jujutsu
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きいし、きいし、板張りが鳴く。今夜も鳴く。
涙は見せてくれないのに不器用な女の子だった。
廊下の明かりも潜まった丑三つの学生寮から、常夜灯のともる自動販売機置き場へ。
羽虫の習性を擬して光の中を移動するかの少女は、生まれ育った村では見えぬを見えると言い張る気狂いと断じられ、息の詰まる狭い納屋に閉じ込められていたらしい。日々を生き長らえた末に機を得て、彼女は東京都立呪術高等専門学校に入学する。呪術師として堅実に経験を積んでゆくも、然し、その様子では未だに納屋から出られていやしなかった。
足の生えた亡霊は、過去より蘇る。夜を厭うて光のある所を好む。夜闇の寝床と化した寮から抜け出し、任務先のホテルから抜け出し、少女は夜な夜な、自動販売機のLEDライトを日溜まりにして憩う。だが、それは仮初めの安らぎだ。空の白む迄自動販売機の膝もとでじいっと身体を丸めているのみでは、身心は十全に休まらない。昼日中に仮眠を摂って活力を補っているが微々たるもの。少女の頬は日に日に白さを増してゆき、反して目もとの影は黒く濃くなりゆくばかりであった。つい昨日には任務中に利き手の骨を折り、集中力の欠如も見られ始めた。家入の尽力により怪我は治りはしたものの、抜本的な解決を目指さなければ必ずや二度目があり、次こそは生命が危うい。何よりも、これ以上、不安に冒されて損なわれてゆく彼女を見ていられなかった。
夏油が、一歩、踏み込む。突っ掛けの底で夜の色に塗られたコンクリートを躙り、態と足音を立てて自身の存在を示す。唐突に声を掛けるよりも驚かせないだろう、と踏んだものだが、夜と偽の朝のあわいに立った夏油には確かに聞こえた。無理矢理に悲鳴を飲み込んで喉が絞まる音、が。
自動販売機に背を預けて座り込んでいた少女は茫と立ち上がり、のろのろと気配に振り向いて、日向の侵略者の正体を窺う。そのまなこには濁った泥濘が籠められており、生気と言うものに乏しかった。対峙すると気圧される程に窶れた、いっそ末期の病身とも見える様相の少女を相手にしても、夏油は笑い掛ける事を忘れない。少女の目に気さくなクラスメイトに映るべく朗らかに笑い、巨躯の与える威圧感を僅かでも減じようと首を傾けてみる。下ろし髪が頬を擽るのでひと房を耳に掛けながら、ポケットに突っ込んでいた手を露わにして、下心の無さを呈する。少女が村で受けて来た仕打ちこそ知れないが、夜半に大柄な男と二人切りと言う状況のおそろしさくらいは想像が叶う。
夏油は何も知らないかのような、教室で挨拶を交わす時のような声音で切り出した。
「驚かせてごめん。」
「……いえ。……大丈夫です。」
「私も眠れなくてね。そっちに行っても良いかな。」
畏縮した心臓の拍動の合間を縫い、細くか細い糸の息が吐き出される。一つ、二つ、浅く、深く。次第に呼吸の調子が調うと、ゆっくりとまばたきをして、少しずつ、憑きものが落とされる。そうして夜を渡る亡霊など端からいなかったかのように、少女はいびつな愛想笑いを形作って夏油を招いた。
それに応じて歩み寄りつつ、夏油は黒色のスウェットズボンのポケットに手を差し入れる。自動販売機に接するとコインケースを取り出してみせた。
「驚かせたお詫びに何か奢るよ。何が良い?」
返答を待たずに幾枚かの硬貨を入れ込めども少女からの応答は無い。視線を合わせると言う行為は時として警戒を誘う。夏油は顔を正面に向けた儘、色取り取りのダミーラベルを眺めて傍観に徹する事にした。
投入した硬貨が自動的に返却される、直前。そろそろと伸びて来た手は、躊躇い勝ちな仕草とは裏腹に迷いが見られない。冷たいブラックコーヒーのボタンが押し込まれる。少女は今夜もひとり、此所で朝のきたるのを期する心算なのだ。
ガコン、と、落下した缶が静謐な空気に罅を入れる。少女に先んじて取り出し口を開けた夏油であったが、その黒色の缶を彼女に差し出す事に気乗りはしなかった。指先を悴ませる冷たさは安息からは程遠い所為だ。
結露が、夏油の手指を伝う。コンクリートの地面に垂る。
「……硝子に言えば、睡眠薬を拝借してくれると思う。余り、褒められた事じゃないが。」
点々と濡れたコンクリートを眺め遣る、夏油の声は固い。夜毎、この少女はこの場所でひとりきりで泣いているのではないか。水痕にそう想起させられると、気持ちは急いて、急いて、我慢ならずに窮策を講じていた。
