆弾でも仕掛けられていて、それをこっそり教えてくれようとしているのではないか。なんとも突飛な想像だが、男性の真顔の神妙さはそれだけの大事を感じさせた。固唾を呑んで、情報を取り逃さないように身構える。薄く、口が開かれた。
「――明太フランス、新しいものがもう直ぐ焼き上がります。」
予想だにしていなかった案内に、ヘ、と素っ頓狂な声を上げてしまった。明太フランスがもう直ぐ焼き上がる。鼓膜に届けられた情報をお復習する。機械音声のアナウンスじみた事務的な調子だったが、冷たさを僅かも感じなかったのは、態々知らせてくれたこのシチュエーションの為だろうか。
男性が、すい、と店内を見回す。「他の方はそれを待っているんでしょう。」と一言付け加えた。そう言われると、店内の客は併設されている厨房の方をちらちらと窺って、手持ち無沙汰に他のパンを冷やかしているようにも見える。入口には今か今かと中を覗き込む人影もあるではないか。
数多の人間を虜にする程に美味しいのか、焼き立ての明太フランス。その人気に一見さんの私は呆気に取られるが、何よりも、この男性の事が気になってやまなかった。焼き上がりの時間を熟知しているだなんて、所謂、通の方なのだろうか。ぽかんと、日本人男性の平均的な位置よりも高い所に据えられている顔を見上げる。不躾を気にする事もなく、男性が自然なさまで腕を伸ばす。その先には、孤独に冷め切った明太フランスがあった。清潔な銀に光るトングが明太フランスを確りと挟んで、トレイの上で身を寄せ合うパン達の一員に加える。
「折角ですから、焼き立てを食べてください。――それと、少し失礼します。」
トングをトレイに置くと、男性は嫌みの無い仕草で、私の頭にそうっと手を置いた。かと思えば、それは正に一瞬の出来事だった。袖口から柔軟剤か香水かと思われるにおいが仄かに香ったと感じるのと、軽く払うようにした手が下ろされたのは同時であった。
「髪に糸屑がついていました。」
変わらぬ真顔と朴訥とした声音で以て報告されたが、嘘を言わなさそうな表情の全てに反して、何となく嘘臭く感ぜられた。
それと言うのも、長らく頭痛薬を服用しても良くならなかった頭の重いのが、不思議と奇麗さっぱりと消え失せたからだ。如何にも突然だったものだから、この人が何かをした気がしてならない。今は彼の身体の横に添えられている魔法の手を見詰める。格闘技でもやっているのだろうか。荒れてはいないが固そうな拳は、武骨、と言う単語が似合いで、魔法の手ではあっても魔法使いの手らしくはなかった。
トレイを取り落とさないように気を付けて、糸屑がついていたと言う髪を押さえながら、入店して初めて目が合ってから二回目の会釈をする。
「あの、有り難う御座います。」
「いえ。」
「もしかして、気功の先生とかですか。」
「気功。」
初めて聞く単語かのように拙く繰り返す声に惹かれて、顔を上げる。眼鏡と言う隔たりがあろうともはっきりとわかるくらいに、眦が柔らかくなっていた。
ド、と心臓が高らかに跳ねる。「似たようなものです。」。「明太フランス、焼き立てでーす!」。
各々の趣で一斉に鳴らされた三つの音は厨房からの熱気と混ざり合い、浮き足立つ店内の空気を巻き込んで一つになって、私の中でぐるぐると渦巻く錯覚を催した。
気付けば、目の前の平台には熱々の明太フランスがこんもりと小山を築いていた。焼き立てを求めて我先にと踏み出した小母様の訝る視線が、全身に突き刺さる。何をぼやぼやしているのか、とせっつくそれは、明太フランスの事だけに限らないと言っている――と思う事にした。
滑らかにレジへと移動した男性の後を追う。間際に焼き立ての明太フランスを引っ掴む事も勿論、忘れていない。お会計は一緒で、お会計は一緒で。口の中で簡単に予行練習を済ませて、ポケットから財布を取り出す。クリアになった頭のお礼、其所に一ミリグラムの下心を忍ばせて。
56/99ページ