jujutsu
name change!
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「焼肉行くぞ。」
夜の静けさが深まりゆく午後八時。
凡そ二週間振りに姿を見せた男の様子は実に平然としたもので、空白の時間なぞ存在しなかったのではないか、と自分の時間知覚能力を疑わざるを得ない程であった。
「やきにく。」、「に。」、「いく。」。ドアフォンの向こう側から寄越された情報を処理し切らず、脳味噌と口とが上手く連結してくれない。飲み下す為にぶつ切りにして繰り返していると、画面の中の男が、立てた親指で他方を示した。ひと先ず此所を開けろ、と言っているのであろう。確かに、何時迄もこうして遣り取りをしている訳にもゆくまい。
パネルを操作してオートロックを解錠する。男の姿が完全にフェードアウトするのを見届ける前にドアフォンを切って、同時に洗面所に飛び込んだ。ドライヤーを引っ掴む。帰宅して直ぐにさっぱりと化粧を落とす習慣はたった今、仇となったが、憂いても詮無き事だ。せめて髪だけでも整えておこうとヘアブローを施す。素顔と着古したセットアップのルームウェアに組み合わせると、寧ろ見苦しさを感じさせる様相になるのだとは、途中で気が付いた事だった。
いっそ、乱してやった方が釣り合いが取れてましになるのではないか。後悔に後悔を重ねた落ち着きの無い手を力強く捕らえたのは、インターフォンの呼び出し音であった。間髪入れずに二度目のチャイムが鳴らされ、猶予の無い事を告げられる。
相手はヒモとして長らく養っていた男だ。今更、洒落っ気を見せる間柄でもない。頭頂から下ろした両の手でぱちんと頬を張って緊張を弾き飛ばすと、着替えたいと悪足掻きをしていた足も言う事を聞いて玄関へと向いてくれた。三度、インターフォンのボタンに指が掛けられる前に、大袈裟な音を立てて鍵を開ける。勢いに乗って、ドアを大きく押し開ける。
二週間前と何等変わらない。黒いスウェットの上下に身を包んだ男が、しかし上機嫌そうににたにたと笑っていた。
「よぉ。元気か?」
お陰様で!、それは此方の台詞だ!、何事も無くて良かった。
何を以て応じようとも、何所に行っていたの?、なんて余計な言葉が続いてしまいそうだったから、荒れ狂う激情と眦に込み上げて来た奔流を共にぐうっと呑み込んだ。
黙ってドアを押さえて、彼を部屋に招き入れる。筋骨逞しい体つきでありながらするりと滑り込むさまは黒影か黒豹のようで、音も無くしなやかだ。変わっていない。男の容貌だって、肥えたとか痩せたとかもない。最後に会った夜の儘の姿かたちをしているが、ただ、纏っていた筈の煙草の臭いだけは一切掻き消えていた。入り浸っているパチンコ屋で焚き染められて来るそれが大嫌いだったが、香らないならば香らないで物足りなく思うなんて、驚きだった。
「それで、焼肉って、何。」
「焼肉は焼肉だろ。」
居間に移るなり、男は二人掛けのソファに無遠慮に腰を下ろして――立ち尽くす家主を置き去りに――我が家のようにだらりと寛ぎ出した。お得意の嘲り笑いで喉が小さく鳴らされるのを聞くのも久方振りである。
暫く家に上げていなかったが、私の脳味噌は、彼をこの家に入り込んだ異物として認識する事は無かった。何方かと言えば、欠けていたピースが嵌まって調和が取れていると安堵すらしていた。
いずこに行っていたかは知れないが、斯うして戻って来てくれたのだ。私は、このひとの、寄る辺となれている。実感を伴うと、強い酒をひと息に煽りでもしたかのような陶酔の心地がした。
奇妙に空き続ける間に、眉を寄せた男の顔がついと此方を向いた。浮かされてぼんやりとしていた頭を振り振り、気を取り直す。
「そうじゃあなくて、何で急に焼肉に行こうなんて言い出したの。」
「金が入ったから。」
聞き間違いでなければ、金が入った、と言ったか。
無心されるが儘に手渡した金銭はあらゆるギャンブルに投資され、悉くご破算にされるのがお決まりだった。生命をすみやかに消費しようとしているようにも見えたものだが、此所に来て生産的な発言を聞かされる事になろうとは思いもよらなかった。
今世紀一番の不信感を視線に込めて刺してやると、男はオーバーサイズのスウェットパンツのポケットから茶封筒を取り出した。見せ付けるようにひらひらと振られる。その厚みは、中身が真実紙幣であるならば、十万円では利かない。百万円でも尚、至らない厚みだ。
閉まらない封筒の口の中を態とらしく確かめる男の傍にのこのこと寄る。よもや木の葉では。凝り固まった猜疑心は、覗き込んだ先の、延べ三百枚はあろうかと言う黄味掛かった札の束を前に、がらがらと瓦解する事となった。
