jujutsu
name change!
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祈本里香が消えてから、六年の月日が経った。
彼女が居た頃は、一人の男の子を巡ってよく喧嘩をしたものだ。男の子の名前も今となってはもう朧気だが、それでも彼は私の初恋の相手であり、祈本里香にとってもそうであるようだった。であるならば、女として戦わねばなるまい。だが、喧嘩、と言っても、対等に喧嘩をしていた心算だったのは私だけで、彼女からしてみればぷんぷんと飛び回る五月蝿い羽虫を払っているくらいの認識でしかなかったのだろう。祈本里香があの神妙な瞳でこちらを見た事など、果たしてあったか如何か。仮令一瞥したとしても、道端の雑草へと向けるそれと同じ。心ここに在らずと言った風で、それが酷く癪に障った記憶は、思い出に靄が掛かっていても特別に鮮やかに残っている。私達が口論――正確に言うならば私の一人相撲だったが、そうしていると、男の子は仲良くしようよと言って拙く仲裁した。すると祈本里香は、喧嘩なんてしていないよ、と世にもうつくしく微笑み、男の子と二人で笑い合うのだ。
私は男の子のそう言った優しい心根がきっと好きだった。
そして、祈本里香が、腹立たしかった。
二人が好き合っているだなんて、幼い情緒でもわかりきっていた。それが余りにも遣る瀬無く、私は自分の不足にも非常に憤っていた。
――幼かったから、だけではない。当時の私は、誰に対して、どんな感情を抱いているか、漠然としかわからなかった。二人の仲が密である事が只管に苛立たしい。それ程度しか自分を理解出来ていなかったのだ。
祈本里香が交通事故で死んだと耳にしてから、男の子とは疎遠になった。
男の子の周りで次々と怪奇現象が起こり始めた事は、小学校や子ども達の父母の間でも密かに噂になっていた。曰く、「祈本里香の幽霊の仕業ではないか」と。それはタイミングもあったが、祈本里香の祖母がとても孫相手にするとは思えぬ様な、丸で人外のモノに対する様な常軌を逸した強い警戒心を持っていた事が有名であったが故だ。当時、彼女と帰り路を共にした時に、私は実際にそれを感じ取りもした。祈本里香が家の扉を開けた時に、家の中からその一挙手一投足を睨め付ける様な視線があった。祈本里香の祖母のものであった。蛇蠍の如くと形容するとなると外れるそれは、異形の血濡れた殺人鬼を恐れるが如く、超常的で猟奇的なモノに対する抵抗と恐怖に支配されていると感じられた。
祈本里香の怨念が男の子を中心として荒れ狂っている。彼女とそう関わりの無かった皆は噂話として、或いは空想の産物として、怖いもの見たさで娯楽的に楽しんでいるようだったが、私は違った。信憑性を見出だしてしまったのだ。――だからこそ、私は、男の子に真実を確かめに行けなかった。
だが、余程肩身が狭かったのだろう。もしくは。もしくは本当に、祈本里香の怨霊に憑かれていて、噂の通りに誰彼が傷付くのを厭っての事だろうか。願わずとも、男の子は次第に人との付き合いを薄く薄くして行き、気付けば、幼い身でいずこかへと居を移していた。
曲がりなりにも初恋の相手の立て続けの不運だ。何某かの可愛気の有る情が浮かぶかと思いきや、私の中に真っ先に浮かび上がって来たのは、良かった、と。そう言った単純な安堵だった。流石に利己的だ、薄情が過ぎると、かぶりを振って無かった事にしてしまいたかったが、本心から転び出て来たものは幾ら振り切ろうと染み込むばかりであった。
顔を合わせれば、祈本里香の事を思い出してしまうだろう。
話をすれば、祈本里香が死んだ事を前提としなければ進まなくなるかもしれない。
彼の存在で祈本里香が蘇るのだ。蘇る、と言う事は、喪っていなければならない。
そう認識しなければならない現実がおそろしかった。仮令逃避でしかないとしても、男の子にはその儘、私の知らない土地で知らない時間を過ごして欲しかった。死ぬ迄お互いの人生が交わらないようにと祈りもした。嘗て好きな男の子であったにも関わらず、我が身可愛さになんと突き放したものだろうか。本当に彼の事が好きだったのだろうか。そう自らを疑うのも宜なるかな。私は更に万全を期して、高校進学を機に生まれ育った土地を離れ、彼が去ったと噂された方向とは真逆に位置する地を選んで移り住んだのだ。
なのに。
なのに、だ。
祈本里香が消えてから、六年の月日が流れた今。現在。私は彼と巡り会ってしまった。
放課後、この高校に何某かの業者が入るとは朝のホームルームで聞かされていた。なのに忘れていたのだ。早足で廊下を過ぎて、下駄箱に出る。ドアに嵌め込まれた硝子の外には、夜が忍び寄っている。橙色から紺色へと変貌する夕焼け空のグラデーションは奇麗なのに、心臓の裏側を撫でられる様な嫌な感じがした。これくらいの時間は「オウマガトキ」と呼ばれる時刻とされているのだったか。気を紛らわせる為にそんな取り留めもない事を考えて校門に向かう。――そこには、人影が、一つ、在った。
息が詰まった。
血の気が引いた。
冷や汗が噴き出た。
噂をすれば影だなんて、たちが悪い。
