jujutsu
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「北へ。だって、犯罪者は北へ逃げるものでしょう?」
明確な行き先を問いただすと、女はたおやかな微笑を浮かべてそう言い放った。真っ直ぐに前を向く瞳は、然れど、しなやかとは程遠い硬度を有している。それは、逃走であっても敗走ではないと、確固として謳っていた。
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男が通り名通りの仕事をし終えた、後。
彼を引き連れた女呪詛師は、考えが有るとは到底思えぬ気儘なさまで、北と思しき方角を進んだ。
頭を押さえ付けられた太陽が、それでも人々の安寧を長らえようと、躙り寄る暮夜に光輝の残滓の矢を射掛ける。天空の覇権をめぐる鬩ぎ合い。その返り血を浴びでもしたように、道々の二人は透明な赤色に染まっていた。真赤な頬を機嫌良く柔らかにして、「明日も晴れそうですね。憎まれっ子が世に憚るにはお誂え向きです。」と女が暢気に呟く。男は、面倒臭そうな口振りで、「素直に幸先が良いって言や良いだろ。」と応じた。
そう言う風に、ぽつりぽつりと取り留めの無い会話を繰り広げながら歩んでいる内に、側の道路には車通りが増えて来た。バイパス沿いに出たのだ。その頃には、奮闘むなしく権勢を失した日天子を嘲笑うかのように、夜陰が世界の隅々迄をおかしていたのだった。此方こそが縄張りとばかりに二人の歩みに都合の悪い所は無かったが、気温の下がるのに同調して腹の中が冷え冷えとして来ると、示し合わせて目先に在ったファミリーレストランのチェーン店に入った。煌々とした店内に踏み込むと同時に、愛想の良い店員にボックス席へと案内される。手渡されたメニューを広げるよりも先に、女が言った。「お好きなだけ如何ぞ。お代金は私が負担しましょう。」。卓に頬杖を突いてメニューを物色しながら、男が返す。「それはこっちの台詞だ。」。「格好を付けずともよろしいと思いますが。」「ほっとけ。趣味だ。」。注文した料理が運ばれて来る迄の間に交わされた応酬の末に、代金は男が持つ事と相成った。
食事を終えて店を出るなり、「さて。」。身体もあたたまったので気を取り直して、と言う向きだろうか。短く口にした女は、早速、陣頭指揮を執る。体力に難を抱えるとの言葉通りに、歩き通しの足取りはやや覚束無くなっている。よもや抱えてゆけなどと言い出しはすまいなと、男が目や口で先手を打つ必要は無かった。この先も続くと思われた行軍であったが、暫く行った所で、不意に女の足が止まった為である。「今夜はここに泊まりましょう。」。白木の小枝を思わせる指が示したのは、場違いにごてごてとライトアップされた豪奢な外観の宿泊施設――ラブホテル、であった。
然しもの男も酷く辟易した。「意味、わかってんのか?」「勿論。呪術界は基本的に男社会。こう言う場所は、男性だけでは入れないのでしょう?」。女は己の妙案を誇ったが、対する男はと言えば、自分への危機感の無さ――或いは軽々にも寄せられた信頼感か――に暗愚を見ざるを得なかった。理には適っているが故に反対はせずに、それでも傷痕の跨がる唇の端に引っ掛けた呆れを隠す事無く、男は堂々と入り口に向かう華奢な背に追随した。壁一面に飾られた室内写真の数々を前にして、「それで、如何すれば良いんですか。」と振り返る女に、手慣れた様子で一つのパネルのボタンを押してやる。素泊まりを目的としているのだから一番シンプルな部屋で事足りるであろう、との意図からの選択であったが、「随分と面白味の無い。」と言う一言が寄越された。不満が充填されている。「何しに来てんだよ。オマエは。」「折角なのですから、それらしい部屋が見てみたいと思うものでしょう。」「へーへー、また今度な。」「次こそは必ずですよ。」「マジでこっからラブホ暮らしすんのかよ。」。二人で肩を並べて廊下を進む。
