jujutsu
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此所は呪術高専の敷地内に建つ寮なのだから、部屋の鍵を開けっ放しにしていたとて、侵入って来るものなんて高が知れている。けれども、今だけは確りと施錠しておくべきであったと深くふかく後悔した。此所は今や、すっかり忘れていた為に見事にまっさらな報告書の存在を思い出した者が時間に追い立てられている修羅場なのだから。
勝手知ったる私室かのようにドアを開けた人物が一体何所の最強様かなんて、机に齧り付いていてもわかってしまう。その長い長い御御足が奏でる足音のテンポが独特だからと言うのもあるが、気心知れた間柄だとしてもノック一つも無しにずかずかと部屋に踏み込む人間なんて、世の中にそう多くはないと信じたいが故だ。空き巣だってもっと慎重にやることだろう。
「何か用でも?」
居住スペースに着いた彼に問えども、答えは無い。不審に感ぜられて振り返ると、予想した通りに、眼帯をした黒尽くめが彫像よろしく、むっつりと突っ立っていた。身長百九十センチオーバーの男に背後でだんまりを決め込まれると、凄まじい威圧感で息が詰まる事を初めて知った。
「何か、用でも?」。同じ問い掛けを、今度は誘い水となるように願って送り出す。不機嫌そうに尖らせた唇がようやっと動いた。
「先ず、言うコトあるでしょ。」
「欲するならば求めてください。」
「ただいま。」
「嗚呼――おかえりなさい。」
入れ替わりで任務に出たり長期の出張に赴いたりと擦れ違ってばかりの最近であったから、彼の方も不在にしていたとはとんと知らなかった。
挨拶を交わすと、悟さんのご機嫌は直ったようだ。「そっちもおかえり。」と、「聞いたよ。大変だったんだって?」と、見違えるような晴れやかな笑顔を見せた。
確かに、数日前から昨夜遅く迄、私が任じられていた呪霊祓いは大掛かりで、大変と一言で片付けたくないくらいに大変であった。部屋に帰り着いた瞬間に気が抜けて電池が切れたように眠り込んでしまった程だが、この人のこう言う明らかな顔を見ると安堵も一入募る。
然りとて、大変なのは今も変わらない。私は先程起床した身の上だ。寝坊した分を埋め合わせ、早いところ報告書を文字で埋め尽くさなければならない。投げ掛けられた世間話に頷き一つで返し、ふた度ノートパソコンへと向き直り、遣り取りを手短に済ませるべく用件を引き出す。
「それで、本題は何ですか。」
よくぞ訊いてくれました、とばかりに大袈裟に肩を竦めると、悟さんは他人のベッドに堂々と腰掛けた。脚を組むと、マットレスに組み込まれたスプリングが軋みを上げた。長丁場になる、と警告音を立てているようであり、それは間違いではなかった。
「さっき帰って来たところなんだけど、今回、担当した任務が少し厄介だったんだよね。」。一級呪霊が、被害者が、誘き出すには、現場である集落のしきたりで、祓ったのに、上の連中のいびりが長い。
断片を耳から耳へとバケツリレーさせながら、自分が受け持った任務の記憶を遡る。キーボードを叩く。悟さんの話と混ざってしまったのでバックスペースキーを長押し。記憶を遡る。キーボードを叩く。悟さんの言葉をその儘記録してしまったのでバックスペースキーを長押し。記憶を遡る。キーボードを叩く。
合間合間に、「聞いてる?」と確かめられる事もあって進捗は芳しくない。だが、押して進めなければなるまい。何しろ、提出期限迄余裕が無い。然り気無く携帯端末の画面を盗み見て時刻を確認する。十六時十五分。悟さんが来訪してから、早くも十五分が経っていた。タイムリミットは残すところ後、四十五分。デッドレースだった。
じりじりと焦り始めた脳味噌は余分なリソースを他に割く事を許さず、「流石。」「凄い。」「そうなんですね。」なんて言う中身の無い相槌を絞り出す事も認めなかった。かくかくと首を縦に振り振り遣り過ごしているが、背中にぽんぽんとぶつかって来る声は気にしている風でもない。何時もの軽妙洒脱なさまは健在で、返事が無くても構わないのならば自分の部屋の壁に向かって話していてくれ、と心に少しばかりのささくれを立てさせた。
「――という訳で、ご褒美頂戴。」
エンターボタンを押し込むタイミングを見計らったかのように、甘えた声が背中を打った。
ハア、と曖昧な返答を発するのに乗じて、封じていた溜め息を解放する。パソコンの画面と睨めっこ続きで疲れた目頭を揉み解す。凝り固まった身体の筋肉も解しがてら、ベッドの方を振り向く。
「プリンが冷蔵庫に入っていますから、どうぞ。ぷっちんするお安いプリンですが。」
「ご褒美がプリンって。今日日、小学生だって納得しないよ。食べるけど。」
食べるんかい。よいせと立ち上がって部屋に備え付けられたお一人様用の冷蔵庫の前に移動する、巨大な黒い影に突っ込みを入れざるを得ない。
ともあれ、よく回る彼の舌も、これで鼓を打つのに忙しくなる事だろう。その間に追い込みを掛けよう――との意気込みも虚しく、静寂は三分も保たなかった。
「何? 報告書? 急ぎ?」
コンビニでつけて貰ったプラスチックのミニスプーンを銜えた悟さんが、横合いからパソコンを覗き込んで来た。腰を深く折っているので、頬がぶつかりかねないくらいに顔が近い。その上、薄く開いた唇からはプリンの甘ったるい匂いが漂って来るのだから気が散るったらない。
