jujutsu
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「三億。通貨単位は勿論、円です。それで私の護衛を依頼します。手向かう者は総じて殺してください。」
男にとっては金との良縁を瞬く間に絶つ縁切り寺、競艇場。
案の定泡沫と消えた種銭に悪態はつけども、後ろ髪を引かれる事は無く、各々に悲喜を抱えた博徒達に混じって出口より吐き出される。
昼と称するには遅く、日暮れと呼ぶには未だ早い時刻である。空の天辺を越えた太陽は、今や、旭光を以て夜を祓う凛々とした顔を綻ばせ、随分と丸くなっている。誰も彼もを穏やかに祝福しているかの様な日射しであった。燦々とした陽光に目を細めて、しかし、男は陰の気が満ちる脇道を選んで歩き出した。足の向くに任せて、人気も車通りも無い冷ややかな道をゆく。
当て所無くくさくさした気分を踏み潰していると、「もし。」との声掛けが路傍から為された。かと思えば、間髪入れずに続けられた言葉が、これである。俄には信じ難い申し出だが、男が訝しそうに眉を顰めたのは、世間一般的には荒唐無稽に感じられる内容のすべてに対してではなかった。何時も仕事を持ち掛けて来る仲介屋の顔見知りからは、何も聞かされていないのだ。
刺す様な注視を向ける。声の主である女の正体を見極めようとする。香水のヴェールの奥に潜む血腥さと、むっとにおい立つ呪力を嗅ぎ取った。足を止める理由が、失せた。
ざりざりとサンダル履きの足音を響かせて、何事も無かったかの様にふた度、歩き出す。厄介、そして不可解極まりない女を引き離すのは容易かったが、男はそれをしなかった。
歩幅の差異が大きい中で、女は答えを求めて、小走りで懸命に男の背に追い縋る。それだけ、である。男が背中を向けようとも間合いに入ろうとも、手や足や術式が出る所か、微かでも殺気が発される事はなかった。余程の手練れかとも疑ったが、数十メートルも行っていない内に、女の息は上がっている。一先ずは、仇討ちや騙し討ちの類いではないようであった。
歩速を緩めてやる。ヒールでは走り難いであろうに、女はこの機を逃すまいとでも言う様に、一息に距離を詰めて来た。情報は少ないながらも、並んでみると、赤子と同程度には縊るのは簡単そうに見えた。汗する小さな額を何とは無しに眺めながら、男が尋ねる。
「何で?」
「何で、とは? 何か不都合でも?」
「それ以外あるかよ。」
邪険な声色に、うっそりとこうべが持ち上げられる。不可思議そうに首を傾げる仕草は年格好の割りに幼稚な素振りであったが、間近で見る黒々としたまなこは、澱の積層した沼を思わせる薄ら寒いものであった。
此奴は碌な生き方をしていない、と男は直感した。それから、当たり前かと鼻で笑った。嘲笑って、忌々し気に舌打ちを遣る。
「――オマエ、呪術師だろ。」
うろの様な女の双眸が下弦のかたちに歪む。手の内を晒さずとも己の正体を言い当てた男に、期待通りだと喜ばしくしているようであった。
「ご推察の通りです。今となっては、元、ですけれど。」
胸の前で手を合わせて微笑する姿などは、淑やかな女そのものである。だが、腹の底に何を飼っているのか窺い知れない。ぽっかりと見詰められて、男の目に剣呑な光が走る。
「生憎と、こっちは「術師殺し」で売っていてな。」
「存じております。その売り文句を頼って、こうして接触したのですから。」
「どうやって――ってのは置いておくとしても、だ。その依頼内容が、術師の護衛をしろ、だとか。イカレてる奴は考える事が違うな。」
正面から嘲られようとも、嫋やかなる微笑が引き攣る事は無かった。
「そうでもありません。」と一言、女はやんわりと断ると、蹴飛ばした小石の行方を見守る様にして前方へと目を遣る。男も其方を流し見るだけ見て、女へと意識を戻す。淑女のそれから、悪戯が露見してしまった時の様な茶目っ気の有る微笑みへと変じていた。内緒話をする時のトーンに迄、声が潜められる。
「私を追っているのは呪術師ですから、その道に通じた人間を選ぶのは道理でしょう。「術師殺し」の仕事とも矛盾はしない筈です。」
だとしても、だ。
男が立ち止まる。半歩遅れたが、女も合わせて止まった。何かと振り仰ぐ女の肩を軽く押す。いとも容易くよろめき、ガードレールを支えとした。其所に男が覆い被さる。檻を形成する様にガードレールへと手を突いて逃げ場を奪うが、女は小揺るぎすらせず、術師にとっては毒手と言える片手を首筋に添えられようとも、それは変わらなかった。
諦めそうにない、と頭のいずこかから囁かれるが、呪術師のお守りなんてものは御免であった。男は女の頸動脈を探り当てると、するり、と撫で上げる。
「ネジがブッ飛んだ頭じゃ、寝首を掻かれる想像も出来ねぇか。」
「まあ、おそろしい。ご丁寧に教えてくださって、どうも有り難う。」
