jujutsu
name change!
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
机に降り立つなり硬い声で挨拶をする小瓶は、退屈そうに眺める男の鋭いまなこを前に畏縮しているようだった。
一つ、二つ、三つ。赤、ピンク、ベージュ。他にも様々な色彩が充填された小瓶を整列させてゆく。キャップの天辺を一つずつ爪先で叩きながら、目の前で生欠伸を漏らす彼に問う。
「何色が好き?」
「特にねぇな。」
「じゃあ、私には何色が似合うと思う?」
「赤。」
「どっちの?」
「その二つ、そんなに変わらねぇだろ。」
「こっちの方は少しくすんでいるの。」
「あっそ。だったらこっちの方がオマエらしい。」
武骨な指先で軽く弾かれたのは、くすんでいないもう一方。ギラギラとして攻撃的な、鮮烈な赤色を誇るマニキュアであった。「らしい、ね。」。――知る気も無い癖に。
毒吐く代わりにくるくるとキャップを回す。途端に溢れ出したシンナー臭は、やけに五感の発達している彼の嗅覚に余程深々と刺さったのだろう。見てみると、きつくきつく、その端正な顔立ちを顰めていた。良い気味だと北叟笑んで、引き上げた刷毛をふちにあて、マニキュア液を均す。始めに親指の爪に色を載せる。
彼が臭気を厭うてベランダに出ようと腰を上げた。
「私、そんなに強い女に見える?」
赤いマニキュアには、ひと塗りで気丈な女になれる魔法が掛けられている筈ではないか。彼のつま先が玄関ではなくベランダに向いている事を確かめて尚、声は小さく震えて、魔法で誤魔化し切れない私の弱気を露わにした。一瞬の沈黙が、酷くおそろしかった。
「少なくとも面倒な女には見えねぇな。」
「それって牽制?」
「その赤、よく似合ってる。」
いやに優しい手付きで頭を撫でられる。ご機嫌取りとは殊勝な事だが、さっさとベランダに退避する彼の背中を見詰めていると、何だか全てを投げ出したくなった。手に握り込んだこの赤いマニキュアを、素知らぬ背中に叩き付けてやりたくて堪らない。
だって、このひとが芯からいとおしく想っているひとは、きっと、こんな赤色なんて似合わないのだから。
虚勢
リビングの扉を開け放って、ビニール袋を高々と掲げてみせる。居候の視線が釣れた手応えに、口の端っこが自然と持ち上がってにんまりとしてしまう。
「シャトーブリアン様なるぞ。頭が高い、控えおろう。」
有名な時代劇の中の印籠を見せ付ける家臣にでもなった気分で、朗々と謳う。
テーブルに競馬新聞を広げていた彼が、怪訝そうに一拍置いた後、傷痕の刻まれた唇を肉食の獣みたいに吊り上げた。態とらしい拍手が打ち鳴らされる。
「随分と奮発したな。」
部屋の四方八方に散らばった乾いた音が壁に吸い込まれた頃を見計らって、私はしみじみと頷いた。
「諭吉が蒸発したわ。焼くのに失敗しないと良いのだけれど。」
「食いに行った方が良かったんじゃねぇの。」
「今日は疲れたの。もう甚爾以外の人と話したくない。」
「あっそ。そいつはお疲れさん。」
さらりと放られたその労いの一言で、ストレスで凝っていた心に血が通い出す。心身を苛んでいた疲れが溶けて押し流されてゆくようであった。
仕事勤めは何かとストレスが溜まる。今日は特に厄日であったので、残業をやり終えてから、堪らずに閉まりかけのデパートのその地下に店を構える高級精肉店に駆け込んだのだ。
「ストレスが溜まった時は美味しいお肉を食べるに限る。」
私の持論を展開すると、彼は組んでいた脚をほどいてのっそりと立ち上がり、興味深そうにビニール袋の中を覗きに来た。
美人は三日で飽きると言うが、そんなのは嘘だ。間近で見るしっとりと濡れたような漆黒の睫毛の長さは、何時迄経っても見慣れる事がない。美は精神を救う。顔も声も肉体もうつくしいこの男を飼っていなかったら、今頃はストレスに気を狂わされていた事であろう。彼と出会えなかった世の人間には同情の念を抱く。本当に、御愁傷様な事だ。
優越感に耽溺し、目を奪われている事にも気付けないくらいに端正な顔立ちに見惚れていると、睫毛以上に黒々とした瞳が視線をやり込めるようにして私を射抜いた。次いで浴びせられた喉でくつくつと笑うそれは、明らかな揶揄の音だった。
