jujutsu
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呪術高専の職員寮から離れ、このオートロックのマンションに移り住んだのは、つい最近の事だ。それも早くに意味を為さなくなってしまったが。
ドアフォンに映っているむっつりとした黒尽くめの長身をみとめて得たものと言えば、重苦しい緊迫感一つだけだった。彼ももう幼くない。まごついた所で、取り立て屋よろしく、壁なり自動ドアなりを蹴って催促するなどの乱暴は働かない――筈。そう、筈、だ。血潮の代わりに鉛を流し込まれたかのような身体を叱咤してでも、つい解錠を急いでしまったのは、この態様ではその万が一が起こらないとも限らないと強く危惧したが故であった。操作パネルの解錠ボタンを押す指先が、我知らず、震える。彼がエントランスから私の部屋に辿り着く迄の短い間に、居留守を使えば良かった、とは何度も何度も過ったが、感付かれずに遣り過ごせるとも思えない。
がらんどうの室内を振り返る。身一つで越して来て、数週間ばかり。明日の日迄、雨風を凌げて、彼から身を隠せれば良かっただけの部屋だ。最終日に見付かるだなんて、運の無い。射し込む西日に焼かれながら、現実逃避じみてうっそりと思う。私の隠れ家について口を割らされたであろう誰か――恐らくは伊地知くんだろうか――にも気の毒な事をした。これ迄のように気軽には会えなくなるだろうが、何かの機会さえあれば、お詫びの一つでもしたいものだ。
鈍重となった身体を玄関迄牽いてゆくと、遠くから、カツ、カツ、と廊下に反響する威圧的な踵の音が聞こえて来た。世界に散らばるあらゆる音は萎縮してしまったようで、それだけが鼓膜を蹂躙する。思考が踏み潰されそうになる。ドアノブに掛けた、血の気の引き切った指先の白さが目についた。
選択をした日から、私の事など看過してくれたら、と願って来た。彼にとって私が小事でないならば、仮令地の果てに逃げたとしても見付け出してしまうであろう事は、今迄傍で見て来た仕事振りからも明白だったからだ。だとしたら、滲み出したこれは追い詰められた恐怖ではなく、女としての喜びの感情なのだろうか。目を瞑る。自嘲する。対峙するほかあるまい。本来はきちんと精算してゆかなければならなかった問題なのだ。私達は、それだけの年月を重ねてしまった。
自分に言い聞かせて、決めた心を堅牢なものにしてゆく。それが固くかたくなりゆくのに比例して重くおもく沈みゆく気分は、絞首台に向かう罪人の胸裏宛らだろう。――そうして、足場を取り去るスイッチはインターフォンの形で押された。
ドアノブを握り込んでいる手が、強張る余りに痛み始めた。緊張の糸にきりきりと締め上げられた心の臓と共に、呑んだ息を細く吐き出す事で楽にしてやる。今からどくどくと早鐘を打つ拍動は、果たして、彼との対話を終える迄保つのだろうか。毅然とした態度でのぞめるよう、唇を引き結ぶ。堪え性の無い指先がもう一度インターフォンを鳴らす前に、私は鍵を開け――
「――ッ!?」
開けるなり、外側から強引にドアが割り開かれた。縺れ込む私を身体で中に押し込むようにして、性急にずいと侵入を果たした彼は、肩に強く掴み掛かって来た。壁へと押し付けられる。遅れて閉まったドアが立てた音は、酷く陰鬱な重みを持って響いた。
暴漢のように押し入って来た知己の男の双眸は眼帯に覆われているが――長い付き合いだ。苛立ちで冷え冷えとした中に、剣呑な光がちりちりと揺れているであろう事ははっきりとわかる。これ程に感情的な姿を見たのは、片手で数える程しか無い。そして、そのどれもが自分に向けられたものではなかった。初めて仕向けられる静かな剣幕は気管をきゅうと縊るもので、本能的な畏怖すら感じる。視線を逸らしたくて堪らない弱腰を制するのも兼ねて、声が震えないよう腹に力を込める。
「何の用ですか。」
