jujutsu
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今から怖い話をしよう。
諸賢、覚悟の程はよろしいだろうか。
これは、と或る夏の、と或る暑い夜の出来事。
その日は風での涼も期待出来ない、天気に恵まれ過ぎたカンカン照りの地獄日和であった。動いていようと止まっていようと立っていようと座っていようと、汗が滲み出ては、滴り、落ちる。タオルで幾ら拭えども拭えども、瀑布にそうしているかの様に際限が無く、穴堀り拷問を彷彿とする始末だ。
そんな最悪の日中を乗り越えたと言うのに、夜は夜で極悪の顔を見せつけられる事となった。太陽が西に帰り夜の天幕が張られようとも、気温は一向に下がる気配を見せず、それでいて、立ち上る湿気がじっとりと世界に充満してゆくのだ。この夜は宛ら、蒸し器の中の様相を呈していた。だとしたらその中をゆく私は肉まんか、小籠包か、はたまた蒸し餃子か。身体に纏わり付く粘度の高い熱気を振り切る体力は、屋外での呪霊祓いに従事した事も相俟って、日が出ている内に殆ど消耗してしまった。部屋に着く頃には良い塩梅に蒸し上がるだろうな。
益体の無い自分の考えに気の無い笑いを浮かべながら、重たい身体を引き摺って、部屋を借りている寮迄辿り着いた。だが、私が居住しているのは二階の奥まった角部屋なので、安堵するにはもう少しばかり時間が要るのであった。こう言う時ばかりは部屋選びを失敗したと思ってしまう。静かな廊下をとぼとぼとゆく。何とはなしに携帯端末の画面を点灯させると、時刻は二十一時五十七分を表示していた。
この時間にも関わらず斯様にも暑いなんて、一体如何なっているのか。こんな日が続けば遠からず参ってしまう。明日にでも避暑地への長期出張を要する任務が入ってくれやしないだろうか、などと茹だった頭で夢見ている内に、漸く自室へと到着した。鍵を差し込み、扉を開ける。
先ずは冷房を点けて、部屋を冷やしている間にお風呂に入ろう。それから、いざと言う時の為に取っておいた隠し財産たるアイスを食べよう。火照り切った身体にたんまりと贅沢を与えよう。そう計画を立てつつ、軽やかに間仕切りを滑らせた。瞬間。嫌な気配を感じた。
――居る。
暗闇の支配下にある室内では、その姿は目視出来ない。
だが、確実に、居る。
本能ががんがんと警鐘を鳴らしている。薄氷が如き温度の汗が背筋を滑り落ちて、呼吸が俄に荒くなる。気配だけでこんなにも精神を乱されるなんて。恐ろしい。しかし、ここで恐怖に任せて目を逸らせば、それこそ最悪の結果を招きかねない。
背けたくて堪らない顔を決死の思いで固定する。まなこの方はいち早く臨戦態勢を整えていたようで、瞬きの数を格段に減らし、じいっと空間を広く見据えている。壁に据えられた電気のスイッチを手探りで当て、一呼吸。早鐘を打つ心臓。来たる衝撃に備えて、ぐっと奥歯を食い縛る。
ぱちり。電気が灯る。
――居た。
ひゅっと喉が鳴るのも宜なるかな窓を覆うカーテンにしがみついた『それ』は明かりを察知したのか警戒若しくは予備動作の為にざわざわとその長い触角を頻りに揺らしている名を思い浮かべるのもおぞましい黒々としてテカテカとしてカサカサとした大抵の人間が本能的に忌避するあの虫だしかも大きい繋ぎ止めていないと気が勝手に遠くにゆきそうになる呪い相手ならば果敢に出ようけれども『これ』は私の手には負えないなのに邂逅してしまったからには背を向けられない目を離した隙に物影に潜まれるなんて事にでもなったらこの部屋の独裁者は今夜から『あれ』になってしまうかと言って怖じけていては追い立てる事も叶わないそもそも生理的に無理では近付けすらしないのだ!如何しろと言うのか!息を詰めて睨み合うだけで此方は精一杯否そんなご立派なものではなく『あれ』の動向に怯えて金縛りに遭っているだけだこの身はもう二進も三進も行かない詰んだ手足の先から徴収された血液が頭に雪崩れ込んで頭痛のみならず耳鳴り迄して来た、その時。