「美味い肉なんて毎晩食ってるだろ。舌が肥えたか。」
「だって貴男、筋張っているじゃない。私は柔らかいお肉が食べたい気分なの。」
――とは言えども、後何時間もしたら御馳走になる運びとなるのだろうけれど。
高揚しようとする神経を落ち着かせるべく、そそくさとキッチンに踏み込んだ。御肉様の鮮度を守らんとする保冷剤を引き剥がして、常温に戻す為に調理台の上に暫し鎮座させる。
スーツのジャケットを脱ぎながらキッチンから出るなり、「ん。」と逞しい腕が差し出された。「ん。」と子どもみたいな鸚鵡返しと共にジャケットを手渡し、その儘洗面所に向かう。ハンドソープの泡立つのと共にむくむくと大きくなりゆく、鼻歌でも歌いたくなるような愉快な心地。
彼のそれは、普段はしない気遣いだった。ぐうたらで危険なにおいしかしない男だが、気紛れに小さくいたわってくれる。だからこそ、こうして深みに填って行ってしまうのだろう。
手を濯ぎ、うがいを済ませ、化粧を落とす。さっぱりしたところで部屋着に着替えてリビングへと戻ると、先程迄私を締め付けていたスーツはきちんとハンガーに吊るされ、壁の長押に掛けられていた。その隣にパンツを掛けて、振り返る。帰宅した時と同じ格好が其所には在った。テーブルに頬杖を突いて、馬の名前と細かい文字と数字がびっしり敷き詰められた斬新なテーブルクロスに視線を注ぐ、少し丸められた背筋がなんともいとおしい。広い背中に抱き着いて、烏の羽のように艶やかな黒色をした髪を繰り返し撫でる。
「良い子、良い子。」
「良い子にご褒美は?」
「ビールがあるわ。六缶パックを買って来た。」
「荷物になるんだったら呼べよ。」
「あら、珍しく優しい。」
「いつも優しいだろ。」
髪を梳いて指通りを楽しんでいた手が、不意に取られた。労るように手の平を親指の腹で撫でさすられる。黒色のスウェットを着込んだ肩口に顔を埋めてもっと触れて欲しいと甘えると、腕を回して後ろ頭をぽんぽんと撫でてくれる。
手も頭も、胸の内側も、堪え切れない程にむずむずと擽ったい。仕事から解放される特別な夜である事も手伝って、浮かれた笑い声がとめどなくあふれ出す。
「嗚呼、花金最高、て感じ!」
フラワー・フライデー・フェスティバル!
「職業・家事手伝いの人ー。」
お返事が無い。ソファからにょっきりとはみ出ている二本の足は、辺りにご機嫌を知らしめる猫科の獣の尻尾のよう。ゆうらゆうらと揺れている。猫のそれに当て嵌める迄もない。厄介事を頼まれるのを警戒して、起きるのを億劫がっている仕草だ。
「職業・無職の人ー。お仕事、斡旋しますよ。」
「仕事ならしてるだろ。毎日オマエを癒やしてる。違ったか?」
「はいはい、職業・ヒモの甚爾くん。ちょっと来て頂戴。」
バサリ。天井に広げていた競馬新聞を畳むと、職業・ヒモの甚爾くんはのっそりと上体を起こして、寝転がっていたソファから立ち上がった。傷の跨ぐ口端が歪んだのは、生欠伸によるものか、面倒臭さを露骨に表しての事か。何にせよ、呼び掛けに応じてくれたからには観念したのであろう。対面キッチンの内側に入って来た黒いスウェット姿に、早速、小さなざるにこんもりと盛ったスナップえんどうを差し出す。
「筋取り係に任命します。よろしくね。」
「その儘でもいける。」
「いけない。よろしく。」
「……だりぃな。」
お手本のような渋り具合ではあったが、斯くしてスナップえんどうは彼の手に渡った。
下拵えが為されている間に湯を沸かしておこうかと、片手鍋を取り出して水を張る。ざあざあと蛇口から水が流れ込むのに合わせて思考が押し流されて来る。そもそもこの男はスナップえんどうの筋の取り方を心得ているのだろうか。「甚爾、」と隣で黙して突っ立つ彼を振り返る。
丁度、一本目の蔕を折って引っ張り、太い筋を取り除いたところであった。
「何だよ。やっぱりオマエがやるか?」
「やらない。けれども、」