「その男とはもう寝たの?」
眉がきつく寄るのがわかった。質問を塗り潰されたからでも、塗り潰した質問の内容の下品さからでもない。彼が、予想と寸分違わぬ問いを携えて来たからだ。
「そんな事を訊きに、態々ここを調べ上げて来たんですか。」
「お家の為に身を差し出す、馬鹿みたいに自己犠牲的な女の顔が見てみたくてね。」
「棘のある物言いですね。」
「当たり前だろ。僕から離れてどこかに行けるなんて本気で思ってんの?」
「恋人でもない女に抱くには過ぎた独占欲ですね。――嗚呼、それ程見込まれていた身体と言う事ですか。それは向こうでも活かせそうです。」
「……は?」
瞠目の静寂の後に発せられた低くひくいその声は、獰猛な獣の唸り声を彷彿させた。肩を捕らえる手に更に力が加わる。痛い。圧し折られてしまいやしないかと冷や汗で額が濡れるが、面と向かって唇の端を上げて見せる。これが私に張れる、精一杯の虚勢であった。
「だって、私達の関係なんて、そんなものだったでしょう。」
初めは、彼の術式の実験の為だった。曰く、性行為の最中でも制御下に置けるのか試したい、と。申し出を受けたのは、偏に、彼へ抱いていた恋や愛と言った情からだった。彼も情を同じくしているのかはわからぬ儘、それから何度となく肌を重ねて、安定して発動が適うようになってからも身体を繋げて、微温湯の関係を此所迄引き摺って来た。
だが、それももう、幕引きの時間が迫っていた。
よくある家の都合だ。女とは、より良い男の呪術師を生み出す為の肉の袋でしかない。少なくとも生家はそう言う家風だった。幸いな事に――不幸な事にとも言えよう――私は呪術師として身を立てられるくらいには才覚が有った。それ故に、家格が上の家から縁談の話が持ち掛けられたのだ。二つ返事で承諾した家長を恨みはすまい。それが呪術師の家に生を受けた女の常であり、呪術の世界のまわり方だ。このような結末が訪れる事は、薄々、覚悟していた。
「……マジで言ってんの?」
「はい。」
否と答えなければ命を取られてしまうのでは、と危ぶむが、彼の体温が上書きされるくらいならばこの時限りで息の根を止めて欲しい、と願う自分が居るのも真実だった。
この男の抱き方は、何時だってひどく優しいものだった。だから、思い違いをしそうになる。思い上がりそうになるのだ。私は彼にとって、身体だけの体の良い女ではないのではないか、と。こんな屈辱的な世界から掬い上げてくれるのではないか、と。
そんな風に、顔を見るだけで微かに光る希望に取り縋りたくなって、決心と言う決心がぐずぐずになりかねないから、私はその日迄、彼からの逃亡を企てたのだろうに。
花の命は短い。女のつとめを果たそうとするならば尚更な事だ。徒花らしきものに水を遣り続ける時間が惜しまれる齢となった私は、それが真に徒花なのかを確かめる事をおそれから厭うた。妥当な落とし所だとして、因習に囚われる事をこそ良しとしたのは、一方的な恋やら愛やらで織り成した、青く甘い日々を慰めにして生きる人生を送る事よりも、伸ばした手を彼に振り払われる事の方が一等おそろしかったからだ。
「だから、これでお別れです。」
声は揺らいではいなかっただろうか。顔付きは無様を晒していやしないだろうか。しゃんとして見えているだろうか。別れはせめて、小奇麗に終わらせたい。思いが通じたかはわからない。彼の表情からは感情の一切が削ぎ落とされていたものだから、わかりようが無かった。
沈黙が横たわる。数秒か、数分か、或いはもっと長い時間かののちに。手が、肩から離された。
「――わかった。精々、後悔しろ。」
温度を丸で感じさせない声でそう告げると、彼は私を一顧だにせず、何事も無かったように踵を返して出て行った。出て行ってしまった。
