短編小説(2庫目)

 どうせ世界は滅んでいるんだ。
 何もする気が起こらないって言ったか?
 言った。で、言ったのは俺だ。
 言っているのは俺自身、しかもそれは声に出さない脳内言語だったのだが、ぽつりとこぼしたそれはあまりにも切実で、しかしながら俺はそれを、自分で言ったとは思っておらず。
 俺の中の他人が言ったんだろ?
 待てよ、俺の中の他人って何だろう。自分の中に他人がいるなんてことがあるか、普通?
 ないよな。
 じゃあ今「何もする気が起こらない」と言ったのは誰なんだ?
 そんなの俺自身に決まってるだろう。俺は一人しかいない、従って、何もする気が起こらない、と言ったのも俺しかいない。わかっているのにわからない。わからないふりをしている、いや、受け入れられないのか。
 何もする気が起こらないというのは罪悪だ。誰にとっての? ……世間にとっての。それもただの世間じゃない、俺の中にある妄想の「世間」だ。それを、こっちはわかっているふりをしながらわからないでいる。複雑なんだ、認識というものは。
 ここで説明しておくが俺の認識はつぎはぎのめちゃくちゃで、筋の通ったことがない。わかっているふりをするのはよくないなんて言いながらわからないふりをするのはよくないとも言うし、両者は双方同時成立しうると言いながら己には厳しく他者には寛容でいる。
 己を尊重できない奴は他者のことも尊重できない。はい、まあそうなんでしょうね。でも尊重っていったい何だ? 受け入れることか? 卑屈になってへりくだることか? わからない。わからないし、考えれば考えるほどもっとわからなくなっていく。前述の通り、俺の認識はつぎはぎのめちゃくちゃなので。
 つぎはぎのめちゃくちゃでも問題なく生きていけるならよかった、けどな、残念ながらドロップアウトしているんだな。困ったことに。ただ幸運なのか不幸なのかわからないが俺がドロップアウトしている間に世界の方も滅んでしまったんだから笑えない。笑える? いや、徹頭徹尾笑えない。なぜなら世界が可哀想だからだ。
 外に人間はいないし、中には透明なゼリー状の生命体がいるだけ。意思疎通はできない、うるさい音をたてるだけ。
 だがそんなことはどうでもいい。問題は俺が俺を認められなくなって認識がめちゃくちゃになっていることなんだ。
 病気だって? そうかもしれない。だが滅んだ世界に医者はない。何もかもがいつの間にか消えてしまったんだからな。
 外に出ても白い荒野があるだけ。人間はいない、建物もない、植物もない、動物もいない。残念だったな。……誰が残念なんだ? 俺か? それとも俺の中の他人か? もしくは世間か? わからない。めちゃくちゃだって言ったろ。その辺りもめちゃくちゃになってるんだ、許してくれ。
 誰に許しを請うているんだ? 透明なゼリー状の生命体か?
 透明なゼリー状の生命体はもはや生命ではない。生命体だが生命ではない、知的生命体でない。ただの……何だろうか、だがそれもきっと過去を見るなら俺の■■だったのだから、そんなことを言ってしまうのは残酷だ。そう思うか?
 わからない。わからないから曖昧にする、問題を埋めてしまう。白い荒野に放り出して埋めて、見なかったことに。
 そうやって埋めたからこんなにぐちゃぐちゃになってしまったのだろうか。何がって、俺の認識と思考が。
 わからない。どうせそれも病なんだろう。と、散らかり放題の頭の中でぐるぐる回す。回しても回しても答えなんか出ない。わかりきってる、けど、それしかやれることがないからそれをする。
 他にやることがあるだろって? 残念ながら、またこれは誰に向けて言ってるのかわからないがまあ残念ながら、「何もする気が起こらない」ので何もできない。何にもならない思考をぐるぐると回し続けて落ち込むことしか。
 落ち込むって?
 俺が言った。俺の中の他人ではなく俺自身が言ったことだし、落ち込むのは俺の中の他人ではなく俺自身、そうだ。認めればいいのはわかってる。俺は知っている、病気にかかると己と己が引き離されてばらばらになる、だから俺はつぎはぎなんだろう、知っている……だけど知らない。知らないことになっている、自分でそれを知っている奴は病気じゃないから。
 本当に?
 狂気の人間は己を狂気だと思わない。ゆえに俺は正常である。
 そんなことを誰が言うんだ、そんなことを誰が決めたんだ?
 決まっている、きっと世間だ。決まっている。
 眉間に皺を寄せる。視界の端には透明なゼリー状の生命体がふよふよ浮いている……懸命に目を逸らす。
 でもだぜ、本当は世界は滅んでなんかなくて、ここにいるのも透明なゼリー状の生命体なんかじゃなくて、ただ俺の頭がおかしくなっただけってオチだったらどうする?
 仮に俺の見ているこれが幻覚で、わかっているのにわからないふりをしているのか、わからないのにわかったふりをしているのかのどちらかだとして、しかし実はこの幻覚自体が真実であり、世界は滅んでなんかないという疑念の方がまやかしという可能性もある。
 そもそも自分の見ているもののうち何が幻覚で何が真実なのかちゃんとわかってるやつなんかいるのか?
 そんなやつなんかいないと言うこともできるし、否、正常な人間は何が幻覚で何が真実かをきちんとわかっているものだ、と言うこともできる。どうせそれぞれ頭の中ではそれぞれ確からしい「真実」を見ているのだし、俺の提示した疑問の答えだってそれぞれの中でそれぞれ違うのだ。幻覚と真実の区別をつけられる人間などいない、も、正常な人間なら皆わかっている、も、どちらも真実であり……しかし世界は滅んでしまい、俺は自分のそれを比較できる他者を失ってしまった。
 ならば一体何が「本物の真実」であるのか?
 そこまで書いて、ペンを手から離す……これが何によって書かれているのかって俺はこれをアナログ、書きにくいボールペンで書いていたのだ。そうだ、頑張った。
 そして手から離れたペンは空中をふよふよと漂い、それが何を示すのかということはまあ。
 わからないふりをしておこう。
 そんな世界。
 だった。
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