jujutsu
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「浮気者め。」
サングラス越しにじいっと注がれていた眼差し。それがふいと反らされた後に、この台詞がポップコーンの軽さに似せた調子で投げ付けられたものだから、白いライオンを模したぬいぐるみを掻き抱く腕に余分な力が入ってしまった。
「何それ? 学長の呪骸?」「学長から頂きましたが、核は込められていません。只のぬいぐるみです。」「それはまた、何の為に?」「何の為と言うか……学長の作る呪骸は可愛いと、日頃からラブコールを送り続けていたからくれたのではないでしょうか。」「ふーん。ラブコール、ね。」との遣り取りの末に寄越された軽口だったが、売り言葉には相違無い。直ぐ様に喉奥から買い言葉が浮上して来た。
「どっちがですか。」
ブルーレイディスクを手に、プレイヤーの前にしゃがみ込んでいた悟さんの動きが止まる。地下のシアタールームに不自然な空白が形成された。
先程見掛けた光景が小骨となって、私の身体の真ん中に引っ掛かっているのだ。ちくちくとした痛みから僅かばかりでも解放されたい余りに、不意を打って口から飛び出してしまったものだが、はっとして心中に押し込もうとしても時は既に遅し。矢と同じく、ひと度、放ってしまっては戻らないものが言葉である。それが凝らせた、二人の呼吸音が薄く漂うだけの静寂は、何所か不穏な気配を感じさせるのであった。何とも居た堪れなくなって俯いて、「……ごめんなさい。」と、意味を為しているのかわからぬ小声で呟く。
早く早くと餌を強請るようにディスクに向かって舌を伸ばすプレイヤーを放置して、悟さんはすたすたとソファに遣って来た。どっかりと腰を下ろすと、人差し指に引っ掛けていた円盤をローテーブルに置く。思わず逃げ腰を浮かせかける私の肩に腕を回して押しとどめて、「どっちが、って?」と。声のトーンを一つ落として尋ねて来るのだから、ばつが悪いと言ったらない。
「浮気した覚えはないんだけど。」
「言い掛かりでした。」
「でも、そう思うような何かはあったって事でしょ。百パー誤解だけど、どれ?」
「誇張表現でした。」
「要らんしこりを残したくないから訊いてんの。」
肩に掛けられた手と同じく、追究の手からは逃れられそうにない。顔を傾けて、ちらりと彼の様子を窺ってみる。濡れ衣を着せられて怒っている風ではなかった。まことに真摯な思いからなのだろう。関係を大事に築こうとするその気持ちだけで、喉から胸からを苛んでいた小骨の幾らかは抜け去ったものだが、自己完結したのでそれじゃあお仕舞い、などとは問屋が卸さない。何よりも、真っ直ぐに見据えて来る蒼いまなこが許してくれない。
観念して、それでもし切れなくて、胸に溜まる苦々しい水の中から比較的澄んでいる所を選んで汲み上げる。
「家入さんと、仲が、良い、ですよね。」
「同期だからね。付き合いも長いし。……つまり?」
その時点で察しはついたと見える。屹然と結ばれていた唇は、今や、むず痒さを堪えるようにひくひくとしているのだから。
わかっている。これから口にするのは、彼にとってはきっと笑える程に荒唐無稽な事で、私にとってはみっともないくらいに強欲な事だ。
「家入さんは私の知らない悟さんを沢山知っていて羨ましいなと思ったんです。」
一刻も早く話を打ち切りたくて、舌を早回しにさせる。改めて言葉にすると、自分でも嫌になるくらいに幼稚だった。
二人で映画を観る約束をした後に、「野暮用があるから先に行ってて。」と送り出された。用向きの相手であろう家入さんが悟さんを迎えに来ており、私は二人が連れ立って歩いてゆくのを見送った。気の置けない間柄だと窺わせるその距離感を、素を覗かせる彼のラフな言葉遣いを聞ける家入さんを、如何にも欲張りな事に、羨ましいと焦がれてしまったのだ。このぬいぐるみは、斯様な嫉妬を抱えてとぼとぼと歩いていた所を、出会した学長から頂いたのだが――それは扨措くとして。
呆れられただろうか。恐る恐る見上げると、ふ、と彼の唇から吐息が漏れた。そして、綻ぶと共に、高らかな笑い声を浴びせ掛けられた。それはもう高らかも高らかで、この小部屋にわんわんと反響した。その爆笑に対して私がやれる事と言ったら、恥ずかしさと口惜しさをいっぱいに噛み締めて、ぎゅうと縮こまる事くらいのものだった。穴があったら入りたい、とは正にこの事だ。只の穴より墓穴の方が似合いだろうか。しかしながら、此所に穴は無い。掘る為のシャベルも無い。この手に有るのはぬいぐるみだけで、ならばせめて、と考えた私は顔だけでもそこに埋める事を決めた。