この学校のものではない、真っ白い詰襟制服に身を包んで校門の辺りに立つ人影は、同じ年の頃の男の子だった。遠目でも直ぐにわかった。身長こそ伸びたものの、やや頼り無気な面立ちは変わっていなかった。一目でわかった。初恋のあの男の子だと。
帰宅時間は疾っくに過ぎていると言うのに、反射的に校舎内に踵を返したくなった。なっただけであり、俄には信じられない、信じたくもない現実に際して、身体は素直に固まってしまった。瞬きすら出来ない。案山子の様に棒立ちで居る事しか叶わない。それが仇となった。悪夢を前に茫然とする私に気付いた彼はこちらを向いて、暫く見詰め合って、驚いた顔をして、その唇が私の名前を形作って、それから――
「――里香ちゃん!?」
そう、彼女の名前を呼んだ。
祈本里香、の名前を呼ばわったのだ。
彼女の影も形も見当たらない。当然だ。だからこそ脈絡が無い。思考が回らない。感情が追い付いて来ない。理解に至れない。
停止してしまった脳に代わって、肉体は「何か」を感じた。勝手に肌を総毛立てて、危険なモノへの反応を示す。ぞわり。ざらついた感覚が、夜に染まりつつある空気を巻き込んで私を締め付ける。圧迫――圧倒だろうか。呼吸が浅くなる。首に手が掛かっている訳でもないのに、こんなにも息苦しい。急な体調不良だろうか。否。激しい感情を嵐の様だと表現する事があるが、この状況は正にそう言ったものの所為に感じられた。目には見えない「何か」が、情動の儘に荒れ狂っているのだろうと。そんな渦中で見る男の子の姿は、酸素不足の所為でぼんやりと霞んで見えた。それでも捉えられたその表情は、怯えだろうか。自責だろうか。そんな風に歯を食い縛っていた。だが、それも束の間で、己の頬を張って直ぐに気を引き締めた様子が見えた。
次の瞬間には、「何か」の気配は鳴りを潜めていた。
「ごめん…………だ、大丈夫?」
慌てふためいて駆け寄って来た男の子が気遣わしく尋ねて来る。
未だ混乱の霧が覆う頭であっても、先程の名前を、その意味する所をいやに意識せざるを得ない、ずっとおそれていた声だ。
――何故。――何故。――何故?
そればかりが私を支配する。
何故、彼がこの土地に居るのか。何故、彼がこの学校に来たのか。何故、彼が刀なんて持っているのか。何故、彼が謝るのか。そんな事は些事だ。重要なのは、何故、今、彼女の名前を叫んだのか。そして、今の人知を超えたおぞましい気配は何だったのか。知らなければならない。――違う。私は知りたいのだろう。知っても、今、六年越しに得たこの期待は、裏切られない。そう確信した胸が逸るのを感じた。
不安そうに覗き込んでいた男の子の目を、真っ正面から見据える。
私は、ずっとおそろしかった。
「祈本里香。」
「え……?」
「祈本里香は、死んだ?」
「…………。」
「死んだ祈本里香が、そこに、いるの?」
男の子は息を呑む間を挟んでから、頷いた。
それを見届けると、膝の力が急速に抜けてしまった。地面にへたり込む私に、彼も大慌てで膝をつく。「大丈夫!?」大丈夫ではない。だって、そうだ。死ぬ筈がないと、そう思いたかった女は確かに死んでいて、幽霊だか悪霊だか何だかとなって想いを寄せる男の子の傍らに、今も居ると言うのだ。大丈夫である筈がない。常識をがらがらと崩されたのだから。
――否。
祈本里香は、常人ならざる雰囲気を纏う特別な女の子だった。
祈本里香は、男の子の事が大好きだった。
ならば、その死後も愛情を燃やして生命の規範を曲げてみせても可笑しくはない。寧ろ道理とすら思えた。
そうだ。あの時の私は、自分が望んだ「祈本里香は何所かで生きている」と言う夢見勝ちな筋書きも、彼女の神秘性も、愛のおそろしさも何も信じきれていなかった。だから、祈本里香が存在しない可能性から、世界から必死に目を背けたのだ。
けれども、もう逃げる謂れはない。
だって、こうして再び会えたのだから!
腑にしっかりと落ちると、これ迄に感じた事のない、晴れやかな気分が笑いとなって込み上げて来た。そうして廻り始めた脳がようやっと気付きをくれる。霊となったと言うならば、先程の災禍の様な暴威は、敵意のそれだろうか?殺意のそれだろうか?生者への嫉妬の表れなのだろうか?実際の所、何でも良い。あの頃、あの時、私を一顧だにせず片手間であしらっていたあの女が、祈本里香が、漸く、漸くその瞳に私を映したのだ!
その事実こそが麻薬の様に私の頭に作用した。背筋を通って、指先、爪先迄、電流がぴりぴりと行き渡る様で酷く高揚した。浮かれてけらけらと笑う。嗤う。目の前で突如気が違ったかの様な姿を晒す私に、男の子は狼狽えるばかりだった。
「生きているだけで儲けものとはこの事ね!彼しか見ていなかったあんたが、私を見る日が来るなんて!」
快哉を叫んだ。ふたたび感情を叩き付けられるかと当て込めども、見えない祈本里香は現れない。辺りを見回せども、見えない祈本里香は見えない。不吉で最高なオウマガトキは過ぎ去り、夜が色濃くなるばかりだった。
「嗚呼、まったく、とっても愉快だわ!」
これは勝鬨だ。仮令、幾ら虚しくとも。
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