jujutsu
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春に向けて薄色の息吹きを育む、繭のようだ。
桜の蕾をそんな詩的な表現で飾り立てた彼のひとは、中学校の国語の先生だった。清潔感は有っても野暮ったさが抜け切らない、一つ一つが素朴なパーツで出来ている風体のひとだった。取り立てて目立つ事は無いが、不図発する言葉に、は、とさせられるひとだった。長らく校庭に植わっている木のようなひとだった。私の、初恋のひと、だった。かと言って何が有った訳でも無く、何をした訳でも無く、何を望んだ訳でも無い。夏休みの宿題の、朝顔の観察日記にも似ていた。猫の足音のように静かな佇まいを眺めて、薄くしか開かれない口が授業の合間に語る調べを都度、記憶する。それだけで満たされる慕情だった。だから、だろうか。卒業式のその日に、蒐集したものを日のもとに暴露するみたいに、秘めていた胸のうちを告白するなんて事もしなかった。それが立場有る彼の為に出来る精一杯の報い方だと、色めき立つ周囲に流されずにその選択が出来る自分はこの齢にしてよい女なのだと、何所かで誇ってすらみせた。叶わない方が一層うつくしいのだと、幼い胸に仕舞い込んだ。初恋、と銘打ったものの、実のところは地に足のつかない憧憬の類いだったのやも知れない、とは数年経った今になって漸く思う事だ。
「お熱い視線だこと。」
背後からのんびりとした声が掛けられた。振り返る間も無く、すいと隣に並び立った大きなおおきな影を見上げる。「悟さん。」と名前を呼ぶと、顔を傾けて弧を描いた口もとをよく見せてくれた。白い髪が薄ぼけた冬の青空によく映えて、すじ雲のようだった。ふわりふわりと揺れる毛先を目で愛おしみながら、問い掛ける。
「何かご用ですか。」
「話しかけたい後ろ姿をしていた。話しかける理由なんてそれで充分でしょ。」
「それは大層な用事ですね。」
火急の任務が入ったのだろうかと一応は身構えたが、違ったようで何よりだ。
束の間の平和を確約されたので、ふくふくとしだした蕾に視線を取って返す。
今日の日は春を先取りしたかのような装いをしていた。風は氷解して柔らかく、空に遊ぶ雲はきらきらと白いものばかり。麗らかな眺めにご機嫌な太陽は恩寵を彼方此方に振り撒いて、花芽も木の芽も軒並みほぐした。野放図な枝振りが野生美を感じさせるこの桜の木も例には漏れず、一日足らずで鱈腹、陽光をご馳走になったと見える。昨日通り掛かった際は、蕾はこれ程は丸くなっていなかった。成程、繭のようだ。在りし日の声を、二度目は心の中でなぞった。
「この木、人面樹とかだったっけ? よく見てるけど何かあるの?」
一歩、二歩、三歩、と浮わついたように軽い足取りで、悟さんは木へと近付いた。現代最強の呪術師に向けて丁寧にこうべを垂れるひと枝を指先でつつく彼に、一つも似ていないなあ、との感慨を深める。髪の色、瞳の色、よく着ている服の色。口調、笑い方、歩き方。どれもこれもが異なっている。あのひとは上背が無かったし、無闇矢鱈とものに触れる事も無かった。穏やかに見える物腰は唯一、似通っているだろうか。そんな事は無いか。悟さんのそれは絶対的な自信から生じている情緒の安定であって、気性とは関係の無いものだとわかる。比較してゆくと、過去を見分して箱詰めにしてゆく作業じみていて、苦笑が浮かび上がって来た。
「初恋のひとの言葉を思い出していたんです。随分と奇麗な響きだったので、思い出深くて。」
「それって僕――じゃないか。僕が初めての男じゃなかったんだ。」
「興味が惹かれるのはそこですか。」
何故か非常に意外そうに嘯く悟さんに、そう言えば中世の欧州では権力者は初夜権なんてクソ食らえなものを得ていたのだったか、と書物で得た余計な知識が脳裏に転び出た。
