jujutsu
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部屋の扉を打つノック音は耳馴染んだ軽快な響きで、携帯端末が受信した先触れ――在室かを問うメッセージが無かったとしても、誰が訪れたのかがようくわかる。
久方振りの逢瀬に溢れそうな胸の高鳴りを押し込みながら、玄関に向かう。「はいはい。」と来訪者に届かない声を上げたのは、喉の暖機運転の為だ。ドアノブに手を掛ける前に、前髪が乱れている、と玄関に据えた鏡が忠告をくれた。そそくさと直して、鏡の中からオーケーサインが出ると同時にドアノブを掴み、扉を押し開く。
何時見ても気持ち良くコントラストがはっきりしている姿だと思う。
「お帰りなさい、悟さん。」
「ただいま。これ、土産ね。」
へらへらと笑いながら差し出された紙袋には、彼が今日迄出張していた先の名物となっている銘菓の名前が印字されていた。奇しくもそれは、次の赴任先を聞いた先日、何とは無しに食べたいと呟いた代物に相違無いのだが、まさか気に留めていてくれたとは。人の話を聞いていないようで確りと聞いているのだから、まったく、油断ならない。
ささやかなサプライズに、何よりもその裏に存在する気遣いに、自然と顔が弛んでゆく。悟さんを見上げる。御礼を口にしようとして――
「――この後の予定は?」
「折角買って来たのに無視? 昼飯も食べて来たし、特に無いけど。」
「そうですか。では、遠慮はしません。」
締まりの無かった頬は既に強張り、声もそれに倣った。
お土産を携える腕をぐいと引いて、室内に引っ張り込む。悟さんは踏ん張って拒む事も無く、すんなりと招かれてくれた。突っ掛けを脱いで短い廊下を渡り間仕切りを開いて、住み慣れた部屋へと放る。奪い去った紙袋は机上に遣り、次に、されるが儘となっていた彼と向かい合う。手の平で指し示すのは、長方形の揺り籠だ。
「上がってください。」
ベッドに。
語気を強めて継ぐと、悟さんはしなを作って、「優しくしてね。」などと巫山戯た事を言い出した。黒衣の肩を押して、力ずくで寝台に沈めてやる。引き締まった腹の上に跨がって全体を見下ろすと、ベッドがやけに窮屈なものに見えた。平均的な身長の持ち主である私にとっては充分な寝床だが、身の丈百九十センチメートルを超える長躯にはそうとはならない。道理である。キングサイズのベッドが備えられている彼の部屋に移った方が賢明だったのでは。良策が到着したが、一歩も二歩も遅かった。連れ込んでしまった手前、押し倒してしまった手前も有って、今更、後には引けないのだ。申し訳無いが、こればかりは我慢して貰うより他無い。
「今日はやけに積極的じゃん。僕がいなくて寂しかった?」
太股を摩る大きな手によって、没頭していた思考は浮上させられた。ぺちりとはたいておいたを窘める。
「貴男の方こそ、一人寝は寂しくて寂しくて夜も眠れなかったのではありませんか。」
棘を仕込んではみたが、核心を突くには鋭さが足りていなかったようだ。彼の唇は美しく弧を描いて、代わり映え無く上機嫌を表していた。
組み敷かれると言う、世間一般では不利とされる状態を強いられているにも関わらず、悟さんは懲りずに手を伸べて来た。俯いた事で簾の如く垂れ下がる髪のひと房を掬い取られて、耳に掛けられる。清廉な親切心からの仕草でないのは明らかだった。じっくりとした手付きは、情欲の火種を熾そうと狙う魔手のそれである。
「大人しくしていてください。」
「してるよ。」
「していないから言っているんです。」
