jujutsu
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絞られる雑巾の気持ちがようくわかる夜であった。
生得領域が解かれた瞬間に、張り詰めていた緊張の糸がふつりと音を立てて切れた。世に害為す呪霊を二人がかりで祓うなり、その場に頽れてしまった己は意気地が無いと思う。一瞬前迄相棒として背を預け合っていた伏黒くんが仰天する気配が、樹木の鬱蒼とした濃い闇の中でもまざまざと伝わって来た。「ごめ、」。これより演ずる失態を先んじて謝ろうとしたが、胃腑から込み上げて来るものに呑み込まれてしまって、体を成してやいなかった。不快な波涛が食道を逆しまにのぼり詰める。
そして私は、級友の眼前で、無力にも、嘔吐の無様を晒す事となった。
吐瀉物の仔細は暗がりが覆い隠してくれようが、鼻腔を酷く突き刺す刺激臭はそうも行かない。満足に土に吸い込まれず、生々しく立ち上がる臭気に脳髄が焼けそうになる。
大丈夫、治まったら車に戻るから、先に補助監督の所に行っていて。せめて、見ないで、とだけでも言いたかったが如何にも叶いそうにない。懇願の全てに蓋をするように、嘔吐感の二波がやって来る。
「ッ、ふしぐろ、く、」
「良いから。全部吐け。」
夜の静けさに溶け込むような声は耳の直ぐ近くで聞こえた。傍らにしゃがみ込んだ伏黒くんが、私の背中を慰撫する。絶えず胃の裏側辺りをさすってくれる手付きは、慈悲深いからこそ容赦が無い。本当に胃の中が空っぽになる迄、付き合ってくれようとしているのだ。
迫り上がって来る儘に弁を開いて嘔吐くのと共に、ぼたぼたと涙が垂れたのは、生理的なものだけが理由ではない。このまなこから流れているのは、自己嫌悪と羞恥と口惜しさとが綯い混ぜとなった液体であった。
暫く蹲って、出すものを出し尽くした後。伏黒くんは私を立ち上がらせると、数時間前とも数十分前とも変わらない、淡々とした調子で言った。
「後はやっとく。夢野は先に車に戻ってろ。」
補助監督の待機している方向へ、二歩、三歩と行った所で、肩を抱いていた手が離される。暗闇の只中である事も相俟って、重心を定められず、敢えなく身体が傾いだ。私が咄嗟に足を出して踏ん張るよりも早く、慌てて伸びて来た手が、ふた度、肩を引っ掴む。
「おい。一人で戻れるか?」
冷や汗の浮いた声であった。余り頭を振ると先の二の舞になる。かと言って――今更ではあるが――嘔吐物の酷い臭いがこびりついた口なんて、斯様な近距離で開きたくなどない。唇を固く結んで、ン、と鼻声で応じる。只でさえ胃液で嗄れてさぞ聞き取りづらかったろう。それでも察してくれた伏黒くんが、恐る恐ると言った風に支えを外した。
「車の中にさっき買った開けてないペットボトルの水があるから、それ使え。」
伏黒くんは言うや否や踵を返すと、地面に溜まる汚水に器用に足で土を被せて、徐々に埋め立ててゆく。自分の不始末の後処理をさせてしまっているさまを目の当たりにすると、愧死しかねない絶望に頭から襲われた。これだけ距離があるならば、と汚れた口が絶対としていた閉口をつい緩める。
「ごめんね。汚いよね。」
「別に、これくらい気にしねぇよ。どれだけ酷い現場見て来たと思ってんだ。」
どれだけ、だろう。年若くして既に実力者である彼は、今回受け持ったこの現場でも動じる事はなかった。
生得領域の中には、夥しい数の人間の遺体が並んでいた。人間の遺体とは到底言い難い、奇形の遺体が並んでいた。前衛的な一輪挿しの花瓶のように、天に向かって腕の突き出た三角形の肉塊。蟹の模倣か、左右の側面に手足の刺さった四角い肉塊。巨大な針鼠に似せた、幾十本もの大小様々な骨に貫かれた丸い肉塊。初めはそれ等が元は生物だったのだと理解出来なかった。正体を確かめようと通りざまに一つ検分して、二つ検分して、理解出来なかった訳を知る。倫理観を守る為に脳味噌が設けたセーフティを無防備に踏み越えた私は、既に堪え切れぬ吐き気を催していた。「行くぞ。」との伏黒くんの叱咤が無ければ、お荷物にも敵の領域内で一度は吐瀉していた事だろう。
思い出すだに、空となった胃腑が締め付けられる。口もとを押さえる私を、伏黒くんは数歩向こうからじいっと見詰めていた。溝の深い境界線が、其所には引いてあるようであった。
「……それだけまともだったら、向いてねぇだろ。呪術師。」
辞めろ、と。そう勧められているのだと、はっきりとわかった。当然の助言だ。凄惨な現場に出会さない方が稀な御勤めであるからには、仮令呪霊を祓った後であっても、赴くその都度に今回のような醜態を晒し続けかねない。付き合わされる周囲はよい迷惑に違いない。まったく彼の言う通りだが――。
答えに窮していると、上空に吹き荒んでいた風の一陣が降りて来て、頭上に広がる梢を揺らした。枝の重なりを縫って、よく肥えた満月が愛想良く寵愛を振り撒く。伏黒くんの足もとが、完全に土に覆われている事が視認出来た。
「……人間がどんな姿になっても気味悪がらない、伏黒くんの方がきっと、余程まともだよ。」
「慣れてるだけだ。まともとは違うだろ。」
「じゃあ私も慣れるまで場数を踏む。」
「オマエは慣れなくて良い。」
強い口調は聞かない子どもにするような叱り付けるものではなく、何所かよすがに縋る響きを含んでいるものだったから、驚いた。風がやみ、全てが闇に秘される。その中で何を明らかにしようとしたものか、私は口を開こうとする。それを封ずるみたいにして、伏黒くんが一歩を踏み出した。
俄に、LEDの鋭い光に目蓋を射られた。懐中電灯の明かりだとは、投射された方角から聞こえて来た人の声でわかった事であった。帳が消えたとて、直ぐに民間人が分け入って来るような場所でもない。恐らく、呪霊を祓っても中々戻って来ない私達を案じた補助監督が、様子を見に来てくれたのだ。
合流するべく、二人して歩き出す。何時でも手を差し出せるようにと配慮してくれているのだろう。歩調を合わせて隣を歩いてくれる伏黒くんから、「――良いから。」と。先程、私を許してくれた言葉が、今度は許さない意図を持って繰り返された。
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