小骨の正体を快活に笑い飛ばした悟さんは、サングラスを外して目の端に浮いた涙を指で拭い去り、漸く息を整えようとしていた。「はー、笑った笑った。」と人心地つくと、私の肩を抱き直して一層傍に引き寄せる。
「硝子に嫉妬、ねえ。」
折角オブラートに包んだ物言いをしたのに、態々剥がさないで欲しい。
「……家入さんと居る時の方が、素に見えます。私の前ではそこまであけすけではないですよね。」
「そりゃあ、好きな子の前では格好つけたいものだからね。君の前じゃあ少しは気を張るさ。それは仕方無い。」
あっけらかんとそんな事を言われると、これ以上は何も言えなくなってしまう。
閉口した隙に、悟さんの手が肩を辿って首筋を撫ぜ上げる。其所から更に遡上して耳の輪郭を擽られるこそばゆさに、つい、首をよじる。ご機嫌取りのような愛撫をされては顔を上げざるを得ず、待っていましたとばかりに、早速両の頬に手が添えられた。ゆっくりと、白皙のかんばせが寄る。蒼色に溺れゆく視界に惜しみながら蓋をすると、それを合図にして、そっと唇を食まれる。一度、二度、と優しく啄むような口付けを繰り返される毎に、頭の芯がぼうっとして来て、深海のただ中にいるような心地になる。少しの苦しさを感じるくらいの接吻を最後に、唇でのまぐわいは終えられた。
「硝子だって僕のこんな顔は知らないよ。」
耳朶に息を吹き込むようにして囁く悟さんの眦は、うっとりと蕩けている。おそらくは、私も似たような顔を見せているのだろう。親だって友だって見た事の無い表情を、ただの一人だけに露わにすると言うのは、世界で二人だけが持ち得る秘密のようだ。甘やかなそれは小骨を溶かして、じんわりと胸を満たす。苦かった心は、すっかり蜜をたくわえてしまった。
「さて。それじゃあ――」
サングラスを掛け直した悟さんは、私達の間にちょんと居座っていたぬいぐるみに一瞥をくれた後、不図、ローテーブルの上のパッケージの群れをざかざかと漁り始めた。先程、アクション映画の円盤を手にしていたので、てっきり視聴したい作品が決まっているのだと思ったが。ぼんやりと成り行きを見守っていると、内容を如実に表している、おどろおどろしいジャケットで飾られた一枚を摘まみ上げた。
「それ、ホラー映画じゃあないですか!」
一気に酔いから醒めた私の悲鳴を、立ち上がった背中は頑として無視した。
ホラー映画は苦手だ。日々、呪霊などと言うオカルトを相手取っているが、あれはこわがらせようとしている訳ではないので何ともない。殴れば倒せもする。だが、こわがらせようと画策された画面は狙い通りにこわいのだ。
悟さんは、「そう言う気分になったからね。」と言って、長らくお預けを食らわせていたプレイヤーに、滑らかな手付きでディスクをセットした。リモコンを使って停止ボタンを連打乃至悪食を吐き出させようとする。しかし、目論見は見透かされていたようで、先んじて取り上げられてしまった。
それだけではない。
「何でセバスチャンまで取り上げるんですか。」
「セバスチャンってコイツの名前? 王様なのに執事みたいな名前をつけられてんのウケるな。」
「肘掛けにしないでください! 綿が片寄る!」
ホワイトライオンのぬいぐるみ――セバスチャンも合わせて誘拐された。ソファに戻った際に私の手の届かない逆側の傍らに置くと、悟さんはそのふかふかの頭に肘を載せて、「うん。丁度良い。」などと満足そうに言うのであった。それから、私に手を差し出す。ホラー映画を観る時は何時もそうで、彼の腕に取り付いてびくびくしながら、と言うのが最早お約束となっていた。今日はセバスチャンと言う頼れる相棒も出来た事だし、もしもホラー映画を観る事になったら彼を抱こうと考えていたのだが――盗み見てみると、抗議も虚しく、愛嬌の有る真ん丸い顔は上からの圧力で無惨にひしゃげている。最強の男を前にしては、百獣の王も形無しだった。不遇を耐え忍ぶセバスチャンをあわれに思う。だが、このぬいぐるみをやけに邪険に扱う悟さんの様子の方が、今は関心を惹いた。
本編の前に差し込まれる黒の背景に白字で綴られる注意書きを、何の気無さそうに眺める悟さんの横顔に、一つ、問い掛ける。
「――もしかして、嫉妬していたんですか。」
「さあ? ほら、始まるよ。お手をどうぞ。」
顎で示されて有耶無耶にされてしまったが、流れて来た重苦しいサウンドに背筋をなぞられると、私は二の句も継げずに彼の腕にひしとしがみつくより他無いのであった。
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