jujutsu
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夜の山で悟さんとはぐれた。以上。
「以上。――ではない!」
独り言つ、と言うには余りに憚らないボリュームの涙声を発散する。如何か見付けてくれますようにとの一縷の望みを懸けたものでもあり、気を紛らわせる名目もあった。
何せ此所は、少なくとも一級と目される呪霊が蠢く、曰く付きの小山。一歩、踏み込んだだけでその異様さが知れる。只ならぬ呪力が禍々しくべっとりと滞留する此所は、呪霊の胎の中にでも入ってしまったかのようで、剣呑な噂が流布しているにも関わらず立ち入ろうと思った一般人何某達の胆力を、いっそ賞賛したいくらいである。
討つべきものの正確な所在すらも霞ませる呪力と残穢の奔湍は、ともすれば魔手が首筋に忍び寄って来ているとも錯覚させてならない。只でさえ、夜の山は気を張り詰めて然るべき場所だ。力不足な私は大いに翻弄され、正直な所、神経を随分と摩耗させていた。数多の登山客に踏み固められて出来た山道の真ん中にしゃがみ込む。鼻腔に押し入る土の湿気たにおいと草の青いにおいとが、お前は孤独なのだ、と脅し掛けて来る。織り成された葉の覆いの隙間から帯のように射し込む月光も、そうだそうだ、と生き物の不在を知らしめる為に辺りを照らす。
孤独。そう、私は今現在、孤立しているのだ。現状を改めて把握させられると、頭を抱えざるを得なかった。
「やってしまった……。」
その分だけ口にするべきであるならば、私は後一度、唱えなければなるまい。一つは勿論、悟さんの姿を見失ってしまった己の不注意に宛ててだ。三級呪術師の身でありながら一人になるだなんて、自殺志願者と疑われても仕様が無い。そしてもう一つは、「絶対に俺から離れるな。」と言う悟さんの厳命に背く事となった己の愚かしさに向けてだ。こうなる事を見越して、彼は送迎の車中から既に不機嫌であったのだろうか。
この山に居座るとされる呪霊は、二人で入山した内の片方を連れ去ると言う。一人を帰すのはそう言った縛りからなのか、仲間を呼ばせて餌とする心算が有るのか。“窓”からの報告だけでは判断が適わないが、兎も角、二人であたらなければならない任務であった。当然の事ではあるが、悟さんは初めから、傑さんと向かうと主張していた。しかし折悪しく、傑さんには既に他の単独任務が割り振られていた。其所ですっからかんに手が空いていた私にお鉢が回って来たのだ。顔を合わせるなり悟さんは、「チェンジで。」と。「死にに行くようなもんだろ。」と目一杯の苦虫を力一杯に噛み潰したような表情で言った。だとしても呪術師は万年人手不足だ。他に手の空いている者はいない。そう随伴の許可を得ようとしたところ、眉間を苦々しく寄せた儘、「だったら条件がある。」と前述のお言い付けが為されたのだが――。
「如何しよう。」
物凄くとは言わない迄も、きっと、そこそこは怒っているだろう。考えるだけでもげかねない程に頭が重たくなった。私の脚がもう少し、否、もう大分長ければ、悟さんに追い付く事も出来たのだろう。離れるなと言っておきながら進んで引き離すような速度で歩かなくても、と愚痴が滲み出そうにもなるが、この山の呪霊がのさばっている所為で人が幾人も死んでいる以上、それは甘えでしかない。
迷子になった時にはその場から動かない、の鉄則を忠実に守って、早数十分が経過していた。折り畳み式の携帯電話を開いて、時刻を確認する。悟さんの術式は攻勢に出ると凄まじい音がする。響いて来ないとなると、未だ呪霊と会敵していないのだろう。彼がしてやられるだなんて有り得ない事なのだから、事態に変化は無いと見える。そうなると。