「何、それ。強盗でもしたの?」
「ま、大体そんなトコだな。」
上擦った私の声を愉快そうに受け流すと、男は多勢の福澤諭吉が詰まった封筒を乱雑にローテーブルの上へと放った。やけに重量のある音からは、嫌な現実味が感ぜられた。突如としてサスペンスドラマの中に放り込まれたようで、無意識に生唾を呑み込む。
以前、二人で街頭を歩いていたら、不幸にも居眠り運転の車に衝突されかけた事が有る。その時に彼は私を抱き上げて、ノーブレーキで迫り来る鉄塊をあっさりと躱してしまった。「曲芸みたいなもんだ。」と気の無い事を言ってはぐらかされたが、それだけの身体能力を宿して場慣れもしていれば、銀行強盗だってお手のものなのではないか。
――とは言えども、ニュース番組で強盗事件に関する報道をやっているのを観た覚えは無い。考え過ぎに違いないが、普段の彼の素行からは縁遠い大金である事には変わりない。あぶく銭の方がずっと気安い出自であろう、と言う確信だけは持てた。
「得体の知れないお金でご飯を食べたくない。一人で行ったら如何。」
「それじゃ意味ないだろ。」
「食べたいならばそれが充分、意味になり得るでしょう。」
「俺じゃねぇよ。お前が焼肉食いたいっつったんだろ。早く用意しろよ。」
「……何時の話よ、それ。」
二週間、若しくはそれよりも前にぼやいた記憶は私の中にも辛うじて引っ掛かっていたが、魚の小骨の方が余程存在感が有る程度のものだ。そんな些細な我儘を、まさか気にとめてくれていたとは。うつくしい猛獣みたいなこのひとが、媚を売っても良いと思ってくれるとは! 願いを叶える為に金を手に入れて来てくれた、迄ゆくと夢を見過ぎているだろうけれども、金の出所への不安を忘れさせ、脳髄を歓喜に打ち震えさせるには、十分飛んで十二分であった。
又もや間抜けに惚ける私を他所に、彼はソファから腰を上げると、寝室としている部屋にすたすたと入って行ってしまった。立て付けの悪いクローゼットの扉が開けられた音が届いてやっと後を追ってみると、男はクローゼットの中に吊るしていたコートの幾つかの内、一つを取り出していた。「上はこれが良いな。」とリクエストして来た一着こそは、奇しくも先程回想した、あわや事故に遭いかけたあの日に着ていた一張羅と呼べる一枚であった。
「それ、高いんだけれど。焼肉屋に着てゆくには考えものよ。」
「イイトコだから臭いなんざつかねぇよ。」
「随分詳しいのね。食べログで調べでもした?」
「知り合いに連れて行かせて当たりだったんだよ。」
「知り合い、ね。」
「妬いたか?」
「引っ掛け問題? そう言うの、面倒臭がるたちでしょう。」
持ち上がった唇の端が言葉無く是だと告げて来る。満点のご褒美かも知れなかった。
矢鱈と踏み込まない私にこそ、彼は価値を見出だしている。ようく理解しているが、二週間振りに会ったのだから、良い子の皮を脱ぎ捨てても許されやしないか。
コートを受け取ろうと、手を伸ばす。ハンガーを掴む武骨な指先に触れる。固い輪郭をなぞって、「ねえ。」と囁く。「ん?」と短い相槌があるだけでこんなにも幸福を得られるが、欲深い正体はもう一歩を踏み出した。
「私の事、好き?」
私の知る誰よりも鋭利で奥深い黒瞳を見詰める。鬱陶しがってはいなかったが、応じる視線には、当然、愛だの恋だのにしたたるような蜜だって含まれていなかった。
彼に会う為にそそくさとセットした髪が、殊更優しく撫ぜ付けられる。頭蓋の形に沿って滑り落ちた手に、片頬を包み込まれた。親指の腹で目もとを軽くさすられ、労られる。
「嫌いだったら戻って来てねぇよ。」
耳もとでそうっと与えられた言葉はご機嫌取りそのもので、そのうそ寒さが可笑しい。
「リップサービスも付いて来るなんて、気前の良いこと。」
唇に跨がる傷に口付けと言うチップを支払っても、男は表情を小揺るぎもさせない。嘲りの張り付いた顔でスウェットパンツのポケットに再び手を突っ込み、今度は携帯端末を探り当てると、「タクシー呼ぶからな。」とタイムリミットを設けて来るのであった。
彼の気に入りらしいコートを胸に抱えて、急ぎ、化粧を塗り直す準備に取り掛かるべく部屋を出る。指を這わされた自分の下目蓋を、然り気無くなぞった。二週間分の睡眠不足が積層して出来た隈が気付かれない訳は無かったのだ。
振り返ると、ベッドに居を移した彼が悠々と寝転んでいるのが見えた。これから食事にゆくと言うのに寝てしまいやしないだろうか。見慣れてしまった光景に、釣られて欠伸が漏れ出る。
――嗚呼、今日は久々によく眠れそうだ。
51/99ページ