jujutsu
name change!
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歯医者に掛かると、最近は小さな虫歯であっても麻酔を打ってから治療を行う方針が主流であるとの説明を受けた。
処置を終えて高専へと帰って来た今、少なくとも後二時間程は、このぼやけた感覚と付き合わなければならないのか。そう肩を落として、神経が沈黙した下唇を擦っていた。自分の身体の一部であると言うのに、ゴムでも触っているかの様な一方的な手触りであった。慣れぬ不快感に、敷地内に溜息をぽつんぽつんと落としながら歩いていたら、この人に出会してしまったのだ。
「マジで感覚無いの?」
「未だ麻酔が効いていますからね。」
彼の指で口唇をいじくられても、神経は矢張り仕事をしやしない。丸で分厚い膜が張っているかの様で、何とも気持ちが悪い。腹癒せに、くにくにと好きに勝手にもてあそんで止まない人指し指を噛んでやろうかとも思ったが、そのくだりは先程、ひらりと躱されて終えたばかりであった。
「虫歯、ねぇ。呪術師は歯が命だってのに。」
「そんなキャッチコピーが有ったなんて初耳です。」
「アンテナ張ってないからじゃない?」
「貴男のアンテナが得体の知れない電波を受信しているだけでしょう。」
「人をデンパみたいに。」
仕置きの心算なのか、下唇を摘ままれる。熱の伝導を諦める代わりに、微かな痺れが辛うじて寄越された。「痛――」、「くないでしょ。」。脊髄反射で出て来た言葉は、直ぐ様、我が物顔で取り消されてしまった。その通りであったが、だからこそ癪に障ると言うものだ。
「……誰の所為だと思っているんですか。」
虫歯の原因に大凡の察しはついている。これ迄の生活では、私はそれ程、頻繁に菓子を食べる事は無かった。だが、この人と出会ってからは如何だ。出張の土産、出先での寄り道、休日のおやつ――エトセトラ、エトセトラ。誘われるが儘に付き合い続けて、甘いものを食べ過ぎた報いを受けたのだ。思えば体重も少しばかり――本当に、少し、ばかり、増加傾向にある。幾ら矯めつ眇めつ眺めようが、悟さんに変わった様子は無いと言うのに。何と言う不条理か!
恨み増し増しでぎりりと睨み付ける。悟さんは大仰に空を仰いで、やれやれ、と眉で語った。
「僕に歯磨きの世話までしろって? そんな甘えただから虫歯も出来るんだよ。」
「そんな事は言っていないでしょう! 子ども扱いして!」
何時迄も他人の唇を弄する手指を、苛立ちを込めて払い除ける。だが、手と手がばちりとぶつかるその瞬前に、ぱっと口唇を解放されてしまった。見事な空振りに終わった恥ずかしさも相俟って、「もうッ!」。癇癪玉が弾ける儘に、一つ、地団駄を踏む。
「うわ、機嫌悪っ。」
「貴男の所為なんですけれど!?」
「完全に八つ当たりじゃん。」
「半分くらいはそうですね!」
「素直か。」
「麻痺した感じが不愉快で気が立つんですよ! 如何も済みませんねえ!」
「成程ね。よーしよし。どうどう。」
そう宥められるが、子ども扱いの次は暴れ馬扱いか。私のこうべに載ろうとする、彼の大きな手。今度こそははたき落とせたが、果敢にも諦めずに、もう一度伸ばされた。ふた度、撥ね除ける程の憤怒を飼っている訳でもなかったので、甘受する。頭を、二度、三度と軽く叩かれた。馬の首にやるようではないか、と邪推している間に、彼の手は頬へするりと滑り落ちて来た。そうしてゆっくりと輪郭を撫でてゆき、徐に顎を掬われる。――吐息が触れる距離になってから、何をする気だ、なんて問う真似は愚かしい。だとすれば、私の身体は賢しかったのだろう。自然と目蓋を閉じて彼を受け入れた。
鈍感な下唇をやわく食まれ、軽く吸い付かれる。そしてリップ音の残響を飲み込ませるかの様に、唇が睦み合う。触覚は未だ機能不全だが、予てから甘く微細な刺激を刻み込まれた神経が、反射的に背筋を震えさせた。
「――どう? 感覚、戻った?」
重なった唇が離れてゆく気配を感じて、名残惜しくも覆いを上げると、次は額の方を合わせられた。至近距離で覗き込まれながら尋ねられた内容の、何とロマンチックなこと。込み上げて来た笑いが、返答に乗っかってしまう。
「……お伽噺じゃああるまいし。」
「そ。でも効果はあったみたいだ。」
何を指しての事かなんて、深堀りしなくともわかる。キスのひとつで途端に鎮まった私を、ちょろい、と思っているだろうか。だとしても、ぐうの音も出ないのだけれど。ばつの悪さに視線を足元へと逃す。
まさかそれを不機嫌の再来と取った訳ではないだろう。だって、眼帯の下のまなこに浮かんでいるのは憂慮ではない筈だ。実に愉快そうに細められているであろう事くらいは、その黒布が解かれずともまざまざとわかる。
「もう一回、いっとく?」
此方のご機嫌を取るかの様な冗談めかした声が降って来た。掛けられた指で、又もや頤を持ち上げられる。今しも触れようとする彼の唇を咄嗟に指先で阻んで、押しとどめた。「嫌?」と。意思の確認をして来る姿勢はご立派ではあるが、塞き止めた私の手は既に彼に取られ、操が立てられた唇の代替とするかの様に、指先に、手の平に、と次々に口付けを施されているのであった。こそばゆさに腰が引けてしまいながらも、首を横に振る。
「……嫌ではないですけれど。」
「けれど?」
「後で、してください。勿体無いので。」
「有り難がるねぇ。」
接吻がきもちのよいものだと言うことを、この唇は知ってしまった。甘露の贅沢を教え込まれてしまったのだ。それだけは一片たりとも余す事無く、このひとの所為であった。
忍び笑いの吐息に手の平が擽られる。遂に耐え切れずに手を引こうとすると、逃すまいと、私の及び腰が悟さんの手によって力強く抱き寄せられた。此方の都合にお構い無しに、手の平に頬を擦り寄せて来る。
「次は治るかもしれないよ。」
「そんなに都合良くいきますか。」
「いかないか。」
「二時間後、期待していますからね。」
「誰に向かって物言ってんの。歯医者通いが止められないくらいに甘ったるくしてあげる。」
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