jujutsu
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草木は眠るが呪術師は眠れぬ、丑三つ時。
呪霊祓いを終えた後の仮宿として押さえられたビジネスホテルの内、その一室は、男に与えられた居城ではなかった。
「や。湯加減どう?」
湯船より立ち上る湯気が満つるユニットバスに、男は我が物顔で、平然と闖入した。
たっぷりと溜めた湯の中に裸体を浮かばせていた女は、当然、大声を出そうと瞬間的に深く息を吸い込んだが、悲鳴如きで撃退出来るとは到底思えなかったのであろう。ならば不要な騒ぎを招くのみ、と思惟で唇を縫い付けて、片腕でなだらかな胸元を隠すのに従事した。仰天、動揺、羞恥、激昂、或いはその全てに起因しての事か。酷くわななく手で以て、叩き付けるようにしてシャワーカーテンを閉ざす事も、彼女は勿論、忘れやしなかった。
「思い違いでなければ、ここは私に割り当てられた部屋の筈ですが?」
「ドアくらい何とでも出来るさ。」
「……もしかして、壊したんですか。」
「嘘。鍵、開いてたよ。不用心だなぁ。」
よもやの失態に、湯船で背を丸めて縮こまり、頭を抱えているのだろう。無言が続いた。沈黙を見守る男の、「今日の任務はハードだったからね。疲れてるんでしょ。」とのフォローは、果たして真っ赤に染色された耳に届いただろうか。
暫くの間、天井に張り付いたしたたりが場を繋いでいたが、やがてさざなみの起こる音が密室に反響した。如何やら、自責を終えたようであった。
「……だとしても、お風呂場に押し入るだなんて。嫌われるとか思わないんですか。」
「こんな事でいちいち嫌うような君じゃあない。でしょ?」
「見透かしたような事を言わないでください。」
「だったら答え合わせでもしよう。」
「言わなきゃわからない訳でもないでしょう。」
「声が聞きたいんだよ。」
「そんな事ばかり言って。」
隔たりの向こうから射掛ける視線を意に介する事も無く、男は蓋が閉められた便座にどっかりと腰掛けて、長い脚を組んだ。膝に頬杖を突いてじいっと正面のドアを見据えるその格好は、彼女の正に赤裸々な時間に侵襲した事へのせめてもの配慮では決して無いのだろう。
そろそろと、シャワーカーテンが極僅かに開けられる。おずおずと様子を窺う女の華脣が、可憐さに鎧った棘をちらつかせて、男に尻尾を巻かせようとする。
「考える人の真似事ならば他所でやってください。」
「答えになってねー。」
「声は聞かせましたから。さあ、出て行ってください。」
じっとりと湿る空気を厭うた男が、徐にワイシャツの釦を一つ、二つと外した。それは居座る気が見え透く仕草にほかならず、女の血管に更なる用心が注ぎ込まれた事は、頬の強張りを見るにつけて明らかであった。
「出て行って。」。強められた語気と共に、備え付けのシャンプーボトルが男の横顔目掛けて振り被られる。至近距離から投げ付けられたものだが、当たらない。もう一本。当たらない。最後の一本。術式が展開されているのだ。当たる訳も無かった。
宙に浮く事となったシャンプーボトルを、羽虫を払うようにして、クリーム色をした樹脂の床へと叩き落とす。ごろりと横になったボトルの動きが余っ程気怠そうであったので、彼は手慰みに助け起こす事にした。一本、二本、三本。立ててゆくなり足元をカラフルに彩ったそれ等は、事故現場に手向けられた数々の花束を想起させて、男に口火を切らせた。
「――死ぬ時は、独りだって思うよ。それは変わらない。けど、独り身で生きていると、人恋しい夜がある事も確かだ。そんな時に隣にいて欲しいのは誰かって考えたら、まあ、先ず間違いなく夢子なんだよね。」
滔々と語った後で、目は口程にものを言うとの言葉を信じた男が、つい、と顔を傾ける。サングラスの奥で蒼く煌めく双眸が、鏡のようにはっきりと女を映した。
元より立て板に水の減らず口の男ではあるのだが、その舌鋒は普段よりも丸くなっている。有り体に言えば、さみしさだとか生真面目さと言ったものを滲ませて、鈍って見えた。
女にはそれが薄気味悪く感じられたのか、険の色濃いまなこは今や、男の正体に抱いた疑りで上塗りされている。
「告白のように聞こえますけれども、何かの冗談ですか。」
注ぐ眼差しは陵辱するものではなかったが、女の手はふた度、二人の間に結界を張る事を選んだ。
日頃から好意を伝えて来るのみか、恋人と言う関係を冀求して来る以上、彼女ももう少し乗り気であっても良いのでは。映画であれば扇情的なシーンが待ち構えている筈のシチュエーションの中で、男はそう考えもしたが、バスタブを城として籠城を為す女のその身持ちの固さを実に気に入ってもいた。とは言えども、矢張り、丸で嫌気が差さない訳でもなく、何よりも、折角晒した本心を無下にされては堪らないものが有る。