指定された部屋に入室してソファに鞄を下ろすなり、女はこまごまと設備を眺めて、へえ、とか、ふうん、とかを逐一漏らした。広く造られた部屋に一台しか無いベッドのサイズと、其所に仲睦まじく並べられている二つの枕。ヘッドボードには今か今かと出番を待ちわびるコンドームが有り、浴室には恋人達の気分を盛り上げるジャグジーバスが在り、それ等に反して飾り気の無い無骨な精算機が備え付けられている。加えて、テレビを点ければ裸の男女が淫猥に交わる光景が映し出される点以外は、ビジネスホテルの設えと然程遜色は無い。一通り室内を舐め尽くして、女はふた度、ロビーで漏らした感想を溜息と共に吐き出した。「それでは、私はシャワーを浴びて来ます。」と月並みな台詞を態々残すと、用意されていたバスローブを手に取り、彼女は浴室へと姿を消した。
それを見送ると、男は人心地ついたように息を吐いて、清潔なシーツで整えられたベッドにどっかりと腰掛けた。背中から倒れ込む。目蓋を伏せて少しすると、シャワーのざあざあとした音が鋭敏な聴覚に差し込んだ。暇を持て余して、音から得られる情報をもとに女の一挙手一投足を見透かしてみたりもしたが、特段おかしな真似をする気配も無いとなると、その悪趣味にも直ぐに飽きてしまった。
何時迄もぼんやりと天井を眺めているのも馬鹿らしくなって、ごそごそとスウェットズボンのポケットを漁る。本来であれば男女の緊張を解す役割を担っている、部屋を優しく照らす間接照明に、零が行儀良く居並ぶ小切手を透かす。
「命の値段にしてはご大層な金額だな。」
「貴男の値打ちでもあります。」
瑞々しく湯気を纏った女が、風呂から上がって来た。
ボディソープの華やかな香りは実体を伴った色香となって肌を潤しており、上気した頬などは今を開花の時と定めた生娘のように扇情的であったが、男のまなこには情欲の猛りは宿りやしなかった。そればかりか胡乱に鋭くなる一方で、人間を蠱惑する化生の正体を看破しようとしているようですらある。
全身を検める不躾を気にとめる事無く、女は男の傍らに腰を下ろすと、嫣然と微笑んだ。
「噂には聞いていましたが、聞きしに勝る腕で何よりでした。」
「宣伝した覚えはないんだがな。その情報、どうやって仕入れた?」
「一門の呪術師が殺された事がありまして、そこから辿りました。」
「そいつはご愁傷様。」
「幸いな事です。手間が一つ、省けたのですから。」
目の前の男に血縁が殺されたと言うのに、女の口調は随分と凪いでいた。「手間、ね。」と男が台詞を切り取ると、貼り付けられた笑みが不自然に深まった。取り繕っている様子に見えたが、男は敢えて踏み込まない事にした。そこには、踏み込まない事にした。
己が手に掛けたと言う呪術師は一体どんなであったか、と記憶の失せ物探しをしようと試みたのは、この突拍子も無い女呪詛師の情報を補完したいが為であった。とは言えども、呪術師何某には然して特徴らしい特徴は無かったのであろう。女の顔から類推しようにも、丸でぴんとは来なかった。
早々に諦めて、小切手に視線を戻す。
「だったらその分、上乗せして貰うか。」
「業突く張りな事ですね。」
態とらしく頬に手を遣って困った風な声を出すと、女もまた同じく、金銭的価値が凝縮された紙切れを横目で捉えた。
「残念な事ですが、私の纏まった財産はその三億円のみ。残る手持ちは、小銭程度の路銀だけです。足りないとあれば、後は誰彼を呪い殺してお納めするよりほかありませんね。」
