jujutsu
name change!
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名前。
呪術的観点から見ると非常に大きな意味を持つ、はじめの呪。まことの名を知られれば如何様にも縛られてしまうが故に、妄りには名告らず、偽りの名を鎧って身を守る文化も世界には存在している。名前とは、それ程に強力な力を宿しているのだ。
だが、事此所に於いては、呪術云々はひと欠片も絡んでいなかった。彼も彼女も呪術師であるにも関わらず、だ。
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一文字。音にして、二文字目を塞き止める様に口を押さえる伏黒の奇っ怪なさまに、送迎車の後部座席を予約席としている少女のなよやかな首が傾く。
「何か。」
「いや……。」
「歯切れの悪い。何か有ると言っているようなものですよ。」
少女の柳眉の片方が剣呑な角度で跳ね上がった。
荒れそうだと伏黒は直感したが、口火を切ろうとした自身がその意思を全うしなければ治まらないだろう。そうは言っても、これ以上は、進められない。
一度、目蓋を下ろす。眼裏に浮かんで来た方法はたったの一つだけ。誤魔化す。それ以外に遣りようが無かった。
「別に。」
「別に?」
「何も。」
「何も?」
「ありません。」
「ありませんか?」
矢も盾も堪らずに、こうべごと視線を逸らしてもごもごと応えを絞り出す。それを復唱する度に、少女の声は険を含んでいった。
横顔を刺す真っ直ぐな視線を針に、滞留する気不味さを糸にして、伏黒の唇が縫い止められる。「お話になりません。」と。少女の口から飛び出た居所の悪い虫が、むっつりとした頬をぴしゃりと叩いた。
痛みからきっちりと噤んだ唇を押し開く。しかし、彼が選んだのは弁解でも説明でもなかった。
「……夢野先輩。」
小さく、小さく、少女を呼ぶ。常の通りに、姓で呼ぶ。
これ迄に幾度となく呼んで来たのだから、口にするのは実に慣れたものであった。
苦々しい顔付きとなった彼女からの応答は望めなかったが、彼にとってはそれで良かった。残響を噛み締めながら、これっきりだとの思いを強くする。
それは呼び掛けではなく、宣言であった。
何も、彼女の気の強さに巻いた所為で舌が回らなくなっているのではない。
伏黒の同期の二人は、年上のこの少女を名前で呼ぶ。等級や年齢の上下、男女の垣根を越えて、親し気に名前で呼び合う仲なのだ。その中に在っても、伏黒は頑なに少女の事を姓で呼んでいた。それが適切な距離であると思っていたし、彼女も無理に踏み込んで来る真似はしなかった。且つ、伏黒に合わせて、彼の事だけは姓で呼ぶのであった。気遣いは有り難いものであったが、だからこそ、時が経つに連れて後に退けなくなっていたのも事実である。
気付けば、自分一人だけが彼女から遠くに在るようでもどかしくなっていたのだ。
「伏黒くん。」と凛と織り成されるその特別は、何時しか、彼の望まぬものとなっていた。
自覚してから、早数日。それは、自ずから作り上げた壁を壊そうと試みたものの、終ぞ叶わなかった日数とイコールでもあった。揶揄されては堪らないと、同期達や諸先輩のいない時を如何にかこうにか見図ろうとしたものだが、機会は存外に存在した。一対一で近接戦闘の鍛錬をした時。夜半に寮の廊下で出会した時。担任教師に二人で書庫に遣いに出された時などは、気を遣われたのではないかと訝るくらいであった。だが、その何れもで、彼女の名前を萎ませては枯らせる結果となってしまった。この度の少女の過度な苛立ちも、数日間続いた伏黒の煮え切らない言動への不審が蓄積してのものであろう。
伏黒は別段、年上の女性を名前で呼ぶ事に抵抗感を持っていると言う訳ではない。義理の姉だって名前で呼んでいる。もう一人の女性の先輩である禪院真希にだってそうだ。だのに、如何してか。少女の名前だけは、ひどく口に甘いのだ。
御せぬ感情に寄せられた眉間の皺を、不機嫌なそれと取ったのだろう。呼声を掛けてから一向に言葉が継がれないものだから、話は打ち切られたのだと感じたらしい少女は、伏黒に向き合っていた身体をくるりと反転させた。後部座席のドア・アウター・ハンドルに手を掛ける。
「何もないのであれば結構。」
吹き始めた北風よりも冷ややかな声であった。
やってしまった、と伏黒が己の表情筋の稚気を悔悟するが、尚更に縦皺は深まるばかり。今や少女の眉宇と揃いではあるが、何一つも嬉しくはない。
座席に深く腰を掛けた少女が、ドアを閉めるべく内側から引こうとする。
次に会えるのは当分先か――若しくは、機は二度と訪れないのではないか。
過るなり、伏黒は口枷としていた手を外した。閉ざされようとするドアを引き止めて、車体との間に身体を割り込ませる。一歩、踏み込んで来た後輩に少女が宛てた表情は、行動の是非を渋く問い掛けるものであった。
仇となりかねない焦慮であるが、今は却って助けとなってくれた。車内を覗き込むようにする。焚き付けられた意が決せられると、それ迄外して来た伏黒のまなこは、自然に少女の双眸へと吸い寄せられた。
彼女の名前を、一文字、そっとなぞる。すると、如何だ。
「――夢子、さん。」
ずうっと告げたかった音が、今、滑らかに。漸くかたちを成した。
達成感で鼓動が高鳴る。寝ても覚めても頭を廻っていたそれは、いざ口にしてみると、彼女の耳殻に拙く手を伸ばす様な頼りの無い響きとなってしまいはしたが。ふた度、これは度胸の及ばなかった自分への気恥ずかしさから、伏黒は顔に手を遣った。触れた頬が自分のものとは思えぬ程に熱い。
だと言うのに。対する少女は。後輩から初めて名前で呼ばれても、「何ですか。」と。間髪入れずに平素の調子で返答を寄越した。拍子抜けするくらいに何時も通りである。それが伏黒の裡で暴れる羞恥に更なる餌を遣る事となった。
「……気をつけて行って来てください。」
自分とは対称的な少女の様子に、先程の意気込みは何所へやら。伏黒は又もや目を合わせる事が儘ならなくなっていた。
――名前とは、呪だ。
口にすれば、彼女との関係に何等かの変化が起こるのではないか。そんな少しばかりの期待をしていた事に、此所に来て気付かされた。今となっては、武運を祈る心からの見送りの言葉も気落ちした繕い口に聞こえてやまない。
少女のスカートが巻き込まれない事を目視で確認すると、車両から身を引いて、伏黒は静かにドアを閉めた。余計な足止めをする事となってしまったが、彼女はこれから任務に赴くのだ。直ぐに発車するだろうと、一歩、離れる。
後部座席の窓が、下りた。
「貴男も怪我には気をつけなさいね。――恵くん。」
細く細く開けられた窓の内から滑り出て来たそれに、伏黒が瞠目する。
「今、」と声の上がるのを待たずに、颯と窓が上げられる。するりと車が動き出した。
通り過ぎる直前に見えた小さな耳の、なんと赤いこと。
飛び込んで来たその朱は、少年の胸に作用した。心臓を大きく突き動かしたその感情の名前を、彼は未だ、知らない。
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