呆れを含んでじっとりとした眼差しを向けた先で、彼は枝を弄んでいた手を頤に遣って、これまた不思議だと言わんばかりに首を傾げる。
「だって、恋バナのフリじゃあないの? それ。」
「違いますけれども、貴男が初恋の相手だったら人生観が歪みそうだとは思います。」
「言うねえ。僕の事、好きなくせに。」
動揺はしなかった。私が悟さんに異性としての好意を抱いているのは本人に筒抜けな事で、それどころか同期生達にだって寮母さんにだって教師陣にだって、詰まるところは呪術高専の隅々に至る迄に周知の事実なのだ。
初めて仰せ付かった単独任務の時の出来事だ。相対した一級相当の呪霊を祓えはしたもののへまをやり、相討ち宛らの大怪我をして帰還した私を筵山の麓で出迎えてくれたのは、当時、担任教師を務めていた悟さんだった。赤く濡れるのも構わずに応急処置の施された襤褸の身体を抱え上げて、急ぎ硝子さんのもとへ担ぎ込もうとする彼は、酷い痛みを力ずくで鎮めるようなまったき力強さで笑いかけてくれた。「もう大丈夫。」と。「よくやったね。」と。腕の中から見上げた途端、頭がくらりと揺れた。多量の血を失った肉体を血潮が熱くめぐる音を聞いた。弱々しく震えていた心の臓が、高らかに歌い出した。此所で果てるのならばいっそ。傷口の深さが生んだ縁起でも無い不安に、未練なんぞを残すべきではない、と嗾けられた。硝子さんの待機する医務室の扉が見えて来る辺りで、私は、「好きです!」と。「貴男の事が好きになってしまいました!」と残された有りっ丈の力で以て悟さんへの告白を全うし、その後、気絶した。目が覚めた時には――悟さん本人の口によるものか硝子さんの口によるものか――面白可笑しい伝説として高専中に流布していたと言う顛末だ。
笑い話として語り種となってはいるが、私にとっては、今でも折りに触れて呼び起こす、恋に落ちた大切な瞬間だった。吊り橋理論だと断ずる声も有ったが、仮令切っ掛けはそうであったとしても、それのみで一心に想い続けられるものではない。だからこそこうして四年を掛けて、私は操を証明してみせたのだ。
「で、どんな男だったの?」
真っ向から踏み込まれる感触がした。恋愛遍歴に興味を持たれた事が気付けとなり、思考が一気に回転する。
詳らかに話しても彼の気は引けないだろう、と考える。得意ではない駆け引きは何時だってままごとじみている自覚は有る。只でさえ飄々としている彼が相手だ。何れだけ手札を確認しても、何れが切り札足り得るのか丸でわからない。それでも、考える。考える程に締め付けられてゆく頭蓋とは正反対に、視界いっぱいに広がる桜木の枝は長閑極まる蒼穹を背負って伸び伸びとしている。梢を何とは無しに仰視しながら、尚も考えて、考える。合わぬ目線を合わせる為に首を痛めるのも、見合う台詞選びをする度に頭を痛めるのも、全ては貴男を手に入れる為の背伸びだった。
「先生、でした。中学校の国語の、先生。」
二分も三分も経って漸く絞り出した回答は我ながら苦し紛れであったが、悟さんはけらけらと笑い出した。釣れたと思ったが、手応えは無い。愉快だからと言うよりは、揶揄している気配が色濃い。そして如何やら、その勘は当たっていたようだ。
「好きだね、先生。そう言う性癖?」
何とも意地の悪い事を言うものだ。奥歯を噛み締めて形作った渋面で、心の有り様を表明する。
「偶々です。」
「二回も重なれば偶然よりも必然に近いでしょ。」
「だとしても、教師だから好きな訳ではありません。貴男の事は、貴男だから好きなんです。」
「どうかな。それを差し引いても僕はパーフェクトヒューマンだけど、君にとって教師ブランドは大事なファクターなんじゃない?」
命を得たばかりの情熱の名を大呼で告げた、あの日と同じ角度を保つ唇が、今はなんと憎々しい事か。
「僕にとっては、君はどこまで行っても可愛い教え子だよ。」
況してや、意識を取り戻した時に受け渡された返答をふた度丁寧に寄越されたとあらば、尚の事!