「最低だな。」
「お互い様でしょう。」
生欠伸を噛み殺しながら、揶揄を打ち返す。女は男に倣って、その隣にそっと身を横たえた。
男が流し見る。洗い立ての髪が白布の海原に揺蕩っていた。視界に這い纏るひと房を払おうとしたものか、手慰みにしようとしたものか。不図、手を伸ばそうとして――やめた。髪の広がり方一つ取っても手練手管の内であり、女の思うが儘なのではないかと、眉に唾したのだ。持ち上げようとした腕を枕にすると、もったりとした静寂に身を浸す。此所がラブホテルの一室であると改めて気付かされる。条件反射的なものか、行為に及んでもいないのに、男は身体に事後の気怠さを感じた。
「何か話せ。」
「何か、とは?」
「何でも良い。面白けりゃあ上乗せ分をチャラにしてやっても良いぜ。」
「千夜一夜物語の心算ですか。生憎と、そちらも手持ちはありません。代わりに――」
嘘臭く眉を下げてから、女は媚びる眼差しを男に絡めた。
バスローブの袷から覗かせた胸は水蜜桃に似て、噎せ返る程に甘ったるい空気を寝台に染み透らせる。ゆっくりと、ゆっくりと、誘い入れた意識に見せ付けるようにして、細作りの手が自らの身体の輪郭をなぞってゆく。薄らと開いた唇に指を添えて見せ、頤を過ぎて喉頸を通り、手の平で二つの丘陵を撫でて、なだらかな腹を伝い、臍の下辺りを殊更緩慢に摩った後に、バスローブの裾に手を掛けた。少しずつ開帳してゆく仕草は、男に焦燥を感じさせる術に長けていた。
薄ぼんやりとした照明のもとにじりじりと太股を晒しながら、女が婀娜っぽく笑う。嘲う。
「こちらなど、如何ですか。仕込みは上々ですよ。」
――答えは、端から決まっていた。
「気分じゃねぇ。」
露骨に発散されるなまめかしさは、男にはわかり易い毒餌に映ったのであった。
ごろりと背を向けて素気無く断る男は知る由も無かったが、女のかんばせに浮かんでいた色のどれもこれもは、途端に沈黙してしまった。差した魔がすっかり抜け去ってしまったその面持ちには、童女よりも童女らしいいとけなさのみが取り残されていた。「そうですか。」。言いながら、如何にも不可思議そうに傾いてゆくこうべが、更にあどけなく思わせる。「……そうですか。」、「……そうですか。」と。喉に詰まりかねん大きさの塊を咀嚼するように、繰り返しもごもごと呟く。「そうですか。」。「何遍言うんだよ。」。鬱陶しそうな声に、「これきりです。」と答えた女は、一拍置くや否や、何所となく清しそうな嘆息で釣れない男の背中を擽った。
「そうすると、ここは矢張り、お金の力に頼るしかありませんね。出世払いでお願いします。」
「呪詛師に出世とかねぇだろ。」
指摘を入れると、男は小切手を持ち上げた。女の目に付くようにひらひらと翻す。
「っつーか、この金、どっから出てんだ?」
当然の疑問と言えた。金の出所が不明となれば不渡りとなる可能性も有り得るが、男が警戒の矛先を向けているのは、何も木の葉の金で不利益を被る事のみではない。金で使われるのは未だ良かった。だが、術師に化かされて顎で使われる事は罷りならない。――そうなれば降りるだけだが、と頭の片隅で算段を付けはしたものの、そうはならないとの確信が寄り添いもしていた。
「まあ、術師様々なら幾らでも稼ぎようはあるか。」
正確な等級こそ不明だが、女の呪術の腕は相当熟達していると窺えた。
女に差し向けられた刺客を討ったのは男であったが、その骸を隠滅せしめたのは彼女であった。如何言った術式によるものか、手品じみたと言うには手の内を見せ無さ過ぎる手腕で、大の大人二人分もの質量をあっさりとこの世から消失させたのだ。お陰で処理に時間を取られる事が無かったのは僥倖であった。