「……今日のめざまし占い、何位だったっけ。」
事前に渡された資料に目を通した限り、害された方の人間にも、帰された方の人間にも、これと言って共通点は無かった。理不尽な事だが、単純に呪霊の気分、人間側からしたら運の良し悪しが生死の分水嶺となるのだろう。――そうなると、今、私の運も試されているのやも知れない。
朝のニュース番組の終わり際の占いコーナーを思い返しながら、時計の役くらいしかする事の無い、圏外となっている携帯電話を折り畳む。
不図、画面の残光が目の前を塞ぐ何かの形を浮き彫りにした。
「ッ!?」
突然の事に身体が強張る。体勢が崩れる。尻餅をつく。息を呑んで、暗がりを凝視する。
闇に同化する黒衣に包まれた、二本の脚、が其所には在った。呼吸も忘れて見入ると、それが見慣れた黒色である事がわかった。恐る恐る視線を持ち上げてゆく。
呪術高専の制服は、暗闇に紛れると輪郭がわかり難い。
「さ、さとるさ、」
ん? 伸べられた手は皆迄言わせてくれやしなかった。腕を引っ掴まれると、力強く引き起こされて、立たせられる。
「こっち」
怒っているのか、極簡潔に告げると、彼は私の腕を引いて横路に逸れた。呪霊の居場所でも見付けたのだろうか。長い脚はずかずかと迷いの無い、有無を言わせない足取りである。
「その、ごめんなさい。」
歩幅の違いは大きく、その背中に追い縋ろうと足を動かしていると直ぐに息が上がった。気付けば私の足は縺れ出し、半ば引き摺られる形で伴う有り様となっていた。
「離れるなと、言われたのに。」
思うが儘に背を伸ばす草棘が脚を擽り、時に引っ掻き、行き先に突き出た小枝が敵意を剥き出しにした。意に介さずに自然を踏み締めて横行する彼に、必死に付いてゆく。付いて、行く。 付いて、行って、良いのか?
私の知っている悟さんは、圧し折りそうな力加減で触れて来た事が有っただろうか。説明も無しに悪路を強いた事が有っただろうか。皮肉や悪態の一つも吐かないで無言を貫く事が有っただろうか。そもそも、何故、今の今迄気にならなかったのだろう。
「――あなた、だれ。」
顔が。 顔が、わからないのだ。
目の前の存在は呪術高専の制服を着用している。だが、悟さんであるならば、この無明の夜陰の中でも白い髪がきらきらとしているだろうに、それが理解らない。首から上に靄がとぐろを巻いているように不明瞭なのだ。
彼だと思っていたものが、ぴたり、と立ち止まった。
今になってがんがんと打ち鳴らされる警鐘に合わせて、心臓の拍動が速まる。背筋が冷える。背骨が氷にでも差し換えられたみたいに、悪寒がやまない。震える指先で、懐に忍ばせてある呪符を摘まみ出そうとする。
瞬間。
音を立てて世界が塗り潰された。
墨の撒かれたように黒々としていた空が、今しも滴って来そうな血の色に変貌する。風も吹いていないのに梢が躍り狂う。逃げ道の無事を確めようと肩越しに背後を一瞥すると、歪な幹の木々が密に立ち塞がっていた。これは――
「生得領域――」
場を支配せしめた呪霊が、ゆうっくりと。殊更見せ付けるようにして振り返る。
顔は見えない。見えない筈なのに、確かに、嗤っていた。
「――ッ!」
ぐい! と一層強引に連れてゆかれる先からは、地面が消えていた。崖。突き落とされる。殺される。懐の呪符を咄嗟に取り出だす。呪力を込めてその背中へと投げ付けるが、反応は無い。二枚、三枚、有りっ丈投げ付けるが、変わらない。埋めようの無い等級差があるのだ。不味い。踏ん張って抵抗しようとも関係無しに、ずるずると引っ張ってゆかれる。不味い。「こっち」「こっち」「コッち」「こッチコッちコっチコッチ」「コッチ」。獲物の絶望を美味そうにする、ケタケタとした嘲笑い声が張り上げられる。不味い!