溜息を凝らせた呆れ声を冷や水の代わりに浴びせ掛けようとも、女は真っ直ぐに男を見上げる事をやめない。剰え、急所に掛けられた魔手に己の手を添えさえしてみせた。ゆったりと瞬きをするさまは、猫を懐柔するかの様である。ともすれば侮っているとも取れる行為ではあったが、男がようく向けられて来た嘲りも蔑みも、其所には無かった。
それは、得体の知れぬ深淵か、物珍しい宝石の様であったやも知れない。
「――オマエ、やっぱイカレてるだろ。」
もう一度、繰り返した言葉は掻き消される事となった。
轟、と大型トラックが閑散とした車道を走り抜ける。女は煽られたスカートを咄嗟に押さえてから、不図、徐に摘まみ上げた。薄暗いこの路地で露わにされてゆく生っ白い大腿が、ものを知らぬ気に淫靡に輝く。
「仰有る通りに、こうして無事に箍は外れていますもの。ご心配には及びません。」
たくられたスカートの裾には、不格好に跳ねた赤黒い飛沫模様があしらわれていた。視線を下ろすと、ショートブーツの爪先にも泥跳ねとは異なる染みがこびり付いている。血腥さの源はこれかと推し測ってから、間を置かずして否定した。それにしては噎せ返るようであったが為だ。塗り込めなければ、斯様には染み着かない。
――呪詛師か。心中で見当を付ける。元、と言っていたのは呪術師から変生したが故であろう。理由こそ不明だが、何人、或いは何十人と呪殺して呪術界から追われ、更には命を狙われる迄になったか。
男は傷痕が刻まれた唇を吊り上げると、人道外れた猛獣の嘯きを付した。
「「術師殺し」相手に大見得切るじゃねぇか。」
「事実を偽って何とします。依頼をしているのに不誠実はよろしくありません。」
「あっそ。だったら護衛なんてのも要らねぇんじゃねぇの。」
「残念な事に、私、大人数を相手に切った張ったが出来る程の体力は無いのです。」
楚々とした所作でスカートを直しながら、「見掛け通りにか弱いもので。」と言って退ける女の言葉に嘘偽りは無さそうであった。短距離を走っただけで直ぐ様に呼吸が乱れていた様子こそが、その証左となる。とは言えども、それしきの事で見せ付けられた物騒さが和らぐ訳も無いのだが。
女の戯れ言には取り合わずに、頸に掛けていた手を外す。
「……護衛、な。」
含みを持たせて呟いた。
提示された金額は申し分無く、財布も張りぼて同然と来ている。それに加えて、己の命に三億の値をつけるこの女――呪術に芯迄染まりながらも天与呪縛の身に助けを求めるこの女を面白いと思わない事も無かった。断る理由は無い。が。
「こっちはそんな仕事、受けた事がないもんでな。うっかり殺されても化けて出るなよ。ま、化けて出たところで殺すだけだが。」
「あら。強気かと思えば……初体験だから自信が無い、なんて。フフ、見掛けによらず、うぶで可愛らしいところもあるのですね。」
仕掛けた釣り針に手応えを感じた女は、携えていた鞄から小切手を取り出すと、扇代わりとするように口元を隠して、貴婦人宛らにささめいた。金額の記入欄には、口にした通り、三の後に幾つもの零が記載されている。
零の数を確かめてから、触れれば折れかねない細腕から小切手を引っ手繰る。上手を演じる揶揄に些か、かちん、と来た男の口はへの字に曲がっていた。
「いつもの仕事だろ。だったら自信もクソもねぇ。」
「そうですか。では、契約成立、ですね。」
女が言い終えるのを待たずして、男は踵を回らせて歩き始めた。今度は初めから、女の歩調に合うように緩やかに。序でに、車道側から建物側を歩くように誘導してやる。女は素直に応じて、男の視界に納まった。
ひらひらと指に挟んで遊ばせていた小切手をスウェットのポケットに突っ込むと、先客である携帯電話が存在を主張した。仲介屋である馴染みの男の顔が思い出される。どれ程かかるかわからない仕事である。直ぐにでも連絡を取って話しておくべきかと思案しながら、ちら、と傍らの女を見遣る。護衛がついた安堵からなのか、今しも鼻歌でも奏で出しそうな面持ちであった。呪術師――呪詛師の護衛とは、奇妙な事になったと、男は改めて心の底から思った。
暢気に広がる青空の下、天道神の威光の強さに比例して色濃く投射された影の中を、二人がゆく。
「で、どこまで行けば良いんだ?」
す、と。か細い人指し指が物静かに伸ばされる。示された路の先――先程、二人して視線を投げ掛けた辺りに追っ手と推測される気配が複数潜んでいる事は、何方も承知していた。気配は蠢き始めており、もう数歩踏み込めば、何某かを仕掛けて来るであろう事は明白であった。
漸く鬱陶しい警戒を破れると、男は肩を鳴らした。
女が艶然と笑って、初仕事を命じる。
「そこの地獄まで。しっかりエスコートしてくださいな。」
――だから、どこだよ。
そうぼやいて、帳が張られるよりも速く、速く。男が駆ける。
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