其所から、くだんの三億円は大方、呪術師であった頃に荒稼ぎしたものか、呪詛師に成ってから巻き上げたものだろう、と男は当て込んだのだが。扨。
「それは家にあったものです。――六文以外の金銭なんて、死人には過ぎたるものでしょう。」
波打つ事無く静謐であった女の声色が、此所で些かの変化を見せた。言葉の全ては淀み無く、すべらかに華唇から出て来た。しかし、何れに触発されたものであろうか。極端な迄に情感が抑え付けられている。その事が却って腹の底に凝り固まっているものの陰影を濃く浮かび上がらせた。
内容如何よりも、男の興味がそそられたのは、宛ら埋火を思わせるそれにであった。背中で聞くには惜しくなり、男はのっそりと寝返りを打って女へと向き直った。
「なんだ。持ってんじゃねぇか、面白そうなネタ。」
「まさか。こんなものは、有り触れた地獄絵図です。鐚一文にもなりません。」
愉快そうな声音を厭うたのか、仰向けへと体勢を変えた女は、仄々とした天井を振り仰いで男の耳目を往なす。底知れぬうろを彷彿させる黒々とした双眸に、照明の橙色が照り込んだ。数刻前に放たれた日輪の最期の一矢に似ていながら、もっと、ずっと、禍々しく憎悪らしい――瞋恚のほむらの火先が顕現したようであった。
先程よりも強く惹かれた男が、追及の二の句を見舞おうとする。叶いはしなかった。一手早く、ぱちり、と瞬きを一つするなり、成程、女は術師らしく余分な感情をしんと鎮めおおせて、長閑な欠伸をしてみせたのである。
機先を制されては、男も口を噤むより無い。「あっそ。」との相槌で以て切り上げると、女は目を細めて頷いた。それから一度、ベッドから降りる。掛け布団の端が男の顔面をはたくのも気にせずに、大きくばさりと捲った。
「寝る気か?」
「誘いを断ったのは貴男の方でしょう。」
「一回フられたくらいで拗ねるなよ。」
「貴男こそ、寝ている女にしか手を出せないような意気地無しでなければ良いのですけれど。」
「しねぇよ、そんなつまんねぇ事。寝言は寝て言え。」
「ええ。仰有る通り、後は寝言でも言うとしましょうか。」
歩き疲れた骨身を真っ新なシーツに打ち寛がせた女は、ベッドの広大な面積に満足したようで、実に心地好さそうに伸びをした。掛け布団で確りと身体を覆うと、「術師殺し」と心得る男に――二重にも危険と言える相手に背を向けて、躊躇い無く無防備を晒した。とろりと落ちゆく目蓋を押しとどめる素振りさえ無い。
「見張りはお任せいたします。それでは、お休みなさい。よい夜を。」
軽やかに言い残して、女は颯爽と夢路を辿った。
そうは言っても、呪術師が押し掛けて来ようものならば、眠りの淵に在ろうとも気配で感付く。男は不貞不貞しく欠伸を漏らすと、身体を起こした。睡魔と正式に面会を果たす前に身を清めようと、女の残り香が満ちる湿潤の浴室へと向かおうとして。一度だけ純白の山嶺を振り返った。
はじめの隆起たる薄い肩がささやかに上下するさまには、意識の有る時ののさばった感じは無く、何所か懸命に呼吸を殺すようであり、これ迄置かれて来た環境をひっそりとにおわせた。
「……確かに、面白くはなさそうだな。」
何時かの昔に振り切ったものに首筋をひたりと撫でられた気がして、男は舌打ちを飛ばした。汗と共に心気臭さを湯浴みで灌ぐべく立ち上がると、抑圧されていたスプリングが解放感に小さく沸いた。何度となく聞いたそれに、女とベッドを共にして指一本触れる事が無いのは初めてだと考えながら、ベッド脇の硝子テーブルに小切手と携帯電話を預ける。有るか無きかの寝息が溶け込む閨から、男は浴室に続くドアを開けた。
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