活路をひらく為には知恵を絞り切らなければならないのに、「嫌!」などと口にして、涙をこぼす無意義な行為ばかりが繰り返される。死の淵に近付くのを待つ以外に、何も出来ないだなんて。情けない。悲鳴のように、真言のように、助けを求めて彼の名前を叫ぶしかないなんて。
「悟さん!」
刹那。境界を蹂躙する足音が、鳴り渡った。
▼
「雑なコスプレ野郎が、そいつに気安く触ってんじゃねぇよ。」
崖へと連れ去られゆく少女の肩を掴んで、自由の奪われた身体を引き寄せると、五条は眼前に手指を差し向けた。サングラスの奥に据わる蒼色に宿した赫怒の焔を放つようにして、反転された術式が呪霊目掛けて放たれる。
世界を刳り取る轟音が、少女の三半規管を揺さぶった。
▼
ぺちぺち。ぺちぺち。
続けざまに軽く頬を打たれる感覚に、は、とする。閉じていた神経が全身に張り直されるや否や、蒼と白の二色で満ち満ちている視界に、自然と首が傾ぐ事となった。何所かでよく見た色合いだった。
「起きたか?」
耳朶に触れた聞き慣れた声を切っ掛けにして、急速に像が結ばれる。結ぼうとして尚、ピントが合わないのは、鼻先と鼻先とが触れ合う程の近距離に迄顔が寄せられているからだ。意識せずに息を詰めて瞠目する事、暫し。
「さとるさん……?」
か細いか細い、言葉を発したばかりの幼子同然の発声を聞き取ると、生え揃った睫毛の一本一本も拝めるくらいの間近に在った瞳が、すいと遠ざかった。
生得領域が解かれたのだろう。辺りは正に憑き物が落ちたように静けし夜闇に覆われている。人の手が入っていない木立は変わらずに鬱蒼としてはいるが、天を仰げば、枝葉の重なりを縫って顔を覗かせる綺羅星と目が合った。
何だか酷くぼんやりとする。悟さんとはぐれて、呪霊に謀られて、生得領域に踏み込んで、殺されかけて――それから。右を見て左を見てとすると、大きく崩落している岩場が見えた。
「呪霊は……?」
「祓った。」
首をめぐらせただけでよろける私の肩を掴んで支えながら、悟さんは短く告げた。
そうか。私は寸での所で彼に助けられたのか。加えてその間は放心していた上に、斯うして介助されなければ立っていられないだなんて、呪術師としてなんと恥の多い結果だろうか。「済みません。」とは心の底から素直に出て来た謝罪の気持ちであった。
「知らない奴にホイホイついてってんなよ。尻軽か。」
呆れ果てて溜め息でも吐かれそうな口振りに反論が出来るだけの資格は、流石に持ち得ていない。
唇を引き結んで目を逸らしたものの落ち着かず、皓月の力添えを受けて、悟さんのかんばせを見上げ直そうとする。その時。一陣の風が木々をざわめかして、彼の顔に葉陰を落とした。 先程の呪霊の姿が、頭を過った。
「顔。」
「は? 顔?」
「触っても良いですか?」
実に怪訝そうではあるが、生み出された沈黙を肯定と受け取って、そうっと悟さんの頬に触れる。血の気の引き切った手指は厳冬に垂れる氷柱のようだろうに、彼は振り払う事はしなかった。月明かりの下で微かも微かに眉を顰めて、「何だよ。」と打っ切ら棒に問うて来るだけで、私が触り易いように背を丸めてくれすらしている。感覚の失せていた指先に、次第に、皮膚と肉の感触が体温と共に伝わって来た。我知らず、安堵の吐息が漏れ出る。
「私、如何やら、貴男の顔が好きみたいです。」
「顔だけかよ。贅沢な奴だな。」
悟さんは大きな手を私の頭の天辺に置くと、わしゃわしゃと景気良く撫で始めた。その戯れに、俄に安心し切ってしまった。彼の胸板に頭を預ける。
