jujutsu
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殆ど家入の私室となっている医務室には消毒液の陰気な臭いが染み付いているのだが、今だけはコーヒーの薫香によって押し退けられていた。
ふうわりと湯気の立ち上るマグカップは、二つ。自分用のものを利き手に、少ない来客用のものをもう一方に携えて、家入はデスクへとつま先を向ける。先んじて其所へと通しておいた来客は、頭を重そうにしてこぢんまりとパイプ椅子に座っていた。藁にも縋る思いで、と言う程には事態は切迫していないようであったが、早急に晴らしたい難問を抱えて来たのは、迎え入れた時の眉の形を見るに明白であった。
コーヒーの水面に気を遣った家入が静しずと歩み寄る。途中、窓から射し込んだ傾きつつある太陽の光が、ちかり、と机上に転がる何かに反射した。即座に目を細めた家入ではあったが、長い睫毛の簾も光速の射手には敵わなかった。残像がちらつく視界を治めるべく、僅かの間、目蓋を閉じて回復に努める。家入の黒瞳を焼いたそれこそは、来客の持ち寄った解き難い難問の正体だった。
「熱いから気をつけて。」
デスクの端――客人である知己の女の手が届き易い位置にマグカップを置く。間を空けて、は、と気付いたように御礼の挨拶が飛び出して来た。普段であれば間髪入れずに為されるものだが、余程、それに意識が割かれていると見える。
デスクチェアに腰を下ろすなり、家入は網膜を害した仇である球体を、仕返しとばかりに爪の先で小突いた。
「で。このビー玉が何だって?」
幼子に差し出せばきらきらと目を輝かせるであろう大きな青いガラス玉は、矯めつ眇めつしても何の変哲も無い。其所等の駄菓子屋に居並んでいた所を取って来たとしか思えない代物だった。斜陽を浴びて白い天板に青い影を落とすさまは穏やかな郷愁を誘い、サイダーの閉じ込められているような爽快な色合いは、懊悩とは縁遠いものだ。そもそも、大の大人がビー玉一つで何を小難しく考える事があるのか。
ビー玉を転がす家入の指先を注視しながら、女は、「さあ……?」と八の字の眉に相応しい音を発した。その首は小さく傾げられている。
「悟さんが、お守りだよ、って言ってくれたんです。けれども呪具でもないし、意図が丸でわからなくて。」
「本人に聞きなよ。何で私を訪ねて来たんだ。」
「え。学生時代に使っていた符牒とかではないんですか。」
「それ、五条が言ったの?」
「私の憶測です。」
「映画の影響を受け過ぎだろう。兎に角、私では力になれない。本人を問い詰めた方が話が早いよ。」
「そこを何とか。悟さんには訊いてはいけないような気がするんです。勘、なんですけれど。」
彼女の勘の良さを知っている家入としては、その渋りようを無下に切り捨てる事は出来なかった。「そうか。」と応えた口をマグカップのふちへと寄せて、一口、啜る。
家入から見た五条悟と言う人物は、決して倹約家ではなかった。浪費家とは言わない迄も、昔から実入りが良い事もあって、高価な品からチープなもの迄、気に入ればぽんぽんと購入する姿がよく見受けられた。自己投資を惜しまない代わりに他人に対して吝嗇、と言う訳でも無い。何方かと言えば気風の良い方であり、大方の予想よりも零の数が一つも二つも多い呪具を学生への土産に持ち帰って来た事すら有る。法外な値打ちものを銘菓と同じ感覚で渡すのは考えものだが、それだって高ければ良いと分別を無くしたものではなく、寧ろ彼なりに受け取る相手の事を考えて厳選している。センスは置いておくとして。だからこそ、一山幾らのビー玉を彼女への手土産に選んだ事に違和感を覚えた。
「五条に、ビー玉が欲しい、とか強請った?」
「そんな子どもみたいな……。」
「だよねー。」
目の前の女こそは五条の事を特別には想っていないようだが、五条の方は彼女に想いを寄せているのだ。ならば、無い気を少しでも惹く為にもっと建設的なものを寄越す筈ではないか? 先ず以て、あの明け透けな男が、使途不明の物品を謎掛けみたいに他者に贈るだなんて事が今迄に有っただろうか。
動きの鈍る思考に油を差すようにして、コーヒーをもう一口。そして、家入は手慰みにビー玉を摘まみ上げて、透かして見てみた。何度見ようとも只のビー玉だった。
「嗚呼、でも、ビー玉の話はしました。」
家入に倣って一息入れていた女が、玩具のお守りを目映そうに眺めながらしみじみとこぼした。手掛かりと成り得そうな記憶に触れ、手繰り、手元に寄せたものが素直になぞられる。
「悟さんの目はビー玉みたいで奇麗だ、と。」
