jujutsu
name change!
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ひたひたと、くる。
ひたひたと、いく。
気が付けば、私、オフィスビルの屋上に。普段は施錠されているのに、如何して。事務所でパソコンと向かい合っていたのに、何故こんな場所に。
湿り気を帯びた夜風が全身に吹き付ける。華美なネオンが毒々しく瞬いてから隆盛を誇る街の夜風だ。常より空気が良いとはお世辞にも言えないが、今宵の風は獲物を前に垂涎としている獣の生臭い吐息のように感じられた。
嗚呼、早く帰らなければ。此所最近になって唐突に、事務所には残業禁止令が敷かれたのだから。理由は人件費削減、社員のワークバランスを守る為、違う、違う。もっと不可解で、致命的な所以だった筈だ。夜七時三十二分に事務所に居ると「か」飛び降り自殺をする「かえ」と。「かえろぉ。」
ドッ、と。背中に強い衝撃。なにがぶつかって来たのか、と咄嗟に振り返る間も無かった。よろけた身体が、胸ぐらを掴まれる形で引き摺られる。打ちっ放しのコンクリートに足を踏ん張ろうとしても、引っ張る力は強く、パンプスが脱げて遠くに置き去りになる。それでも踏ん張る。だって、向かう先は。屋上と宙とを隔てているフェンスだ。これが、目には見えないこれが、連続飛び降り自殺を引き起こしている正体。私を捕らえたなにかは、他の被害者同様に身投げさせる心算なのだろう。嫌「かえろ」、嫌「か」、嫌「えろぉよぉ」、待って「かえ」、やめて「かえ」。
叫べども喚けども、立ち入り禁止の慣例に胡座を掻いた粗末な、成人男性の平均身長程度の高さのフェンスはもう目の前。
「――誰か助けて!」
瞬間。身体が空中に浮いていた。〇.一秒、視界にちらついた、道と言う道に氾濫している電飾の光と、フェンスと、屋上と、其所で嘲笑う異形の怪物。「かえったぁ。」
おぞましい化けものの姿かたちをし、人間を甚振って楽しんでいるそれにぞっとすると同時に。落下が始まる。
「ヒッ――!」
死の間際に走馬灯と言うものがめぐる理由は、過去の経験から死を回避するすべはないかと脳味噌が振り返っているからだと言う。私を生かす為に脳味噌が引いた生命線は、仕事中に暇潰しに見ていたオフィスビルのデジタルパンフレットであった。そうだ。このオフィスビルは地上十階建てだ。大怪我は必至ではあるが、余程打ち所が悪くなければ人は死なないギリギリの高度。だから、運さえ良ければ、大丈夫。――否、矢っ張り嫌だな。労災が下りようとも全身大怪我を負って頭から足の指迄痛いのは嫌だ。
悪足掻きと知っていても、蜘蛛の糸を掴むように手を伸ばす。
「いやあーッ! 誰か助けてくださーいッ!」
ぐんぐん遠ざかる夜空。ごうごう鳴る風切り音。時間にして一秒の永遠は、唐突に終わりを迎えた。ふわ、と。お釈迦様の掌の上にでも着地したのかと思う程の安定感と安心感によって。地面に衝突する衝撃に備えて固く目を瞑っていたが、痛みも何もないのでは生命への不安が募る。此所が天国でも地獄でもなく、きちんと薄汚れた都会の一画であるかを確かめる為に、そろそろと目蓋を開いてみる。
――奔る白い彗星の尾を見た。
私を抱きとめてくれた男の人の、目隠しによって上げられた白髪の先が、小首を傾げる仕草に合わせて揺れていた。
「よっ、と。君、大丈夫?」
ばくばく、ばくばく、と。大きく大きく拍動する心臓から流れ出る血潮が、血管の中、皮膚の下でざわざわざわめく。鼓動の聞き取りに掛かり切りの鼓膜は他の音を拾えない状態の筈なのに、そのゆったりとした声はこの世のものではないかのようにするりと身体の中に入って来た。
茫然と辺りを見回す。此所は未だ空。首を伸ばして下を覗き込んでオフィスビルの階層を数えると、五階に位置する何も無い所を、この人は浮遊していた。
「夢…………?」
「夢みたいな美形だって? よく言われるよ。」
愉快げにけらけらと笑うと、目隠しをした謎の男の人は、両腕で抱えていた私をあろう事か空中に下ろした。空中に、下ろした? 私、如何して空中に立てているのだろう。幽霊になってしまったからか。それにしては、この人の体温を生々しく感じられているではないか。
男の人は、私の片手を取って恭しげについと上げた。綺羅綺羅しいネオンを眼下に、逆しまの世界でダンスにでも誘われているみたいだ、と思った。
「手、離さないで。」
言われた事にぼんやり頷くと、に、と朗らかに笑われた。高校生の頃、先生に褒められた時を思い出した。これも走馬灯なのだろうか。
――地上に星が奪われた白けた夜空に、赤い星辰が爆ぜる。
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私の飛び降り事件以降、後に連なる人間は現れていない。目隠しの男の人が化けもの退治をしてくれたお陰に違いなかった。その場でお礼は伝えたものの、助けられたにも関わらず名前は聞けず終いと言うのもむすむずとするもので。仕事終わりに、帰宅後にベランダで、私は空を見る癖が付いてしまった。星の名前を知らないからと言って夜空を見上げないなんて事はないのだ。
私の身に起こった事は、きっと取り立てて特別な事ではないのであろう。明日も世界の何所かで、何時も誰彼が、名も教えてくれなかったあの男の人に助けられている。私はその一篇でしかない。
だからこれはこれで、めでたしめでたし。
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