耳輪をなぞられた事で熱された頬が、骨張った手の甲でするりと撫でられた。ほら、また。ぎりりと睨めて、序でに鎖骨の辺りを押さえる手にも力を込めて、これ以上の自由を牽制する。悟さんはオーバーに肩を竦めると、両手をシーツの上に落とした。それで良い。首肯して、遂に受け身に徹した彼の頬に、触れる。立派な体躯に、屈指の実力を持ち合わせている。そんな悟さんを相手に可笑しな比喩を持ち出している自覚は有るけれども――力の加減を誤ればいとも容易く崩れてしまう繊細な砂糖細工にするように、そうっと。触れる。
眼帯越しに視線が縺れ合う気配を感じた。解かずに手繰る。身を寄せ、こうべを寄せ――そうして悟さんの隣にころりと身体を横たえた私は、彼の頭を胸に掻き抱いた。
「……は?」
詰めた息と共に間の抜けた音を吐き出したきり、珍しくも処理落ちしたパソコン画面の如く固まってしまった悟さんだったが、暫くすると、「えー……。」と至極釈然としないと訴える声を新たに上げるのであった。
「今のはキスする流れだったと思うんだけど。それ以上の事も。」
「逞しい妄想力ですこと。」
「男心を弄びやがって。何、この状況。」
酷く憮然としてはいるものの、無理に腕を引き剥がして逃れたりしないところを見るに、然程悪い気はしていないと窺えた。重畳だ。宥め透かす心算で彼の髪をようしよしと撫ぜ回しながら、努めて静かに口火を切る。
「悟さん、いつから寝ていないんですか。」
言葉の奥底に忍ばせておいた苦味渋味を察してのご機嫌取りなのだろうか。私の遣り易いように、悟さんは差し向かう格好へと体勢を変えた。腕の中から答えが上がるのを待つ。
「んー……二日前から?」
考え込む間や撥ね上げられた語尾は、鯖を読んでいるとも取れたが、真実は彼のみぞ知る事だ。
睡眠を取っていないと言う揺るがぬ事実のみを飲み込んで、代わりに嘆息を押し付ける。普段はちゃらんぽらんと言う形容動詞を背負って歩いているような人なのに、見過ごしていると斯様な無茶を軽々とおこなってしまう。こう言うところがあるから迂闊に目が離せない、離したくない気持ちにさせられるのだ。
ひっそりと眉を顰めている私を他所に、悟さんは今しも拍手でも贈って来そうな声音でその感心を示す。
「よくわかったね。これだと隈だって見えないのに。」
「その質問、馬鹿にしていると取りますよ。」
「何で? 生理前でピリピリしてんの?」
「デリカシー!」
さも当然のように周期が把握されている事は今は横に置いておくにしても、現行犯は看過出来ない。透かさずヘッドロックに移行する。ぎりぎりと絞め付けを強めると、「ギブギブ。」と腕をタップされた。態とらしい。苦しがっている様子も無く、そもそも、此方に手応えすら与えていないではないか。無視をして話を進める。
「恋人の変化にも感付けないような、愚鈍な女だと侮っているのかと思っただけです。――幾ら隠そうと、こうして一目で見抜いてしまえるんですから。余り、心配させないでください。」
少々荒っぽいが、絞め落として強制的に休ませる事が叶うならば、一体どれだけ気が楽になるか。
聞く耳を持たない私に痺れを切らせたのだろう。「ギブて。」。二の腕が掴まれた。それを機として緊箍児を模した拘束を外すと、悟さんはこれまた態とらしくこめかみを揉んだ。
「二日くらい寝なくたって大丈夫だって。そんなヤワな男に見えるって言うんなら、そっちこそ僕のこと侮ってんじゃないの?」
黒布の奥で上目勝ちに尋ね掛ける蒼のまなこには、きっと、不満の色がべっとりと塗りたくられている。「まさか。」と、信頼と結び付いた答えは即座に出て来たものだが、それだけでは曲がった唇は直らないらしい。
「貴男が何よりも強い事はわかっています。」
「それが理解出来てるお利口な君なら、心配なんて要らないって事もわかるでしょ。」
斯様な戯れ合いに術式を無駄使いするくらいだ。仰有る通りに、本当に支障は無いのだろう。今、私の胸に塒を巻いている憂いは、馬鹿馬鹿しい杞憂でしかないのやも知れない。――だとしても。一つ一つを見逃して無茶を重ねられるなんて事は堪らない。罷り通せる訳も無い。いとしいひとの身体を案ずるのは、当然の情緒の筈だ。