一筋の光明が絶えゆくように、開かれたドアの隙間が細くなりゆく。彼の名前を口走ろうとした衝動を、理性が引き留めた。来訪の時とは打って変わって、空虚なさまでドアが閉まる。同時に、永久に明けぬ夜に放り出されたかのような不安が心身の隅々迄を苛んだ。膝が震えて、壁に預けていた背がずり落ちる。へたり込む。石造りの玄関の床は冷たかったが、彼が置いて行った言葉程ではない。
「後悔、なんて――」
――疾うにしきっている。
つかえていたものを吐き出すと、ばたばたとした音が伴った。幾つもの水滴が床へと落下してゆくさまが、いびつな視界でもようく見えた。嗚呼、私は泣いているのか。自覚した途端に嗚咽が漏れ出した。朝にはきっと、随分と見映えの悪い顔になっているだろう。覚悟とやらを決めていたらしい、すべてを諦めた小さな私が溜息を吐くが、構いやしなかった。
明日、私は、家に帰る。彼ではない男と結ばれる為に。
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「――どういう事ですか!」
次の日。実家に帰った私は、その足で呪術高専に舞い戻る事となった。すっかり夜闇に覆われた敷地内を駆けて、彼の領地となっている一室に躍り込む。黒い革張りの椅子に悠然と身を預ける悟さんに詰め寄ると、彼は満足そうに笑った。それは、欲しくて欲しくて堪らなかった玩具を遂に手に入れた子どものような相好であった。
「あ、もう聞いた? 話が早くて何より。」
コーヒー味の砂糖と言っても差し支えがない代物を湛えたカップが置かれたテーブルを、激情の儘に叩く。コーヒーカップは暴力に悲鳴を上げ、黒々とした水面は驚いて飛び上がったが、気にしている場合ではない。
「説明を。これはどういう事ですか。」
「どういう事って、あれくらいで素直に引き下がるようなお優しい男に見えてた? それは結構な節穴をお持ちで。」
軽く笑い飛ばして、悟さんはカップを持ち上げる。自然なその仕草に、この度の我が家の一大事は、彼にとっては何の事は無いものなのだと気付かされた。とんでもなく厄介な男だと、私はこの時になって身に染みて理解したのだった。
彼が喉を潤すのを待たず、視線と詰問とで射掛ける。
「一体、どんなえげつない手を使って、私の婚約を破棄させたんですか。」
「嫌な言い方するね。至極真っ当に、懇切丁寧にお願いしただけだよ。」
縦しんば額面通りだとして、それが如何波及するか知らない訳ではないだろうに。――だからこそ、か。
実家に帰るなり、直ぐに呪術高専に戻れ、と言い含められた。明日は両家の顔合わせの日だ。それに、結婚ともなれば先方との話し合い等、やるべき事は山のようにあるだろうに。如何言う事かと家長である父親に尋ねると、「それはもう良い。忘れろ。」と疲れ切った声で申し渡された。それから父は、妙な色となった頬を引き攣らせながら、「五条家が、お前を嫁に迎え入れると言って来た。」と。「お前は今後、五条悟の許嫁として生きるように。」と。頭部を鈍器で強かに殴り付けられたかのような衝撃が、頭蓋の中身を散乱させた。成程。生涯見た事が無かった父親のこの複雑怪奇な面構えは、御三家と縁が結ばれて浮かれる胸と、五条悟と言う変わり種と接点を持つ事となった頭痛に板挟みにされているが故か――などとぼんやりと推理する間にも、ぐわんぐわんと反芻される御沙汰。反芻して、反芻して、電車に乗って来た道を逆戻りしている最中も反芻して、慣れ親しんだ道を遡る中でも反芻して。人生の半分近くを過ごした呪術高専への入り口である居並ぶ数々の鳥居を目にして、ようよう嚥下がかなった。その時には、此所に向かって走り出していた。
上がった息を整える余裕も無い。険しくなる一方の私の眼光に呼応したのか、悟さんはコーヒーカップを机上に戻すと、へらへらとした笑いを引っ込めた。
「何でそんな嫌そうな顔するかな。もっと喜びなよ。窮地を救ってあげたんだから。」
「お為ごかしですよね、それ。」
「勿論。例えオマエが心から納得して婚約を望んでいたとしても、僕は同じ事をしたよ。」