「けれども?」と言葉を引き取りながら、反対に付いている細い筋に爪を立てて剥いている。手慣れている。それはそうなのだろう。この男と言ったら、剣呑さすら感ずる程に妖艶な美貌を持っているのだ。その上、絶滅危惧種のような、と言えば当て嵌まるのだろうか――何所か放って置き難い、孤独ないきもの特有の危うさを持ち合わせるのだから堪らない。おまけに、此方の事情に不用意に踏み込んで来ない如才の無さだ。転がり込んだ部屋は数知れず、抱いた女だって数多いるとは、磨かれた手練手管からだって察せられる。ならば――。
一向に接がれぬ答えに、眉と眉の間に怪訝な思いを宿して顔が上がる。甚爾の眉間がほぐれるよう、私は努めて朗らかに、なるたけ居心地良く、明日にでもこの男が離れてゆかぬようにと自然体を装うのだ。
「顔が良い男って、スナップえんどうの筋取りでも格好が付くのね。」
「見惚れるのは結構だが、水、溢れてるぞ。」
ざあざあ、じゃばじゃば、鍋から溢れた水が排水口に流れてゆく。
――ならば、幾らでも替えの利く凡百の女から何時か教わった事だと、そう、思い込むだけだった。
蛇口レバーを押し下げて水を止める。傍らで慣れた手付きでスナップえんどうの筋を取る男が如何にも見知らぬ他人に思えて、二度と家事の手伝いなどさせやしないと、私の執着に固く誓わせた。ヒモは、養われていてこそだ。
匿
雪の降るさまを、しんしんと降る、なんておとなしそうに言うが、斑雪が傘にぶつかる音と言ったら如何だ。まるで砂利をまぶされているようで、雨粒の方が余程風情を理解していると言えよう。糅てて加えて、歩く毎にビニール傘は白くなりゆき、視界は悪くなるわ傘は重くなるわ手は悴むわ。けれども、今日の雪空のもとに在っては、私はその最悪の全てとは無縁でいられた。
「手、霜焼けになっていない?」
「部屋に帰ったら温めてくれるんだろ。」
「それも悪くはないけれども、直ぐにお風呂を沸かしましょう。そっちの方が余程温まるわよ。」
「オマエは?」
冷えていないか、と尋ね掛けられているのであろう。傘を大きく此方に傾けて、私が少しも雪を被る事がないようにして尚、気遣ってくれるとは。雪模様の為に早々に退社した私を駅迄迎えに来てくれた、それだけでも充分な程なのに何ともサービスが良い。宿主、やっているものだ。
「可愛い可愛い甚爾くんのお陰で冷え知らずよ。」
「冷え知らず、な。風邪でも引いてるからか?」
「お生憎と平熱よ。色男に、可愛い、は不服だったかしら。」
でも、だって、可愛いげがあるのだから仕方が無い。傘の庇から出た甚爾の、薄らと白くなっている肩を覗き込む。何時ぞやに買い与えた厚手のコートを羽織っていようとも、見るだに寒々しい。献身と映るそれも処世術の一つなのだと心得てはいても、一歩、傍に寄る。傘の傾きは僅かに水平を取り戻して彼の肩を少しばかり覆ったが、これ以上近付いてはお互いに歩き難かろう。
ハア、と。甚爾の目の前に吐息の綿雲がぷかりと浮かんだ。降るは、呆れだ。
「ヒモ相手に殊勝な気遣いするじゃねぇか。」
「可愛いから、つい、ね。」
「可愛いと得だな。」
ビョウ! 突如として傘の中に吹き込んだ一陣の向かい風が、二人の身体に雪礫をぶつけて去ってゆく。寒い。素直にそう身震いと共に呟いたならば、きっとこの世渡り上手――女渡り上手か――の男は、着替えと一緒に冷え切った手で私を抱え上げては浴室に籠るのだろう。空も凍てつく日だ、それも良いか。
吹雪に乱された黒髪の下の、端正な顔立ちを振り仰ぐ。その睫毛に飾られた雪の一粒の美しさたるや。誘い文句も忘れてしまった。まばたきによって薄氷の飾りを振り落として、甚爾の黒瞳が私のうつけ顔を射抜く。
「何だよ。」
「ううん。清少納言の気持ちがわかりそうだなあ、て。」
誰だそれ、と怪訝そうな顔付きをして、甚爾は頭を振るってコートをはたいて、序でに私の前髪にしがみ付いていたらしい雪の欠片をそうっと撫でて落とした。
雪花ふるふる
男性美の極致に至るこの男だからこそ、口もとに付いた瑕疵は瑕疵とは言えない。いっそ男らしさを際立たせる装飾のような傷痕が、小さく引き攣って、短な言葉を生む。
「やる。」