届かない事は承知の上で、彼の頬を極めて軽く張り、不信を疑る瞳をただす。
「それとこれとは話が別です。睡眠を疎かにするのは断じていけません。育ちませんよ。」
「育……、……二十八の男に言う台詞とは思えねー。」
毒気を抜かれたようにぽかんとしたかと思えば、くつくつと喉で笑われた。次いで、彼は自分の頬に添えられている私の手に、自身の手を重ねて来た。眼帯の端に指先を掛けるよう仕向けられる。
「取って。」
首を小さく傾いで為される、猫撫で声でのおねだり。自動販売機よりも背丈の高い成人男性に似合いの甘え方では無いのだろうが、この目には実際に可愛らしいと感ぜられてしまうのだから不思議だ。
「急に甘えたになりましたね。」
「子ども扱いに乗っかってやろうと思っただけだよ。」
「子ども扱いはしていませんよ。恋人扱いしかしていません。」
「だったらもっと言葉選びを色っぽくするとかさぁ。」
「はいはい。眼帯、取りますよ。」
下げたものか、上げたものか。些細な選択に少しばかり躊躇って、ゆっくりと引き上げる事にした。長い睫毛を引っ掛けて抜いてしまいやしないかと冷や冷やしながら、慎重に捲り上げる。秘された相貌を暴いてゆく行為に背徳を見出だしかけていた不埒な心は、先程、隈が如何とか言っていた割りには小綺麗さの褪せていない目もとを見付けると、途端にすんと鎮まった。つぶさに観察しようが、一切のくすみが見られない。本当に二十八歳の人間の肉体なのだろうか。只今、羨望と嫉妬とを食い合わせた成人女性の顔が、チベットスナギツネの霊に憑かれたみたいな相となり果ててしまうのも致し方無い不条理であった。
――気を取り直して。取り去った眼帯を手近な所に置いて、玄関先で自分に施したように、乱れた前髪を手櫛で整えてやる。露わとなった双眸をぱちりぱちりと瞬かせて、擽ったそうに蕩めいたかんばせの、なんといとおしいこと。見惚れている隙に、胸元に顔をうずめて来たのみならず、前髪を直した甲斐を無くするさまでぐいぐいと擦り寄られた。
「うん。落ち着く。よく眠れそうだ。」
そうやって深く呼吸をされると、汗臭くはないだろうか、と俄に不安になってしまう。つい引けてしまった腰は、巻き付いた腕によって容易く引き戻される事となった。一分の隙間も許さないように密着させられる。お互いの体温が満遍無く混ざり合う頃には、悟さんは日向ぼっこを満喫する猫宛らに穏やかな欠伸を漏らしていた。
「それじゃあ、健気な彼女の厚意に甘えるとしますか。テキトーな時間で起こして。」
「ええ。如何ぞごゆっくり。」
「あと、土産。起きたら僕も食べるから、そのつもりで残しといて。」
「……そのつもりも何も、この体勢で机の上のものが食べられると思っているんですか。」
からからと笑って落着させると、悟さんはお喋りに幕を引いた。手持ち無沙汰からそろそろと純白の鬣を撫でていたが、その段になって漸く、入眠の障りとなっていないかと気が付く。慌てて手を引っ込めようとする私を、彼は、「そのまま。」と短い言葉で引きとめた。お言い付けの通りに、後頭部への愛撫を続ける。撫ぜる。撫ぜる。撫ぜては、撫ぜる。ツーブロックの異なる手触りを楽しむ私の耳に、次第に、微かな寝息が届き始めた。
滅多には拝めぬつむじを愛でる。腕の中から漏れ聞こえる規則正しい呼吸音は、玄関先から付き纏っていた憂慮の翳りを打ち払って、胸の奥でとくりとする心の臓にもよく作用してくれた。この鼓動はよい子守唄となっているだろうか。
白のかぶりをかいなに抱き直す。
願わくは、如何か、如何か、彼のゆく夢路がよいものでありますように。
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