夜のしじまを震わさぬ程に密やかな、けれども、如何か首肯して欲しいと懇願するかのような必死げな響きを、噛んで、含んで、飲み込んで。少女の手が伸びる。ブラックコーヒーの缶がその掌中に納まる。黒色の缶の表面に浮き出す水の玉を、少女は白く乾いた爪の貼り付いた指先で撫でて、颯と払い落とした。ぱたり。雫の滴る音が、艶の失われつつある頬に笑みを浮かべさせる。皮膚に諦めの苦味の染み込んでいる少女は首を横に振った。
「家入さんは医師免許を持っていないでしょう。誰かに見付かったら大変な事になる。迷惑は掛けられないよ。」
「そうやって怯え続けているのは、心地が好いから?」
驚きに目を見開く少女に、夏油は直ぐに我に返った。少女を助けたい一心から焦燥に急き立てられていたのだとしても、心無い挑発的な物言いをした。身心を弱らせている人間に掛ける言葉ではない。取り繕う台詞を探して、探して、焦っていては見付からずに、夏油はもどかしく「ああ、いや……ごめん。」と項垂れる事しか出来なかった。結露に湿った手を額に当てては〇.一度でも頭を冷やそうと試みる。
「夏油くんは、何故、そんなにも私の事を気に掛けてくれるの?」
自動販売機がLEDの光を投げる中、夏油を真っ直ぐに見上げる眸は心底から不可思議がっていた。俯き勝ちであった少女の顔は、すっと持ち上がると墨汁を刷いたかのような濃い隈が目を引いた。
黒ずんだその薄い皮膚を拭ったら、不安も払えやしないだろうか。夏油の無意識が少女のかんばせに向けて手を動かそうとする。しかし、夏油はとどめた。静かに微笑むにとどめた。彼女を緊張させる事は本意ではないのだ。
「君は強いから。一緒に戦ってくれたら助かる術師が沢山いる、とか、いま納得させられる理由はそれくらいかな。」
「――夏油くんは優しいから優しいんだね。」
「意地の悪い事を言った自覚はあったんだけどな。」
だって、彼女は呪術を嫌っている。だから、教わりさえすれば呪術師以外にも生きる道はきっとある。そのような夢想ごとを信じてやりたい程に、少女は自らを孤独に追い遣った力を厭うている。理解した上で生き方を縛る非道の理屈だとの覚えはあった。
決まりの悪さに眉が下がりつつある夏油を他所に、少女は半歩、歩み寄った。
「一緒に居ようとしてくれるひとがいる事は、こんなにも助けになるもの。夏油くんは優しいよ。」
この分では、心配して追い掛けて来た事は既に少女の知る所であったようであった。
すっかり憑き物が落ちて、少女の頬は最後の強張りを解いていた。親兄弟の迎えが現れた迷子かのような、はぐれた群れに戻れた動物かのような、孤独の心細さから救われた安堵が其所には感ぜられた。
自動販売機の明かりを照り返す双眸には、泥の如く纏わる恐怖ではなく、今や生気の片鱗が光っている。見入ってぼんやりとする夏油を気付けたのは、少女の可笑しげな声だ。
「でも、男の子って好きな子には意地悪をするものらしいでしょう。もしかして、その類いだったりする?」
「私、小学生だと思われてる?」
「先ずは、好きな子、のところを否定しないといけないんじゃあないかな。」
「気にはなっているよ。そうでなければこんな夜更かしはしないさ。これでも優等生なんて言われていてね。」
肩を竦めると、夏油の答えは思わぬものであったのであろう。少女は頻りにまばたきを繰り返した末にそうっと顔を反らした。未だ冷たさを保つブラックコーヒーの缶を片方の頬に当てている。文明の齎す光は無作法だ。少女の頬にじわりと滲んだ花のような可憐な薄紅色も例外にせずに暴き立てる。「ええと、あの……ありがとう。」。声の表情迄もが朱色を帯びて、恥じらっていた。
「気にしなくて良いよ。眠れなかったのは本当だから。」
――好きな子がひとりぼっちで泣いていないか気になってね。本当の本音を、硬貨を投入する音に紛れさせた。
夏油はペットボトルのミネラルウォーターを一本、購入し、小さな白昼の外に視線を向ける。それから意識的に下げた眦を少女に見せる。一緒に行こう、と手を差し伸べた心算であった。
「夢子さえ良ければ、眠れるまで話し相手になってくれないか。ここは暗くて寒い。そうだな……私の部屋――はマズいな。食堂にでも行こうか。」
小さなこうべが小さく小さく首肯するさまを目にして、今度は意識せずとも笑みが深まってゆくのを夏油は自覚した。
