jujutsu
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「恵くん、起きている?」
「当たり前ですよね。」
「眠かったら寝ても良いよ。」
「他人の心配はいいんで早く寝てください。」
「本当に、寝ちゃっても良いのに。」
「良い訳ありますか。」
「部屋の主が良いと言っているのだから良い訳だらけだよ。」
「……何でそんなに危機感無いんですか。五条先生に添い寝を頼もうとするくらいだし、神経、切れてるんですか。」
「だから、あれは冗談だって。」
「早く寝てください。」
「恵くん、怒らないで。もう少しお喋りしようよ。」
「怒ってないです。早く寝てください。この儘眠れなかったら明日の任務に差し支えるかも、って言ったのは夢子さんですよ。」
「そうなんだけれどねえ。――あ。恵くんが顔を見せてくれたら安心して眠れるかも。」
「絶対嫌です。」
「頑固だなあ。」
「譲歩してる方ですよ。これでも。」
「もう一声。」
「無理ですね。」
「無理なんて事はない。ネバーギブアップだよ、恵くん。」
「マジで早く寝てくれ……。今、何時だと思ってるんですか。」
頭を酷く痛めている時のようなか細い声が絞り出される。痛ましいものだったので、つい目の前の背中を摩ってあげたくなるけれども、辛うじて居残っていた良識だとか道徳だとか思い遣りだとかがそれを制止してくれた。
常夜灯に手助けされながら、背後を守る壁を振り仰ぐ。掛けてある時計の針の角度を確かめると、何時の間にか、シンデレラが大慌てする時間になっていた。廊下を歩いていた恵くんを羽交い締めにして部屋に引き摺り込んだのが十時の終わり頃だったから、あれから一時間が経過した事になる。
「誰彼に添い寝して欲しくて、つい。」。お風呂上がりだったのだろう。シャンプーの真新しい匂いがする恵くんにそう訳を話すと、食い気味に、「何考えてるんですか、アンタ。」とけんけんとした物言いで叱りつけられた。それが一時間前で、「じゃあ五条さんにお願いしよう。」と言ってみたのも一時間前で、「何考えてんだアンタは!」と手首を掴まれて強く引き止められたのも一時間前で、「恵くんが添い寝してくれないならば五条さんの所に行く。」「よりにもよって何であの人の所に。」「添い寝してくれそうだから。」「タダじゃ済みませんよ。」「五条さんだって誰彼構わずに手を出すような人じゃあないよ。」「万が一があるでしょう。あの人だけじゃない。俺だって、わからないじゃないですか。」「わからなくないよ。」「甘く見るのもいい加減にしろ、って言ってんのがわからないんですか。」「わかった。だったら、私が寝る迄の間だけ傍に居て欲しいな。ね?」「全然わかってねぇだろ、それ。」との遣り取りを経て、粘りに粘った結果、確約と、おまけに苦々しい溜息を得たのも一時間前と言う事だ。
「そろそろ魔法が解けちゃう頃だねえ。」
「魔法でも呪術でも良いんで早く寝てください。」
今夜、耳に胝が出来るくらいに聞かされた台詞だ。「はあい、はい。」とお返事を良くして、毛布と掛け布団とを肩迄掛け直す。
シングルサイズのベッドに二人で収まってはいるが、ぎゅうぎゅうと犇き合う窮屈さは無かった。恵くんがベッドの端の端で身を強張らせているからだ。全身が凝り固まってしまいやしないかと心配になるそれは、私に触れないようにとの配慮なのだろうとよくわかる。誠実な青少年に無体を強いたのみならず、成長期の少年から大事な睡眠時間を奪っている。青年へと変わりゆく途中の背中を眺めていると、罪悪感と言う鑢が心を毛羽立たせるのであった。無理を徹して彼の道理を引っ込めさせておきながら、なんとエゴイスティックな事だろうか。わかっていながらも、鑢に掛けられた一部をこうして剥離させてしまうのだから、仕様も無い。
「……ごめんね。無理を言って。」
夜とは、おそろしい魔物だ。
不図、胸に不安を呼び込み、恐怖を招き入れる。
こんな仕事だ。明日には誰某と会えなくなるやも知れない、今日にも自分の命は潰えるやも知れない、などと過ってしまえば、後は深淵を覗くようなものだ。人気の無い部屋も、冷え冷えとしたシーツも、彼方此方に蟠る夜闇もおぞましくなって堪らない。だから、何か、温度が欲しかったのだ。生きている気配を間近に感じたかったのだ。勿論、誰でも良かった訳ではない。明日も明後日もその先でも、誰よりも会いたい誰彼である恵くんが部屋の前を通り掛かった時、頭よりも身体が判断を下す方が早かった。それが手荒な真似に及んだ所以なのだが――。
薄暮に似た薄闇の中で、お互いの息遣いのみが聞こえる。場を取り成そうと懸命に鳴く秒針が、たっぷり三周はした頃だろうか。
「何でそう、急にしおらしくなるんですか。」
眉間に刻まれた縦皺が見え透く声色は、しかし、観念したような響きも持っていた。
徐に、恵くんが身を起こした。頑なに頑なに背けられていた面貌が、緩慢に此方を振り返る。常夜灯の橙色すら吸い込む奥深い黒眸に、私の影が映り込んだ。
「恵くん――」
ゆっくりと手を伸べて来るその仕草は、纏わり付く躊躇いの一つ一つを解いてゆくみたいだった。遂に全てを振り切った手が、私の肩を軽く押さえる。横向きの体勢から仰向けへと変えられた。大人しく恵くんを見上げる。明かりを負った姿は、確かに、彼の言う通り、甘く見るのもいい加減にした方が良いのだろうと思わせた。
「少し、触りますよ。」