私は恐らく、戦力としてではなく、呪霊を誘き出す囮役として登用された。如何に人手不足とは言えども、斯様に分不相応な任務である。万が一、欠けたとしても仔細は無いとして抜擢されたのだろうとも邪推出来た。人柱なのだとの諦めが、任じられた当初から心の何所かに翳っていた。生きて帰って来られずとも已む無し、と私自身を含めて、誰だって思っていたに違いなかった。悟さんも背景に――若しかすると、私の胸の裡にも感付いていたように思える。送迎車内で矢鱈と機嫌が悪かったのは、そう言った理由からなのだろう。
「悟さん。」
彼はそれに納得して見捨てなかった。面倒がって捨て置かなかった。傍に置いて、私を守ってくれようとした。
合流した悟さんは、何時もの涼しげな調子からは珍しく、暑そうに詰め襟を寛げていた。こうして寄せたこうべから感じる鼓動だって、驚く程に速い。
「もしかして、走って来てくれましたよね。」
じんわりと血の通い始めた胸がむずむずとする。込み上げて来た笑声を小さな忍び笑いに迄抑えつつ尋ねると、頭上から長息を浴びせ掛けられたが、それだって呼吸を整える為のものに思えてならないのであった。
「もう少し手間取るかと思ったけど、誰かさんがガキみたいにぴーぴー泣いてたお陰で直ぐに場所が割れた。」
「な、泣いてなんかいませんから。」
「嘘こけ。」
身体を離されたかと思えば、頭に乗せられていた手で、今度は頬をこすられた。それが乾いた筈の涙を拭うような仕草だったので、何ともばつが悪い。とは言えども、余りにも優しい手付きだったものだから心地好くて、大人しく二度、三度と撫でられていると、悟さんは唐突にデコピンを食らわせて来た。「痛ッ!?」と訳もわからずに声を上げる私を見下ろして、彼が気の抜けた声で言う。
「はー……ラーメン食いたい。」
「奢れ、との催促ですか。」
「何?「命の恩人にお礼がしたい。」?」
態とらしく耳輪に手を添えて聞き返された。癪に障るが、今のは私の方が悪かったと咳払いをしてから、言葉を正す。
「有り難く奢らせて頂きます。」
「じゃ、さっさと下りてさっさと食いに行くか。掴まってろよ。」
言うが早いか、お姫様抱っこの形で抱き上げられる。自分で歩けると言いたくて肩を押そうとすると、「掴まってろ。」と念を押された。凄まれては仕方が無く、ひょいひょいと危なげ無く歩き出す悟さんの肩にぎうとしがみつく。不図、見上げた夜の天幕はすっきりと洗われたようで、鏤められた星々が清しいさまでちかちかと瞬いていた。その輝きの鮮烈さたるや、伝えるべき事があるだろう、と警告してくれているようでもある。
「悟さん。」。斯うして名前を呼ぶのは、本日、何度目か。草木の生い茂る道無き道の先を確かめながら耳を傾けてくれていると窺い知れたので、横顔に向けて、そろそろと吐露する。
「ごめんなさい。約束を守れなくて。」
「本当にな。迷子捜しなんて業務外もいいトコだっつーの。」
何時もよりもずうっと近くにある月魄じみた冴え冴えとした美貌には、任務を申し渡された時と似た、渋みの有る色がじわりじわりと浮かび始めていた。
「でも、捜してくれていたんですよね。」
「当たり前だろ。」
「有り難う御座います。」
「……別に。」
不機嫌、とは些か異なるように感ぜられるそれの正体は、直ぐ様に悟さんの口から明かされる事となった。
「っつーか、最初からこうやって運んでたら良かったのか。そしたら――」
気不味そうに閉じた唇がその先を紡ぐ事は遂に無かったが、其所迄言われれば或る程度は心中の察しもつく。結果的に私を撒いた事を気にしていたのだろう、とわかってしまった。
掛けるべき言葉を探して視線を彷徨わせる。不意を打って、青い闇の中でも燦然としている格別の双眸と搗ち合う。「何ニヤけてんだよ。」と不貞腐れたかのような声音が寄越される迄、私は自分の頬がすっかり弛んでしまっているのに気が付けなかったのであった。
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