悟さんは寛げていた長躯を椅子から起こすと、人差し指を立てて虚空にくるくると円を描いた。
「羽衣伝説ってあるじゃん。」
「水浴びをしていた天女を見初めた男が、天女の羽衣を隠して地にとどめようとする話ですか。」
「そう、それ。でもさ、本当に手離したくないんだったら、隠すなんて生ぬるいと思わない? 僕だったら羽衣なんて燃やして、二度と天に帰れなくする。――これはそれだけの話だよ。」
空気を掻き回していた指で私の胸の辺りを指すと、指先を小さく跳ね上げた。茶化すようなそれは、空を舞う天人を撃ち落とす鉄砲の真似事か。
「天女扱いとは、大それたものですね。」
只、身体の関係が有るのみの女に。そう続けようとした言葉は、先んじて打たれた台詞に飲み込まされる事となる。
「て言うか、僕としてはこれまでずっと付き合ってるつもりだったんだけど。それなのにあんなコト言われて……傷ついたなぁ。」
「付き合――はあ!? 嘘でしょう!?」
漸く整いかけていた呼吸が又もや乱れる。悟さんと私が付き合っていた? 当事者だのに、そんな話は初耳だ。そう思わせる切っ掛けとなる出来事にも、生憎、とんと覚えがない。目を剥いて驚愕する私の反応は、さぞかし気に触ったのだろう。気付いていなかったなんて心外だ、と言いたそうに一気に気色ばんだ悟さんは、尖らせた唇で、「マジ。」と答えた。
「初めてヤった日に言っただろ。「それだけ顔が良かったらこれからも女の子を引っ掛け放題ですね。」なんて言うから、「誰でも良かったとでも思ってんのか。」って。」
「そう言われればそんな事を言われた気もしますけれども……身体の相性だとか、そう言う話だとばかり思っていました。」
「僕は何でも出来る男だけど、好きでもない女と寝られるほど器用じゃないんでね。」
彼の気性を考えれば得心のいく答えではあるが、伝え方が不器用にも程があるのではないか。言葉ではなく態度で示そうなどと、一体、何時の時代の男性像の体現だ。
「なんて、なんてわかりづらい……。」
しかしそれが事実ならば、私の姿は、呪術師としての使命を恋人よりも優先させた嫌味な女に見えた事だろう。あの荒れようは、お手付きの女体に対する執着ではなかったのだ。
深く深く、魂の底からの溜息を吐き出すと、身体に張り詰めていた力が脱けて、後ろに大きくよろめいた。踏ん張りも利かずにへなへなと蹲る。この数年、私は完全に一人相撲をしていたのか。胸に染むと、自分が取り返しの付かないくらいに滑稽な生き物に思えて来た。
「もっとわかり易く言ってくださいよ、そういう事は……。」
膝に頭を預ける。感情が混線している。声帯はどれを発露するべきかと迷って、迷って、涙を堪えるみたいな掠れた震え声を振り絞った。椅子から立ち上がる気配がしたかと思えば、悟さんは私の前にしゃがみ込んだ。無防備となっているつむじをつんつんと突かれる。鬱陶しさにおもてを上げると、眼前の面貌は唇を曲げており、呆れの感情を満載させていた。
「こっちも、まさかセフレだと思われていたなんてびっくりだよ。」
「言葉足らずなんですよ。貴男も――私も。」
言わなかった彼も悪いし、訊けなかった私も悪い。報連相のなっていなさは今後の課題にするとしよう。……そんな続きが存在する状況に、泣き出したくなる程の安堵を得てしまう。素直に潤み始めるまなこを見られたくなくて、ふた度、俯く。膝に載せていた手を、するり、と掬われた。
「それで、帰れなくなった気分はどう? 天女様。」
今度は不必要な力こそ入っていないものの、別れを告げた昨日のものと同じ、微塵も逃す気が無いと知れる手付きだ。指を絡められながら、言葉を探す。
「……一生、呪います。」
「良いね。上等な殺し文句だ。」
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