「そうです。ご褒美は差し上げましたよね。どうぞお引き取りください。」
「君が言い出しただけで、僕は、「ご褒美にプリン頂戴。」なんて一言も言ってないけど。」
「は?」
「サービス精神が旺盛なことで、痺れるね。ご馳走様。」
すっかり空になった容器をこれ見よがしに振られる。今日の日を終えて人心地ついた暁には、と取って置いた逸品なのに、甲斐も無く食い尽くされてしまっただけだと言うのか。なんと阿漕な事だ。
ぎり、と横目で睨め付ける。にこにこと笑って受け流すさまは、柳に風を体現しているようで手応えが無いが、それよりも。腹が立つ程に毒気が抜かれる笑い顔であったので、途端に一人相撲を取っている事が馬鹿らしくなってしまう。
「だったら、ご所望のご褒美とは何なんですか。」
「さっき話した通り、僕はストレスが溜まっているんだ。この儘だとこの美貌にも悪い。――そこで。」
乳製品とバニラの残り香を立ち上らせる空のカップとスプーンを机に置くと、悟さんは曲げていた背筋を正して、此方に向けてゆったりと腕を広げた。
「抱き締めさせて。」
折角弛んでいた眉間に力が入る。何故。脈絡が無いにも程がある。訝しむ気持ちが自然と椅子を引いて、彼から少しの距離を取らせる。
悟さんは詰め寄る事はせず、私の様子を眼帯の奥から観察すると、一旦顎に手を遣って首を傾げる仕草を見せた。
「ニュースサイトとか見ない? 三十秒ハグするとストレスの三分の一が解消されるらしいよ。」
「眉唾な話ですね。」
「うん。だからこれは建前。単純に、僕が君を抱き締めたいと思って来ただけだから、気にしなくて良いよ。」
ではその前振りは何だったんだ。自由過ぎやしないか。
小っ恥ずかしい台詞を惜し気も無く口にした悟さんが、ほらほら、と両手で手招きをして無邪気を装う。
どれ程言っても引き下がりそうにない。先ず以て、私にはかかずらっている暇は無いのだ。速やかに椅子から立ち上がる。携帯端末の電源を入れて、タイマーアプリを開く。一度だけ深呼吸をしたのは、時間を奪われ続けている苛立ちを鎮める為なのか、きたる接触への緊張を治める為なのか。
「わかりました。三十秒だけですよ。」
スタートボタンをタップするや否や、体躯に見合った長い腕が絡み付いて来た。宛ら大蛇の締め付けを味わう羽目になるかと身構えたが、この腰と背に回された腕の力は、抱き締める、と言うには些か弱かった。壊れ易い宝ものにそうっと触れでもしているかのような力加減が、闇雲に抱きつかれるよりも羞恥心を掻き立てる。
「悟さん。」。寒色で塗られているこの人の腕の中は、存外、熱い。気を紛らわせようと、浮かぶ疑問を彼の胸へとこぼす。
「こんなのがご褒美で良いんですか。」
「もっと欲しがって良いの?」
ぐ、と。腰に回された腕に俄に力が込められた。背骨をなぞり上げるもう片方の手指に、余計な事を言ってしまったのでは、と身体が強張ってゆく。弁解しようと顔を上げると、眼帯に覆われていてもわかる程に真剣な表情と搗ち合った。
一分の隙も無く密着しているのだから、感情が伝播しない訳がない。不図、安心させるように力を弛めた悟さんは、私の背を這っていた手を頭の方へと移した。
「いきなり全部はキツいでしょ。それに、生憎と僕は、好きな子に無理強いするような性格の悪さは持ち合わせていないもんでね。」
くつくつと笑う声が降り頻る。予てより好意を示されてはいたけれども、改めて明確にされるとくらくらする。最初は軟派な事だと毛嫌いしていたように思うが、この頬の熱さでは、随分と絆されているに違いなかった。
何も言えずに惚けていると、頭を撫ぜられた。指が髪を梳く毎に、心臓の跳ねる音が大きくなってゆく。それを隠してくれたのは、けたたましく鳴り響いたタイマーのアラーム音であった。ハ、なんて上げてしまった上擦った声を咳払いで正して、悟さんの背中を叩く。
「はい、おしまい。報告書を書かなければならないので離してください。」
「離したくねー。後、五分。」
「駄目です。また今度。」
思いがけずに出て来た言葉に一番驚いたのは私自身だが、如何やら彼だって負けてはいないようであった。こんなにも雄弁な沈黙があるものかと、又もや吃驚した。
それからは一切食い下がる事はなく、ご褒美を欲した両の腕はあっさりと解かれた。身体を離した悟さんが、上機嫌も上機嫌に、満足そうに唇の両端をきゅうと持ち上げる。
「じゃ、僕はこれで。宿題、頑張ってね。」
片手を挙げると、ぐだぐだと滞在していた時とは打って変わって、さっと部屋から退出した。そそくさと去る悟さんの耳の先が淡く赤く見えたのは、流石に動転した気の為せる幻やも知れない。
椅子に座り直して、一人、暴れる心の臓に急かされて呼吸を整える。机に置き去りにされたプリンのカップを眺めていると何時迄も落ち着けないものだから、先に片す事にした。キッチンのゴミ箱に向けて立ち上がる。ストレス解消になるか、その真偽は不明だが、肩から力が抜けたように思う。
軽くなった気がする身体で、僅かとなった残り時間を懸けて空欄に文字を打ち込む作業に戻る。
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