この恋心を桜の蕾と喩えるならば、彼こそは陽光だ。向けられる眼差し一つ、言葉一つ、笑顔一つを糧として日毎日毎に膨らみゆき、春を待ってはち切れそうな想いの繭玉は、彼の手によって育まれたも同然である。
だとしたら、言う通りに。最強の男の教え子らしく、身も心も強く在らねば生徒が廃るのではあるまいか。
「言っていられるのも今の内です。」
桜の木の根もとで薄笑いを浮かべる悟さんに、無性に腹が立った。超然と気取って、何なのだ。打ち崩してやりたくて、一歩、二歩、三歩。四歩。距離を詰めて、身体の横に垂らした大きな手を取る。片手では逃してしまいそうだったので、両手で捕まえる。見下ろすまなこの気色は覆いによって確かめる事は適わないが、何だろうが受けて立つ構えでいた。――もう直ぐ四年になる。移り気な青い年頃の全てを懸けて、絶えず想って来た。退かれても後には退かない覚悟を固めるには充分な価値の有る年月だ。目に、手に、力を込める。
「精々、今の内に自由を謳歌しているが良いでしょう。卒業後を如何ぞお楽しみに。」
初恋からの羽化。無欲を脱ぎ捨てて花開いたこれをこそ、私は恋と呼びたかった。
悟さんは一瞬だけ押し黙った後、春の前触れを思わせる朗らかな笑い声を上げた。今度は皮肉気にではなく、真に面白く可笑しそうに笑ったのだった。
「良いね。そう言う強気なところは僕好みだ。」
頑なに睨め付けていたのに、たった一つの言葉で簡単に綻んでしまうのだから――嗚呼もう、格好が付かない。逆上せ上がっている顔を伏して隠して、「……もうッ!」。単純な自分への八つ当たりから地面を踏む。後頭部に浴びせられる忍び笑いが、頭を更に重くした。
「さて。一体どんな花が咲くんだろうね。」
不意に、なぞなぞみたいな呟きが落ちて来た。しみじみとした実感の籠った調子に誘われておもてを上げると、悟さんは天上を振り仰いでいた。その様子が実に清しそうだったので空に何かあるのかと同じくするが、何れ程左右に視点を移動させようが、蜘蛛の巣のように張り巡らされた枝々があるばかりだ。
萌芽を助ける風のひとすじに撫でられてさわさわと心地好く歌う小枝のもとで、悟さんの意図を窺う。
「桜の木に梅の花は咲かないでしょう。」
「そ。世の中は何でも起こりそうで、そんな都合良くは出来ていない。だから、桜の木に梅の花を咲かせたければもっと頭を使わないと。」
「何が言いたいんですか。」
顔を見交わすなり、手を握り返された。思わぬ行動に瞠目している隙を突いて、白皙のかんばせが寄せられる。マウンテンパーカーのポケットに突っ込んでいたもう片方の手で眼帯を片目の分だけ押し上げると、悟さんは頭上に広がる蒼天よりも深い蒼を宿す瞳に私を映した。
「アドバイスだよ。それと、君が僕の教え子じゃあなくなる時が楽しみになって来たなって話。」
挑戦的な光を帯びる眼差しが、言葉以上に彼の心変わりを語っていた。
どの音が琴線に触れたものかは彼のみぞ知るところだが、詰まり、少しはその気にさせられたと言う事なのだろう。快哉を叫ぶには早いと、弛んでふにゃふにゃとする唇をやっとの思いで引き結ぶ。引き結べていないに違いない。覗き込む悟さんの顔を鏡とするならば、私の表情筋は確実に締まりが無くなっている。胸に芽吹く蕾が開花の季節を期待して存分に咲っているのだから、仕様の無い事とも言えよう。
先駆けて浮かれる頬に伸びて来た悪戯な人さし指を振り払おうと、手を持ち上げようとする。が――何時の間に脱したのか。彼を捕らえていた筈が気付けば攻守が逆転しており、私の両手はその片手で容易く拘束されていた。これでは幾ら顔を背けようとも、殆ど無抵抗にされるが儘とならざるを得ない。
つんつんもにもにと好きに勝手に頬を弄ぶ手指から感ずる態とらしい程の子ども扱いを見過ごす為に、空をぎっしりと覆う枝の節々に萌ゆる、春を包括した繭を見遣る。強張りをほどいて爛漫と咲き誇る淡い祝福の光景に思いを馳せると、いとけないこの遣り取りは今だけに許された特別に思えて、何所かしらに薄らさびしさが滲むようであった。
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