溜息為い為い、湿気る白髪頭を掻いて、彼は苛立たしさを紛らわせた。
「冗談……冗談ね。本気でそう思う?」
「TPO、知っていますか? 信じて貰いたければ信用に足る場を設けてから言ってください。」
「場所にこだわるなんてロマンチックだこと。」
「常識的でしょう。貴男には足りていないものなので、わからないのも仕様が無い事かも知れませんけれど。」
閉め切られて熱気の籠る湯船は、暑い事この上無いだろう。彼女が顔なり首筋なりを手団扇で扇いでいる気配がしたので、男は親切心から囲いを取り払って、湯煙の密度の平均化を図ってやろうとしたのだが、不機嫌極まる制止によって阻まれた。
「……君さ、僕の事、好きなんじゃなかったっけ? もっと素直に喜んだら? 色々と。」
「それとこれとは話が別でしょう。糠喜びなんて御免です。」
「何だそれ。一ミリも信頼してないってか?」
「していますよ。だからこそ、です。」
ジャッジガヴェルを打つが如く、女が水面を叩いた。手狭な空間に、ぱしゃん、と言う水音が谺する。
それが男に回顧させたのは、以前に彼女から寄越された台詞であった。「貴男は寄せては返す波のようですね。」。触れようとすれば逃げ去って、捕らえ所がない。「だからこそ、追いたくなるのかも知れませんね。」と、不思議と困ったように眉を下げて微笑む姿が印象的だったものだが、それは詰まり。彼から寄せられる想いは直ぐ様に翻るものだと。信じ込まれていると言う事でも有るのだろう。
「ああ、成程ね。見る目ないな。」
吐き捨てるような男のぼやきは、十重二十重の湯気に埋もれて見逃された。
彼女の前ではただの男にしかなり得ぬと言うのに、随分な評価を持たれたものだと、慨嘆を禁じ得なかった。男は真剣であったし、此所に在ってはらしくない真似をしているとの自覚も有ったが、彼女の瞳には如何もそうとは映っていないようである。引かれた境界を踏み躙り、暴いた秘所をおかしてやれば、十全に伝わるだろうか。気になって、隔たりへと手を伸ばして――やめた。
たった一枚の帷は砦と呼ぶには余りにも頼りなく、それ故に触れるのが憚られた。
そうやって手に入れたい彼女ではないのだ。
「警戒心が強いのは悪い事じゃあないか。良からぬ男にも引っ掛からないだろうしね。」
「自分の事をよくわかっておいでなんですね。」
「自分の事だからね。」
引っ込めるには忍びない指先が、薄く薄い障壁をつついて揺らめかす。大の大人、それも人並外れて恵まれた体躯を持っているにしても、男のそのさまには、家の中に入れて欲しいと懇願する、閉め出された子どものようないじましさが有った。
「それでも君は、僕の事が大好きなんでしょ。」
「ええ、好きですよ。」
夜闇を蹴散らすほむらに似て苛烈であり、時に、なりの小さい凝りすらも明るみに出しては、その影を浮き彫りにする。男が求めていた答えは、そのように迷いの無い、あきらかな声に運ばれて慕い寄るのであった。
「うん。それもよく知ってる。」
自分を望む眼差しは恋慕を宿して尚、ひん曲がる事が無く、大地深くに根付く泰然とした大樹のようであり、それを育んだ糧とは己の言動であると思えば、男は誇らしくも呆れ果てるばかりであったのも、また事実。自分は人でなしの部類なのだろう。男は思う。だのに、彼女は何時だって真っ直ぐに手を伸ばして来る。その愚直さが、いとおしい、と。一体、何時から感ぜられてしまったのか。
――一瞬だけ。ほんの一瞬だけだが、彼女のその善性に全く報いる事の出来る、誰彼、自分ではない、別の、他人の存在を、男は意識した。途端に、伸し掛かられたかのようにずんと身体が重くなったが、濛々たる湯烟の仕業であるとは思えなかった。足を組み替えて幾らか振り払うと、彼はつるりとした床に、伏して翳る蒼色の視線を落とした。それから大腿に肘を置いて手を組む姿などは、何所か、敬虔に祈りを捧げる少年のように心細く見えるものであった。
咽頭に詰まる程に瑞々しい空気なのに、やけに、渇く。
その喉で彼女の名を呼んだ。呼応からひと呼吸を置くと、男は、胸に凝っていたものをこわごわ吐露した。
「例えばどれだけ好き合ったところで、僕は、夢子が死んでも泣かないよ。多分、絶対。――それでも?」
「好きです。」
それは、長らく秘した罪を告解する響きを持っていた。
それは、期待の美酒に混じる一滴の不安を取り除かせる作業であり、慈悲と共に突き付けた最後通牒でもあった。
だのに、些かも気にとめる事無く、気持ちの逸るに従って、女は食い気味に言い切る。はきはきと断言してみせる声音の、なんとひたむきで、まばゆいこと。
男にらしくもない遠慮を生じさせたのと丸きり同じ台詞は、今度は、彼をすっかり拍子抜けさせてしまった。
