jujutsu
name change!
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ぱち、ぱちん。乾いた音が、麗らかな休日の室内に、規則正しいテンポで響く。一指一指と丁寧に爪を切り揃え、鑢を掛けて整える。矯めつ眇めつ、引っ掛かりが無いかと確かめる、男の几帳面なその一連の仕事を見守るのが、女は好きであった。
「七海さんって、小まめに爪を切りますよね。」
筋張った指先で、今、整然を為した爪先をなぞる。円やかである事を確認してから、次の指爪――左手の中指に爪切りを押し当てる。男はこの作業から目を逸らす心算は無かった。それでも、傍らから己の手指へと注がれる無防備な眸子に応える事は厭わない。或いは、何も考えていないのでは、との疑いを持ったからこそ応じたのかも知れないが。
「こんな仕事です。爪が伸びていると、余計な怪我に繋がりかねないでしょう。」
「それにしても、何時見ても深爪気味と言いますか。逆に痛そうだなあ、と。」
男は爪に掛かり切りであったが為に落ち勝ちとなっていた頭を擡げて、女の横顔をつくづくと見詰めた。じい、と手元を覗き込む女の瞳には、変わらず、次々と生成された桜貝の数々が映っている。矢張り、と男は思った。――これでは、自分だけが期待しているようではないか。そう渋い溜息を飲み込み、男は爪切りを持ち直す。
「これくらい短くしなければ、傷付けてしまいかねないですから。」
「? 手を?」
女は疑いの無い眼差しを跳ね上げて、不思議と作業を止めた男の顔へと向ける。さしもの男も、その無垢さには溜息を吐き尽くした。
「貴女を、ですよ。」
そうして真っ直ぐな視線で女の双眸を射抜くと、はて、とゆっくりと頭が傾いでゆく。華奢なその肩に近付いた辺りで、如何やら言葉の意味を掴んだようであった。言わずもがな。迂遠ではあったが、それは睦事への誘いであった。「……あ、えっと、はい……。」女は男へと寄せていた身体を、頬の赤みが強くなる毎に徐に退いて行った。じりじりと、大して広くは無いソファの端っこ迄退避する。自分が口にしていた的外れな見解に恥じ入ったのか、女はそこで身を縮こまらせた。男は執拗に追撃する事はせず、静かに爪の手入れへと戻った。
ぱち、ぱちん。さり、さりり。
左中指の爪の剪定を終える頃、女は再び、もぞもぞと男との距離を詰めて行った。裡に灯された恥じらいの火を隠す為、なのだろうか。目線は頑なに男の手へと落としている。だが、その眼差しは先刻の趣とは異なり、熱っぽさを孕んでいるのであった。定位置に帰って来ると、彼女は、身体と同じく縮み切った声を辛うじて絞り出した。
「その……お気遣い、有り難う御座います……。」
「当然の事をしているだけです。」
男の辞色は、しれっとした台詞と同じく、一切の衒いが無いものであった。良識的なその様に募った愛おしさが、熱くなった女の頬を甘やかに溶かす。その目の前で、男は次の爪――左手の薬指のそれへと取り掛かる。自然、女は順番を待つ指の数を数える羽目になるのであった。右手の五指の爪は既に奇麗に整えられており、残るは左手の二指のみとなった。
――後、二指、で。
あれ程小気味良く聞こえていた爪を切る音が、俄にカウントダウンを行う秒針の様に聞こえ始めて、女は落ち着きを欠かざるを得なかった。まさか、終わり次第、取って食われる訳ではないだろう。だが、行為の下準備が整えられた状態で、来るべき時迄日常を過ごすと言うのも、中々に羞恥を掻き立てるものがあった。意識すればする程に、ぐるぐると動転する。その混迷極まる桃色の頭で回顧してみれば、毎回、彼の背中に爪痕を深々と刻んでいた事実が女の中から転び出て来たのであった。それによって、斯うして心を配って貰っているのだから自分だって、と女は思い立つ。これは決して、精神を振り回す羞恥心を飼い慣らす為の時間稼ぎではない。
「七海さん!」
「はい。」
「私も、爪、切った方が良いですか。良いですよね!?」
「お好きにどうぞ。」
「お好きに、て……。」
見事に空回りとなった女は、困った様に眉を下げながらも確りと難色を示した。余計な怪我を嫌っていたが、これは余計な怪我ではないのだろうか。痛くはないのだろうか。淡々と爪先に鑢を当てる男の手元から横顔へと、視線に言葉を託して、窺う。今度は爪から目を離さぬ儘、男は返答した。
「普通に痛いですよ。ですが、悪い心地はしません。」
その口許がほんの微かに綻んでいるのを見て取った女は、驚愕に瞠目して、「七海さん、マゾの人だったんですか。」と言い放った。「違います。」即答だった。性癖を誤解された男は眉をぎっちりと顰めていたが、一つ息吐いて解くと、左手の薬指の爪をなぞって具合を確認する。良しと判断した。
その間にも女は、今一つ納得が行かない、と言う表情をありありと押し出しているのであった。横目で見て、それから男は己の十指を眺める。彼女の為に爪に手入れを施し、彼女から爪痕を受ける。それは、丸で――。男の脳裏に、或る常套句が思い起こされた。
「貴女からの爪痕は、男の勲章、と言うやつです。気にしないでください。」
「は、はあ……。そうですか。」
「さて。」
これで残りは、一指。感嘆詞一つで、女もそれを認めたらしい。気の紛れる問答で引き掛けた赤色が、ふた度、頬に滲み出る。
ぱち、ぱちん。最後と言えども、名残は無く。女にとっては今や無慈悲と言える程に。規則正しいそのテンポには淀みがないのであった。
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