鼓膜の内側に響く甲高い音の間隙を縫って、ノック音が飛び込んで来た。
「おーい、夢子ー。帰って来てんでしょ? DVD貸して。」
次いで、確認の為に扉越しに掛けられた声は、最強の呪術師との呼び声も高い五条悟その人のものだった。
これぞ天の助け! 恐怖に凝っていた感情が紐解かれた事によって、思わず体裁をかなぐり捨てて、泣き喚き叫び出したい衝動に駆られてしまう。しかし、事態は未だ解決していないのだ。
「開いています開いていますから早く如何ぞ……!」
慢心も油断も、生きる上では大敵だ。その中でも今は一番の大敵である『それ』を刺激しないよう、早回しの舌と極々絞った声で入室を促した。邪魔にならぬようにじりじりと脇へとずれて、この状況を何とかしてくれそうなよすがの登場を今か今かと待ち望む。
嗚呼、でも、でも! 彼は最強の名を冠する。『それ』の本能にも働き掛けるだけの圧があったのだろうか。触角の動きが先程よりも随分と激しくなっているような!
「……何してんの。」
「助けてください!!」
無遠慮に開けられたドアから頼みの綱が入って来るのと、救援の妨げにならないよう間仕切りに張り付いた私が腹の底から懇願するのと、『それ』が此方に向かって飛び立つのと。全てが同時であった。
悟さんが何事かと部屋を一瞥する。そして。
――世界が真っ白になった。
「…………えっ…………?」
世界が真っ白になった、と述べたが、これは決して比喩などではない。
視覚は焼かれ、聴覚は閉ざされた。
しかし、それも一瞬の出来事。だから、極度の緊張から来る貧血による立ち眩みだったのだろうと、私は暢気に目蓋を閉じた。それから、瞬きを数度。繰り返してゆく内に、視界はこの時間に相応しい夜色に染まった。鮮やかな光を放つ夏の大三角形が心労を労ってくれる。
美しいなあ。これは明日も憂い一つ無いピーカンだろう。
「…………っと…………?」
何故、室内で広々とした夜空が望めるのか。
答え。部屋が奇麗さっぱり吹っ飛んでいたから。
「――はあァッ!!?」
「ごめんごめん。悟うっかり。」
てへぺろ、と言うのだったか。某菓子メーカーのマスコットキャラクターの様に舌を出して頭を小突くと言うお茶目な仕草をしてはいるが、身長百九十センチを超す大人がやっても可愛くない所か空おそろしいだけだった。
丸で不可視の巨大生物にひと飲みされでもしたかの様な、私の部屋、だった場所。在った筈の全てが消失した中で、辛うじて難を逃れた間仕切りと一緒に立ち尽くす。
随分と風通しが良くなったものだ、と的外れな感想を抱いた。足下から吹き上がって来る風は不愉快に生温いのに、暑さによる汗なのか、冷や汗なのか、脂汗なのか、よくわからない水分で湿った身体をいやに冷やしてくれる。序でに、切り岸に立っていると気付かせてくれた事で肝も冷やしてくれた。
「いや、これは――、」
余りにもキャパシティを超えている。
目の前に広がる現実味の無い現実と言う名の虚空と、何分か前の過去には確かに在った筈の部屋。二つの擦り合わせにあっぷあっぷしている頭は使い物にならなかった。手持ち無沙汰の自我が出来る事と言えば、自室であった空間と悟さんとの間で眸子を何度も往復させるくらいである。