――それだ。閃きに照らされるなり、家入にはこのビー玉が胡散臭いものに思われた。雑にデスクの上に放る。ころころと彼女のもとへと転がって行ったのだって、偶然とは思えなくなっていた。黒目勝ちな家入のまなこがじっとりと険しくなり、ガラスの膜に内包されている思惑を睨める。
この度の不可解な贈りものは、女の言に端を発したものだろう。ビー玉を己の目に見立てて渡すだなんて、常日頃自分の存在を意識しろ、と脅し掛けているようなものだ。それが受け入れられた暁には、無意識下での自主的な男避けとして働く事をも期待している節が窺える。お守りとは随分と体の良い言葉を使ったものだ。又は、五条家どころか呪術界の至宝ともされかねないパーツを遣っても惜しくは無い、と暗に訴えているのであろうか。悪巫山戯の可能性も勿論有るが、家入はその付き合いの長さから直ぐに断ぜられた。いずれの意味にしても本気である、と。
「硝子さん? 何かわかりました?」
突如として不機嫌そうに黙りこくった家入に、こわごわとした声が掛けられる。
並外れて頭のぶっ飛んだ男に目をつけられてあわれなものだと、家入の胸には同情すらわいて来た。「そんな悪趣味なもの捨ててやれ。」との助言を舌に乗せる。思い直して、冷めかけのコーヒーで飲み下した。親切心は束縛を解くものとは限らず、意識させる事で却って余計に絡まってしまう事も有り得る。
「無知は罪なりーって講釈を垂れた奴もいたけど、こればっかりは知らぬが仏かも。」
「何ですか、それ。」
「知らない仲でも無いし、ヤバそうだったらここをセーフティハウスにしてくれても良い。」
嵩の減った小さな黒い水面を覗き込む。突き合わせた顔はげんなりとしていた。そんな家入の様子を不審そうに見守りつつ、更に多くの疑問符を散らせていた女が、「何ですか、」と重ねて問う。問おうとした言葉が詰まった気配に、家入は、その勘の良さが彼女にとって仇となった事を察した。見る見る内に引き攣ってゆく頬は、家入と同じ結論を引っ掴んだ旨をよく報せている。
ビー玉にしか見えないだけのものを、二人してじいっと見詰める。彼女の方の首の角度は物憂げにすら見えた。
「そう言う事ですか……?」
「残念ながらそう言う事だ。」
「わたしは如何したら良いんでしょうか……?」
「応える気が無いならば……そうだな。監禁でもされそうになったら全力で逃げろ。アイツが逃がしてくれるかはわからないけれど。」
「と言うのは冗談で――」と続く筈だった台詞を食ったのは、鈍い振動音だった。
揃って携帯端末をポケットから取り出して、着信の有無を確かめる。家入の方の画面はマグカップの中身と同様の色を湛えて沈黙していた。そうなると。家入が視線を滑らせる。俯いた彼女の顔を、点灯した画面が照らしているのを見とめた。電話の着信なのだろう。携帯端末は女の手の中で懸命に鳴き続けているが、当の主人は一向に出ようとしない。
発信者が誰彼なんて、一目瞭然であった。
「ホラーとかサスペンスだと碌な事にならない展開だね。」
ぎしりぎしりと軋む音が聞こえて来そうな仕草で、ぎこちなく女のおもてが上がる。表情が、助けを求めて、固い。
噂をすれば影、と片付けるには余りにも折良く――若しくは悪しく――電話を掛けて来た人物に、このビー玉を通して監視でもしているのではないかとの疑いが強まる二人であった。目隠しをするように、女がビー玉を握り込む。
「居留守を使っても……?」
「何も悪い事はしていないんだから、気にしないで出たら?」
「気にしないでいられますか、このタイミングで!」
「そうは言っても、ここで出ない方が気不味くならない?」
「なりますけれども、心の準備が!」
「――済ませるならば今だ。五条、ここに来るぞ。」
家入の言葉を上手く噛み砕けない女が漏らした、呆けた声。それが、圧される。
放課後とあってひっそりと静まり返る廊下には、足音がよく反響する。かつん。かつん。聞き覚えの有る悠然とした足取りは、この場に在っては何所か、追い詰めた獲物を捕らえようとする狩人のものじみて聞こえるのであった。近付いて来る毎に女は顔から血の気を引かせ、狙われた小動物宛らに如実に怯えた。
「硝子さあん……!」
――怖がらせ過ぎたか。女の縋るような気色と声色に、家入は少しだけばつが悪くなった。
五条ももう大人と部類される齢だ。ただ年を重ねただけではない事も承知している。幾ら手に入れたくとも手に入らない女相手であっても、重たい愛情表現こそすれども実害を出すような大人気の無い真似はしないだろう。きっと。
只、それを彼女に説明してやるだけの時間は今は無かった。
五条が医務室に到着する迄、もう数メートル程だろう。今しも泣き出しそうな女に、家入は手を握ってやる事で報いるのであった。
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