次いで、徐に、けれども勿体振らないと言うサプライズの演出に適した調子で腕が持ち上がった。目の高さに差し出されたそれに、視界が真っ赤に染め上げられる。濃い、古びた血のように濃い赤色を基調として作られた小さなブーケ。中心で咲く薔薇の花弁の形をじっくりと観察していると、鼻先で花ばなの香が戯れ始める。
「花なんざ腐る程貰って来たかと思ったんだがな。見惚れるくらい気に入ったか。」
「ええ。色男と花束、普遍的な胸の高鳴る取り合わせだわ。突然のプレゼントとなれば尚更どきどきする。」
「それだけ喜んで貰えるとはな。買って来た甲斐があるじゃねぇか。」
いけしゃあしゃあと。私の胸もとに押し付けては押し付けがましく、これを早く受け取れ、と催促して来る。花よりも刃物が似合う男だ。赤にまみれた手もとを眺めていると殊更にそう感ぜられた。赤は、止まれ。警告色の発するシグナルに従い、手は伸べず、じいっと私を見下ろしてばかりの甚爾を仰ぐ。
「いきなり、何の真似?」
「家主のご機嫌取りもヒモの仕事だろ。」
「別に損ねていないけれども、これから損ねる予定が――ああ、いえ、いい、わかった。」
彼に融資して、彼が投資して、金は天下を回り回る。めぐりめぐって私のもとに帰って来た試しはない。今日は競馬か競艇かパチンコか、スウェットに取り付いた煙草の臭いが薄い事から馬か艇だろうか。私の年収と貯蓄を試算し直す。二人揃って食うに困る日の訪れは相当遠いと判じられたにしても、こうも金を使い込まれて賭けの負けが込まれると、近く財布の紐をきつく調節しなければなるまい。
脱力した肩の先、無気力にぶら下がっているだけの手首が掴まれた。洒落っ気もなく、半ば無理矢理にブーケを握らされる。
「へぇ。似合うな、やっぱ。」
「……初めて言われたけれども、花が?」
「花も。」
私の手の中に荷物を移し終えた甚爾は、身軽そうにすたすたと部屋を闊歩し、お気に入りの居場所であるカウチソファに身を横たえた。その儘長い脚を組み、目蓋を閉ざして、夕食の用意が整う時迄ひと眠りと洒落込む心算らしい。気儘な事だ。彼の自由な振る舞いが、彼が自由に振る舞えている事が、彼の居心地の良い場所で在れている事が。私には余程嬉しかった。
ソファのそばに立ちがてら、ブーケを構成する花ばなを確かめる。幾ら人間の機微に敏い男とは言えども、薔薇や蒲公英と言ったポピュラーな花以外の名を知っているかは怪しいものであった。
「この花、まさか、甚爾が選んだの?」
「花屋に任せた。」
「血の色がお似合いになる恐ろしいご主人様に渡すものだから適当に見繕ってくれ、とでも言って?」
「半分当たりだな。赤が似合う強気な美人にやろうと思っている、後は「適当に見繕ってくれ。」。いらねぇなら捨てろ。」
斯くして、平らかな声音が述べる。世辞や揶揄の起伏は僅かも無かった。
――要らないならば捨ててしまえと何て事無く言ってしまえる、このブーケにきっと真心は無い。そして、花は枯れたら後腐れ無く捨てられる。まるで、私だった。
「いるわよ。誰が捨てるものですか。」
畢竟、甚爾にとっての私とは、情を掛けるに値しないゆきずりの女だ。室温が一度、ソファの位置が一ミリ違っていたから、と言う理由だけで出て行けてしまえるくらいの居場所だ。
甚爾にとっての私とはその程度の存在でも。
私にとっての甚爾とはその程度の存在ではない。
抱えていたブーケを逆しまに下ろす。未だ瑞々しい花を携えて、紐でも無いかとソファ近くに備え付けてある抽斗を探る。この男にとっては枯れた花もドライフラワーも然したる違いはないだろうから、枯れてなお残るものがあるだなんて誤算となるだろう。
「甚爾。次に負けたらシリカゲルを買って来て頂戴。」
「次があったらな。」
「あるでしょう。それじゃあ明日、約束よ。」
不貞寝か、それ切り言葉は途切れて、男の呼吸は静かなしずかな寝息に変わる。果たしてほんとうに甚爾は其所に居てくれているのかと、影のようにソファに蟠る黒衣を振り返っても堪らず危ぶむくらいの静寂。その中心に置かれて、無かった事になどしてやるものか、と怒りにも酷似した感情が燃え立つ。
ブーケをいま干からびさせる事も容易い、貴男への情と熱。
シグナル・レッド・ガーデン
アーモンドチョコレートは私の好物ではない。冷蔵庫の奥にこれで三箱が積み重なったが、好物でないからにはストックしている訳ではない。