その時に意図せず、無意識の内に漏らした台詞であったが、それを理由を尋ねるものと受け取ったのだろう。あっけらかんと口にされた答えは、茫然自失となった私の頭を気付けるには十二分の規格であった。
「僕ってナウでヤングなシティボーイだからさぁ、虫とかちょーっと触りたくないんだよね。」
「いやいや!? 切り付けるならば部屋じゃあなくてアスファルトにしてくれないと!?」
「何その愉快な間違い。動揺し過ぎでしょ。」
「他人の過剰防衛で自分の部屋が消えればこんなものでは!?」
言葉にすると、引いていた波が押し寄せる様に大きな衝撃に襲われた。
他の寮生達から離れた角部屋の住まいで良かった。だからこそ『あれ』が出ても簡単に助けを求めにゆけなかったのだが、この弩級の術式を前に、他方に迷惑を掛けずに済んだのだ。この人の事だから、この辺りは私の部屋以外は空室だと計算に入れた上での「うっかり」であった迄ある。だが、おぞましき『あれ』は退治され、被害は私の部屋が蒸発するのみと言う最小限にとどめられた。それはなんと僥倖な――訳があるか!こちとら私物も丸っと含めて安息の地が失われたんだぞ!?
「如何するんですか、これから!私は!」と詰め寄ると、何某か考える素振りを見せた後、「暫く女子会でもやって来なよ。」と軽く提案された。三発くらい殴っても許されるだろうか。許されるだろう。
当たるかもわからないとしても拳を固めずにはいられない、その最中。遠くの騒めきを鼓膜が捉えた。何事だろうかと、部屋であったこの場所に人が集まって来る兆しだ。
部屋一つ容易く破壊する術式だ。静かな夜を割る轟音がして然るべきだろう。
――よくよく思いを巡らせれば、悟さんが術式を繰り出した時に、私は気楽にも傍らで目を閉じた。しかし、実際はそうではなく、余波を受けた事で短時間だけ失神していたのやも知れない。
そんな埓外に強力な術式で一匹の虫を他人の部屋毎消し飛ばした男は、流石にヤバいと思ったのか、そそくさと立ち去ろうとする雰囲気を醸し出し始めた。私がそれを感じ取ると同時に、その長身が転身する。逃すか!
跡形も無い部屋の恨みも込めて、渾身の力で黒衣を掴む。水を掴む様に触れられずにするりと逃げられるかと思ったが、掌に布地の質感を得られた。用心深く、捉えた裾を更に握り締める。
「大目に見れば助けて頂きましたから、弁護はします。」
「……用事思い出したから後はよろしく!」
「いい大人でしょう!? ちゃんと責任取って行ってください!」
問答で引き留める事、数分。
前言の通りに私が口を挟む余地は無く、騒ぎを聞き付けた怒りの夜蛾学長から出会い頭にバック・ドロップを極められる悟さんの姿が、そこにはあった。
それを眺めながら、思う。
『あれ』も大概だが、げに恐ろしきは力を奮うのに躊躇いが無い者だと。
後日談。
翌日には新しい部屋を宛がわれたのだが、その日の内に悟さんに外へと連れ出され、本屋、服屋、家具屋と、目が回る程に様々な店を梯子する事になった。そうして、失われた調度品、他諸々は叶う限り新調された。代金は全て悟さん持ちで、だ。あの時に考える素振りを見せていたのは、詰まりはこう言う事だったようである。まあ、夜蛾学長からこっぴどく言い聞かせられた可能性も有るが、大人しく聞いていると言う事は、大事を仕出かしたと言う自覚は持っているのだろう。一応は助けてくれて、そして責任を果たしてくれた。今回の大惨事は水に流せる範疇だ。
さて。次が無いように、学校内、寮内と、あらゆる場所に『あれ』避けの薬剤を設置する事で、この話を締め括らせて頂くとしよう。
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