短編小説(2庫目)

 夢を見る。
 あの人が生きていた頃の夢。
 夢かどうかもわからない夢。

 あの人が生きていた頃はもっと生活もましだった、ような気がする。
 本当はどうかわからない。今の私が調子を崩してしまって、結果的にそう思えるだけかもしれない。けれどそれはあの人が死んでしまったからで、あの人のいない人生なんて、と言うまではいかないが、あの人のいない現実世界がやや色褪せているのは本当のこと。



「先生、また寝てるんですか」
「……ああ、某くんですか」
「寝てばかりいると身体が弱りますよ。時々は起きて活動しないと」
「そうは言ってもね。こんな世界じゃあ寝るくらいしか娯楽がないでしょう」
「……疫病が蔓延しているから、ですか」
「いえ。それもありますが」
「あの人が死んだからですか」
「……」
 私は俯く。
「死んだ人のことを想ったって生き返るわけじゃないんだから、いい加減にしなきゃあ……」
「わかっちゃいるんですけどね。でも……なんだか」
「…………」
 某くんは眉間に皺を寄せた。
「俺が支えますよ。それじゃだめなんですか」
「いやあもう、某くんには頼りっきりで……悪いと思ってます。けど某くんもいい加減にしておかないと、前途ある若者の未来を私が縛るわけには……」
「いいんですよ、俺が好きでやってるんですから」
 某くんはそっぽを向く。
 機嫌を損ねてしまっただろうか。
 しかし、このご時世、私のような者のところに毎日訪ねてきてくれてあれこれと世話を焼いてくれるのはありがたいことだ。
 私ももう少ししっかりできればよいのだが。
「ありがとう、某くん」
「いえ」



 夢を見る。あの人が生きていた頃の夢。
 あの人が生きていた頃、庭で羽根つきをしたり、縁側であの人と某くんと三人、お茶を飲んだりしたっけ。
 空は青くて、雲がぽかりと浮いていて、ああ天国というものはこのようなものなのだと、思うのは後になってからだけど。
 夢の中のあの人が言う。
『なあお前、本当にそれでいいのか』
「それで、とはどういうことですか?」
『俺のことなんか忘れてしまって、好きに生きたらいいじゃないか』
「そんなこと、できませんよ。あなたは私の……」
『すべて、だった?』
「わかってるんじゃないですか」
『だって俺はお前だからな。なんでもわかるよ、お前のことなら』
「……あなたは私」
『そうだろう、夢の中なんだから』
「そんなことを言わないでください」
『そう言われてもな……。お前がこんな状態なのに俺はどうしてやることもできない。歯がゆいよ。俺がお前自身だとしてもな』
「……」
『どうすればお前は俺を忘れてくれるのだろうか』
「あなたが生きてさえくれれば、忘れますよ」
『それは無理だ』
「どうしてですか」
『一度死んだものは生き返らない』
「…………そう、ですね」



「先生、また寝てたんですか……そんなに寝てると背中に根っこが生えちゃいますよ。ほら、起きて」
「某くん、私まだ眠いんですが……」
「もう夕方ですよ。ご飯持ってきたんで、食べてください」
「ああ、ありがとう……起きます」
 私はごろんとうつ伏せになる。
「先生……起きるって言ってまた寝てるじゃないですか。しっかりしてください」
「わかってるよ……」
 うつ伏せのままもごもごと答える私。
「某くんは厳しいねえ」
「甘やかしてほしいんですか? あの人みたいに?」
「……」
「俺はあの人じゃないから、あの人みたいにはなれない。残念ですけどね」
「そう……ごめんね」
「いえ……あいつ。まだ先生を縛ってるんですね、あんなに……したのに」
「え?」
 某くんは茶碗にご飯をよそっている。
 聞き間違いだろうか。
「さて……起きるか……」
 私はのそりと上体を起こし、座卓のところまで這って行く。
「そうそう、起きて、食べてください。食べないと生きられませんからね」
「……生きなくてもいいのに」
「先生、そんなことを言わないでください。先生がいないと俺は……」
「君は?」
「………」
 某くんは俯いてしまう。
 傷つけてしまっただろうか。
「ごめんね、某くん」
「謝らないでください、先生……謝るぐらいなら食べてください」
「そうだね……ありがとう。いただきます」
 そして私は夕食を食べた。