「そっか。……まあ、馬鹿な子ほど可愛い、とは言うけど。」
――愚かしいのはお互い様か。 独り言ちると、男は口を噤んだ。
しみじみとした一言は、魂の奥底から浮かび上がって来たもののようであり、その嘲笑はひっそりと親愛を隠していたが、女が居住まいを正した際に跳ね上がった水音に追われて掻き消える事となった。
拾われる事が無かったのは幸運であっただろう。呟きがもしも聞き咎められていたならば、今頃は、事を糺す峻険な声が容赦無く男に殴り掛かったに違いなかった。しかしながら、それもまたよいと思える。厳めしさに辟易するよりも、うつくしい、と感じる事の方が多い有り様は、最強を自負する身分をも狂わせる慕情のおそろしさを彼に実感させた。
「そもそも、それは私ではなく貴男に懸かる問題でしょう。是非を押し付けようとしないでください。」
心底から不服そうな女の声が、男が作った間を埋めた。かつかつ、と、気忙しくバスタブの縁を爪で叩く音が、もったりとした空気を八つ裂きにして、その声の通りを良くする。
「と言うよりも、泣いてくれだなんて頼んだ覚えは有りません。」
「一理ある。」
「道理しか有りません。」
何所迄も小気味良く、毅然としてきっぱりと断ずる。そうして女は、軽やかに鼻で笑って見せるのであった。
「私は好きな人には笑っていて貰いたいタイプの女ですが、懸念となっていると言うならば、手ずから泣かせて晴らして差し上げても良いですよ。」
「僕相手によくもまあ、そんな大見得を切れるもんだ。一度も勝てた試しがないくせに。」
「ええ。だから、泣いてくれずとも構わないと。そんな事が気にならないくらいに、そんな所も引っ括めて好きだと、態々言わせる気ですか? 野暮なひと。」
守護奉られていた女自ら、シャワーカーテンを開帳する。無駄と知りながらも、皮肉を込めて湯を手で払い、男へと浴びせ掛けてみる彼女であったが、この度は決まり切っている筈の結末が異なっていた。男の面貌から肩に掛けてが、ぴしゃり、と濡れそぼったのだ。全く予想だにしなかった光景に女は面食らってしまって、機序を精査するべく、先程弾かれたシャンプーボトルと男とを交互に見遣るのに忙しくした。
此所は、風呂場だ。流石に服を脱ぎこそしなかったが、遅蒔きながら、何よりもの無防備を晒す事を男は決めた。これで正しくただの男となった彼は、サングラスを外して、額から目蓋へと纏わり付いた濡れ髪を掻き上げて視界を鮮明にするなり、改めて、女の薄い肩を眺めた。肩のみならず、バスタブから覗ける肢体のすべては赤々と熟れている。ぼんやりとした光源のもとで目にするその色は、雄の情欲を当たり前に掻き立てるものではあったが、彼女を艶めかしく染め上げたのが己ではない事が、男には酷く不満でもあった。恋の病、とはよく言ったものだ。ただの湯にすら良い顔が出来ないとは、思っていた以上に重篤なのだろう。
末期を感じ取るなり、男は簡素な玉座から立ち上がった。未だ混乱のただ中に在る女へ手を伸べる。
「野暮でも何でも良いさ。僕だってエスパーじゃあない。はっきりと言われなきゃわからない事なんて、ザラにある。それは夢子だって同じ事だろ。」
水を打ったたおやかな手は、左手。お誂え向きだと、男は思った。か細い手首を掴む。引き寄せて、ぱっくりとその薬指を銜え込んだ。
突然の出来事に状況が飲み込めず、ぎちりと硬直する女。これ幸い、とばかりに甘く噛み付いた男のあぎとが、次第に力を込めてゆく。「痛、」との鳴き声に擽られるものはあれども、今ばかりは仕付ける。第二関節と第三関節の間に前の皓歯でくっきりとした歯形を残すと、接吻するかのように指先に吸い付いてから、男は華奢な一指を口腔から解放した。
「好きだよ。泣きたくなるくらいには。」
男が目を細め、赤くなりゆく不格好な円環を、いとしいとしと指の腹で撫で摩る。その先には、信じられない、と言いたそうに、まどかなまなこをより一層真ん丸くする女の顔があった。それは、告白が真実であった事によるものか、結婚指輪の予約を取り付けられた事によるものか、乱暴なその方法故のものか。何にしても余りにも間の抜けたものであったので、男は込み上げるが儘にからからと上調子に笑った。
「それじゃあ、死が二人を別つまで。末永くよろしく。」
プロポーズには不釣り合いな会場で、見事、女へと呪いを填め込んだ男は、湯に火照る裸身を引き揚げた。服の濡れるのも構わずに抱き締める。「……一先ず、出て行ってください。」との呻きが聞こえて来るのを無視して、彼女のなかをめぐる血潮の熱さを堪能する。
晴れて両想いとなった逆上せ上がる二人を言祝ぐように、蛇口からこぼれたひと雫が、ぱちり。柏手を打った。
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