冷蔵庫に背中を預けて、働き蟻よろしく、今日もせっせと菓子を運んで来てくれた黒尽くめのスウェット姿を仰ぐ。
「甚爾。負けたのね、また。」
浪費はヒモの甲斐性だ、口は出すまい。けれども、こうも懲りないとなると溜息だって出なかった。
パチンコ屋に出入りした証明書のようなものだ。端数の出玉で交換されると聞くアーモンドチョコレートは、彼の負けた分だけ冷蔵庫に増えてゆく。
本当は儲けが幾らか出ていて懐にこっそりと蓄えている、なんて狡猾な真似はしていない。この男は詐欺師宛らのすべらかな舌を備えているのに、ギャンブルで打ち負かされた日は口数が一寸だけ減るのだ。精悍な美貌の輪郭を撫で、尖った上唇のふちを、つ、と撫でてやる。
「よしよし。痛い目に遭って可哀想。」
擽ったそうに目が細まる。ご機嫌が直りつつある、ように見せかけて、それは甘えさせて気持ち良くさせると言う一つの手練手管なのやも知れない。自分にしか懐かない獰猛な獣を飼っている。そう優越感に浸っていては病み付きになり、この男無しではきっと生き難くなるだろうから。
ずぶずぶと吸い込まれて虜となってしまう前に、最後に唇をひと撫でし、ひと押しし、釘を刺す。
「でも、チョコレートはもういらない。景品交換所には洗剤も置いているんでしょう。次はそっちを持って帰って来て頂戴。」
「次は勝つさ。」
「何なのよ、どこから来るのよ、その自信は。」
じ、と。冷蔵庫を超す上背で見詰めて来たかと思えば、顔の間近くに手が突かれ、甚爾のその背が撓う。頭からすっぽりと、彼を象った影に覆われる。パチンコ屋に焚かれていた煙草の臭いが鼻先に絡み付いて来た。屈強な肉体を肩を押して退けようとするも、所詮は女の力のする事だ。獣じみた男が歯牙に掛ける訳もなく、容易く押し切られ、耳朶を柔く食まれる。雨に濡れた仔犬かのように力無げな吐息が、チョコレート菓子めいて甘ったるい声が、鼓膜を震わす。
「――不安なんだよ。オマエに捨てられたらどうしよう、ってな。」
離れ難そうにゆっくりと、少しだけ、身体を引かせる。甚爾の目蓋が僅かに伏せられた。蠱惑的なラインをえがく睫毛の縁取りの下では、戯れ合っていた先とは異なり、青灰色の双眸が切なげに揺れている。冬のさびしい海に通じる色だ、と思った。
ややあって、す、と顎が掬われた。翳りが愈々濃くなり、私も首を傾ける。然し、彼の思惑に乗って口付けのし易いようにしたのではない。お決まり通りに目を閉じない私に、中途半端な所で動きを止めた甚爾。その訝る眉間を、視線で穿つ。
「それだけ申し訳無く思っているの?」
「ああ。」
「だったら、証明して。キス以外で。」
折角色気の香り立つ形に整えた唇が、また、小さく尖ってしまった。可愛らしい仕種をするものだと可笑しくて吹き出しそうになるが、奥歯をぐっと噛み締めて堪える。甘い雰囲気に呑もうと企てたのであろうが、そうはいかない。この手を使うのは何度目だ、と言う話だった。偶には趣向を変えるのも悪くはないだろう。
現金なもので、ご機嫌取りに失敗したと察するや否や、甚爾はあっさりと身体を離した。若干、結構、かなり面倒臭そうに見える顔付きでいながらも、確りと思考し、思案しているらしい。何か無いかとめぐらせていた視線が、不図、キッチンの奥で行き止まる。丁度、給湯器のリモコンが湯船に湯の張れた事を軽やかなメロディで報せてくれた。
リモコンから聞こえて来る機械的なアナウンスを、武骨な親指が指し示す。打算的に迫った事に対して悪びれもなく、胸の焼けるような甘さもない。けろりとした様子で、にたりと笑う。
「疲れてるだろ。頭からつま先まで洗ってやるよ。」
「それじゃあ少し、誠意が足りないなあ。」
「風呂から出たら肩でもお揉みしましょーか。」
「よろしい。お願いしますねえ、ヒモの甚爾くん。」
逞しい太い首に取り付いて、彼の身体に唯一付いている瑕疵に唇を寄せる。傷となって久しいのであろうそれはざらつかず、唇の敏い神経を不快にさせずに従順で、財布から取り出す紙幣の数を増やすには充分な可愛げがあった。
甘美なる日々
96/99ページ