彼女の手に握られたブラックコーヒーの缶のプルトップが開けられるのは日が昇ってからで良い。今は、少しでも彼女をあたためて、眠らせてやりたい。冷蔵庫にあった牛乳は勝手に使って良かっただろうか。都合が悪いようならば、明日の朝、一番に寮母に謝ろう。その心の助けになるならば、いつまでだって一緒に居よう。
普段であれば眠りに就いている時間である。眠気に霞もうとする目をこっそりと屡叩かせて、夏油は自動販売機に背を向け、半分に狭めた歩幅で暗闇の中を歩き出す。肩越しに振り返る。少し離れて付いて来る少女の気配からは怯えはもう見えない。長らく望んでいた夜明けの訪れを予感したかのように、心弛びつつある足取りをしていた。
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「す……げ、夏油くん。」
「はい。」
翌朝。
ひと眠りしたのち、牛乳を温めて全て干してしまった事を、夏油は真っ先に寮母に詫びに行った。笑顔付きで事なきを得たのは偏に寮母の人柄のお陰だ、と欠伸を噛み潰しながら食堂を出た所で横合いから声が掛けられる。その上擦った呼び掛けは聞き慣れぬものであったから、階級を相手に緊張を強いられた補助監督のものだと当て込んで、夏油は人好きのする顔を作って身体毎振り向いた。それは瞬く間に崩れる事と相成った。
首を枝垂れて見遣った先には、たった数時間前に別れたばかりの少女が居たからである。
空の晴れ渡った清しい朝にも関わらず、少女の声はがちがち、表情もがちがちに固くなっていた。会釈の仕草すら昨晩よりも覚束ない。
「夏油、くん。おはよう、ございます。」
「やあ、夢子。おはよう。さっきぶり。」
「これ、缶コーヒーのお代金です。貰いっ放しは良くないから。」
気を遣わなくて良いのに、と。夏油が言いそびれたのは、何も寸前迄込み上げていた欠伸に喉を塞がれたからではない。
「――傑くん。」
意を決した、と言った様子の少女に目を見張る。名前で呼んで貰いたい、とは、食堂で二人、ホットミルクを啜って夜を明かしていた先頃に話した事だ。その場では、何時か、と流されたものだが――初めて、好きな子から初めて名前を呼ばれた高揚でじんわりと汗ばみゆく手。それを取られて、小銭を載せられる。指を包み込んで優しく握り込ませる少女のぬくもりに気を取られながらも、夏油の耳には、はっきりと聞こえていた。
「傑くんのお陰で、久し振りによく眠れた。――ありがとう。傑くんが一緒に居てくれたから、安心、出来ました。またお話ししてくれたら、嬉しい、です。」
ぎこちない、けれども、少女の口の端は柔らかく綻んでいた。久方振りに見られた笑顔であった。
礼を告げるや否や、少女はそそくさと去ってゆく。身体に活力の戻ろうとしている機敏さが宿っていた。遠ざかる背中を見詰めて、暫しぼうっとする。少女の影が廊下から消えると、意識は手の平に置かれた小銭へと向いた。少女の力加減を真似て握り直す。夏油はひっそりと目蓋を閉ざした。胸から迫り上がるのは、先程、噛み潰した欠伸の反芻ではない。噛み締めるは男子の面目躍如。――ああ、夜更かしの甲斐があったな。朝日のあたたかさに似た温度の歓喜に夏油の身体がくるまれている、と。
「おっはー! 廊下のド真ん中で立ち寝なんて器用な真似してんじゃん。」
小鳥の群れも一斉に飛び立つような騒がしさの塊が駆けて来た。夏油の背後を取った五条が、わさわさ、わさわさ、親友の肩に腕を回して乱雑に揺する。わさわさ、わさわさ。幾ら揺さぶられても、夏油は正に地蔵菩薩の如く穏やかな表情で廊下の端に佇んでいるだけであった。
遂には怪訝に思ったらしく、その顔色を確かめてやろうと五条が身を引いた、瞬間。骨で骨を打つ鈍い音が炸裂した。不意に思い切り肩を殴られた五条が、鈍痛を訴える箇所を庇う格好で大きく非難がましい声を上げる。
「はぁ!? 何だよ!?」
「何でもないよ。」
「いきなり笑顔で殴りかかって来ておいて、何でもないとか。機嫌が良いのか悪いのかわかんねー……。あの日?」
「デリカシーが無いな、悟。ちなみに私はご機嫌だよ。」
「やけにハイだな。まさか徹夜した?」
「それもある。」
だとしても、寝不足の気怠い靄は少女のひと息によって疾うに吹き散らされている。傑くん、と呼ぶ彼女の声。はにかんだ笑顔。跳ねるような軽い足取り。一つ一つ思い出すだに夏油の心は弾み、嬉しさが胸の底から込み上げて来る。
朝を言祝ぐ陽光の橙が、今、学舎に満ちる。
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