短編小説(2庫目)

 鉛筆を削れない人間が鉛筆を削っている。

 新しい鉛筆の下部十分の一ほどのところにカッターナイフを入れ、斜め下に削り落とす。
 この瞬間が俺は嫌いだ。
 削って削って芯まで辿り着いたとき、ナイフは芯の黒鉛に触れてざりざりという音をたて、黒いくずがざりりと落ちる。
 それが嫌いで嫌いでたまらない。
 黒鉛のくずは細かくて、肺に入るときっと病気になる。そんなことはどうでもいいが、黒鉛を削るときのあの感触。ナイフから手に伝わってくる、固いけれども軟らかいものを削ったときの、一気に削れるけれど途中で引っかかってざぎざぎになる、嫌な音をたててナイフを黒く染めるあの感触。細かい粉が紙に散るさま。
 そこに何もかもが詰まっている。

 あの日、あのとき、あの時代、一人何もすることがなく、何一つ取り柄もなく、始終具合が悪く、眠く、夏は強すぎる日差しに照らされ、冬は身を切る寒さに耐えて、視界は真っ暗になる。
 否応なく意識を奪う睡魔。それに伴ってついていけなくなる進度。叱責。怠惰。そんなことで絶望してしまう自分。
 家に帰れば疲れ切って何もできずに机に突っ伏して眠っている。終わらない課題。
 何もできないまま深夜になって、目を開けて天井を見ながら何もかもが終わっていないことを思って目を閉じる。
 明日なんて来なければいい。そう思っているのは昔も今も同じ。
 「明日」とは絶望だ。前日必死で課題を終わらせても次の日になるとまた増える。
 増える。
 明日なんて来なければいい。
 本当に?

 鉛筆を削っている。敷いた紙の上に黒鉛が飛び散って、黒い線香花火のようで。
 嫌だ、と思う。何が嫌なのかはわからない。そもそも俺はどうして鉛筆なんか削っているのだっけ?
 ああ、確か、鉛筆が幻覚に出てきて、ぐるぐる回るから、鉛筆を削れない若者が増えているという誰かの意見に抗議しようとぐるぐる回るから、俺は鉛筆を削り始めたんだっけ?
 わからない。
 俺は鉛筆を削ることができない。鉛筆を削るのは苦手だし、鉛筆は鉛筆削り機に削らせておけばいいと思っている。そもそも座学するのに鉛筆なんて必要か? せいぜい絵を描くときぐらいしか使わないんじゃないか、鉛筆なんて。
 ならばなぜ鉛筆を削っている?
 回っているから削っている。
 遠くからチャイムの音が聞こえて、小さく震える。
 そうだ、あんなものはとうに去った、昔の遠いただの思い出じゃないか。
 そんなものにいつまでも怯えて俺は馬鹿みたいだ。
 だけど今でも明日は来なければいいと思うし、強すぎる睡魔は意識を奪っていくし、一日の大半を寝て過ごしているし?
 周囲に人がいなくなっただけで、俺はあの時から何も変わってはいないのかもしれない。
 ……考えているうちに鉛筆は仕上がっていた。
 先の方が少ししか尖っていない、削れている部分が極端に短い鉛筆。
 敷いていた紙を丸め、ゴミ箱に捨てる。
 思い出したくもないことを思い出してしまう、それだってゴミのようなものだと思う。
 どうでもいいんだ、こんな鉛筆なんかは。幻覚だって勝手に踊っていればいい。何か言う奴は好きに言えばいい。
 けれどそう思えないからこそ俺は鉛筆なんか削ったんだろう。馬鹿みたいだ。
 何もかも全てを引き出しの奥底にしまい込み、何もかも全てを見なかったことにした。
 俺は何も思い出さなかった。
 それで終わり。
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