そっ、と。
肩から離れた片方の手が、私の両の目蓋に被さる。
「……昔、俺が寝られない時に――姉貴、が、やってくれたんですけど。」
じんわりと染み入って来る心地よいぬくもりに、弛緩してゆくのは身体ばかりではない。
吐息すると、少しだけ勿体無い事に、覆いが外された。惑ったと思われる一拍の間の後に、身体の真ん中、横隔膜の辺りへ手が移される。ぽん。ぽん。と規則正しい調子で、こわごわとした優しい力で叩かれる。
懐かしいなあ。私も昔、眠れない夜に両親にやって貰ったなあ。郷愁が描かれた目蓋を僅かに押し上げて、恵くんの様子を窺う。仄明かりが浮かばせた表情は、うまく出来ているのだろうか、との不安を静かに物語っていた。深いところから込み上げて来るいとおしさが、口から溢れて出てしまいそうだ。
彼が一つ打つ毎に、この胸は夜色の恐怖以外のもので色付けが為されてゆく。完全に暗幕を下ろすと――嗚呼、安らかな甘さで満たされた頭蓋の中身が、欠伸をしてやまない。「めぐみくん、」。無事に寝かし付けられてしまうその前に、伝えたい事が。ある。眠気の縄が絡み付いた腕をやっとこ持ち上げる。ふらふらと力無く手招きをすると、恵くんは素直に顔を寄せてくれたようであった。夢うつつでうっそりとする声帯を、何とかかんとか震えさせる。
「ありがと。おやすみ。」
「……おやすみなさい。」
穏やかな応えに送り出されて、あたたかさでふにゃふにゃとなった意識が、眠りの海の深く深くへと沈みゆく。
恵くんの事だ。ひと仕事を終えたからには、そろそろ自室に戻るのだろう。――目が覚めてからも彼の顔が見たいと願うのは、些か、我儘が過ぎるだろうか。
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部屋の鍵が所定の鍵置きから消えている事に気が付いたのは、出掛ける直前になってからだった。いずこかに落としたのだろうかと頭を捻ったが、疑問は一瞬で解決した。恵くんが出て行った後のドアに、きちんと鍵が閉められていたからである。恐らくは彼が気を利かせてくれたのだろう。こんな所でもしっかりしているのだから、頭が下がる。
しかし、そうなると、お目当てのものは恵くんの手中に在る事になる。地上に近い所は赤々と焼けているが、太陽は未だ輪郭を露わにしていないような時刻だ。安眠の最中だとしても何等おかしくはない。それならば無理に起こすよりも、帰って来る迄預かっていて貰う方が良いだろう。施錠せずにいた所で、此所は呪術高専の寮の中。別段、問題らしい問題も起こらないのだから問題は無い。
結論付けて、出張の供となるボストンバッグを提げて部屋を出る。その儘送迎車の待つ駐車場に赴こうとして――向こうから遣って来た人影に、目を疑った。
「恵くん……?」
黒色のジャージに着替えた恵くんが、其所には居た。足早に近寄って来るなり、上衣のポケットから何かが取り出される。差し出されたそれは、紛う方無く私の部屋の鍵だった。
「部屋を出る時に借りたんで、返しに来ました。」
「矢っ張り、恵くんが持っていたんだね。」
「勝手に持って行ってすみませんでした。」
「ううん。戸締まりしてくれて有り難う。でも、鍵くらい気にしなくても良かったのに。」
「いや駄目だろ。」
じとりと見据えられてしまった。それもマジレス付きだ。
繰り返すが、此所は数少ない見知った人間の出入りしか無い寮だ。物取りなんて出よう筈も無いのだから、鍵を掛けずに出掛けたとしても危険は無いだろうに。余程に心配性なたちなのだろうか。
「留守中に勝手に上がり込まれたらどうするんですか。五条先生とかに。」
若しくは私が余りに頼り無いと思われているか、五条さんが相当危険視されているかだ。
警告を苦笑いで往なして、恵くんの端正な顔立ちをじいっと見詰める。目の下に隈は無いようだけれども、若さは少しの無茶も覆い隠してしまえるから油断ならない。何事かと居心地悪そうに身動ぎする彼に確認を行う。
「恵くん、もしかして眠れなかった?」
「寝ましたよ。あの後、自分の部屋に帰ってから。」
「未だもうひと眠り出来る時間だけれども……ジャージを着ていると言う事は、起きている心算なの?」
「折角早起きしたんで、何かしようと思って。」
「そっか。起こさせちゃってごめんね。」
「見送りもしたかったから、寧ろ丁度良かったです。」
自然なさまでバッグが取り上げられた。それから、「鍵、閉めてください。」と厳しい眼差しで促されてしまった。居た堪れない気持ちで鍵穴に鍵を差し込んで、回す。錠の落ちる音を耳にすると、彼は面差しいっぱいに含ませていた険しさを随分と和らげた。
静寂の廊下を歩みながら、彼の横顔を見遣る。我儘を叶えてくれた神様だか仏様だか何だかが、改めて胸のうちをむずむずと擽って来るものだから、小さな笑いがこぼれてしまうのも宜なるかな。
「夢子さん、機嫌良いですね。――寝てなくてハイになってたりしませんか。」
「まさか。お陰様でぐっすりだったよ。恵くん、魔法使いの才能もあるんじゃあないかなあ。」
「呪術師なんですけど。」
「まあまあ。眠れない時は、またお願いしたいな。魔法使いさん。」
「勘弁してください。人の忍耐力に期待し過ぎです。」
左の肩を押さえたおやすみの魔法使いこと恵くんは、そう言って視線を逸らすのだった。
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