 夢を見る。
 あの人が生きていた頃の夢。
 これは本当に夢なのだろうか? 本当はこちらの方が現実ということはないだろうか?
『残念ながら、こちらの方が夢だぞ』
「そう……わかってはいるんですけどね」
『あまり浸ると抜け出せなくなる。いい加減にしておかないと』
「あなたのいない現実とあなたのいる夢ならあなたのいる夢の方がいいに決まってるじゃないですか」
『………』
「どうして死んでしまったのですか。私に断りもなく」
『そう言われてもなあ……』
 あの人は頭をかく。
『だがまあ……そんな俺がお前にしっかりしろなんていうのは残酷か……』
 手を下ろし、困ったように笑うあの人。
「ここにいてくれるだけでそれは私にとって救いなんです。いなくならないでくれるだけで私は……それ以外は何を言われても構わないから」
『……』
 あの人がふと、真顔になる。
『あの男には気をつけろ』
「……え?」

 風が吹く。
 風景が薄れて、



「……! 先生!」
「あ……某くん。どうしましたか?」
「どうしましたか、じゃないですよ……もう夜中なのに目を覚まさないから……」
「心配をかけたようで、すみません」
「やめてくださいよ、こういうのは……心臓に悪いです」
「あはは、すみません……」
「先生が眠り続けるのにはもう慣れましたけど、目覚めなくなるのはさすがに勘弁ですからね……」
「……この世界にはあの人がいませんから」
「……?」
「夢の世界にはあの人がいるんです。だから……目覚めなくなっても、私は……」
「……あいつ」
 某くんの目元に影が落ちる。
「あんな状態にしたのに飽き足らず……あなたを連れて行こうとするんですね」
「……某くん?」
「あいつが先生を連れて行くよりも先に……俺の方が連れて行ってしまうのはどうでしょう、先生」
 ゆらり。
 某くんの影が揺れる。
『あの男には気をつけろ』
 あの人の声がこだまする。
 そんな馬鹿な。某くんはいい人で、あの人がいなくなった後ずっと私の世話をしてくれて。そんな某くんが私のことを……するはずがない。
「……!」
 飛びかかってくる某くん。その手には先ほどまで夕食を作っていたはずの包丁。
「何をするんです、やめてください」
「今さらやめるだなんて、先生。一人殺すも二人殺すも同じだというのに」
「某くん……まさか」
「生きてるときから気に食わない奴だったんですよ……ぽっと出の脇役のくせに、俺の方が長く先生と一緒にいるのに、先生の全てを持っていって大きな顔をして。何様のつもりだったんですかねえ……? しかもあんなに刺したのに夢の中でまで先生を縛ろうとするなんて……」
「某くん、あの人を殺したのは……」
「あは、そうです。俺ですよ」
 にや、と笑い包丁を振りかぶる某くん。
 そこからはもう、わからない。



 目が覚める。
 床には血を流して倒れている某くん。
 振り返ると、あの人が立っている。
『大丈夫か?』
「ああ……来てくれたんですね」
 私はゆらりと立ち上がる。
 長く伏せっていたため体力は落ちているが、大丈夫。あの人がいるのだから。
「さあ、行きましょう……こんな家に用はありません。私はあなたと一緒に新たな思い出を作るのだから」
『……』
 あの人は悲しそうな顔で目を伏せる。
 どうしてだろう? あの人が戻ってきてくれて、こんなに嬉しいことはないのに。
「おかえりなさい。そして、これからもよろしくお願いします」
 あの人は小さな声でああ、と呟いた。
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