長編『亀のゾンビサバイバルログ』(全26話番外編3話、完結済)

 暗い目をした男の話によると、北の山の麓に避難民の集まる町があるらしい。
 とりあえず北の山の方へ向かおうと決めて、僕は北門から外へ出、財布の中からシルバーコンパス――プラスチック製の薄くて軽く、首から下げられるようなコンパスで、授業でたまに使うためいつも財布の中に入れていた――を取り出し、山の方角を確認してから歩き出した。
 しかし、いくらもいかないうちに問題が出てきた。坂を上ったり下りたりしながら山へ向かううちに、アパートの二階から見えた街が近くなってきたのである。そう、煙が上がっている街だ。
 あの街は絶対にやばい。行ったら戦火に巻き込まれる気がする。なんとか避けて通りたい。しかし、僕はその街には電車で行ったことしかなく、周辺の地理にあまり詳しくないため、迂回する道がわからない。
 地図が必要だ。できれば北の山まで乗っている地図が。
 僕はバス通りまで戻り、一本向こうの筋の本屋に寄ってみることにした。

 本屋は例によってガラスが割られており、本棚は空、床は本で埋め尽くされていた。
 この中から地図を探すのか、と気が遠くなったが、唐突に考えが降ってきた。
 地図なら車を探せばあるんじゃないか? 壊れた車ならここに来るまでに結構見たし、数を当たれば見つかるだろう。我ながら名案だ。
 僕は本屋の外に出た。おあつらえ向きに、斜め向かいの民家……というか、廃屋らしき家の庭に、壊れた車が停まっていた。
 車道を斜め横断し、車のところまで行く。
 運転席の窓ガラスが割れていたので近付いて中を覗き込んでいると、
「何してるの?」
 突然声がしたので僕はびくっと震えた。反射的に車の中を探したが、誰もいない。
 声からして、子供だろうか。上の方から聞こえたような。
 見上げてみると、廃屋の二階の窓から中学生くらいの少女が顔を出していた。
「この家に住んで……らっしゃるんですか?」
 訊くと、少女は頷く。
「すみません、勝手に車を覗いたりして」
「いいよ。みんなやってるし」
 家に人がいるのにみんなやっているのか。僕も声をかけられなければ廃屋だと思っていたし、仕方ないのか……?
 頭に疑問を浮かべていると、少女が窓から身を乗り出して、何かを言いかけた。
「ねえ、お兄さんは、」
「危ないですよ」
 僕は咄嗟に注意してしまう。が、すぐに、うるさい奴だと思われたかもしれないと心配になった。
「落ちそうだったので」
「あー。大丈夫だよ。それより、お兄さんは亀?」
「え? そうですが……」
 ひょっとしてこの子は亀が嫌いなんだろうか。僕は少し不安になった。
「見て見て」
 少女はこちらに背中を向けて見せた。日光にキラリと反射したそれは、少し小さめの甲羅型リュックだった。
「あ……これはどうも」
 僕は頭を下げる。
「ご同輩に出会ったのは始めてです」
「うふふ」
 少女は小さく笑った。
「上がってけば? 本か何か探してるんでしょ? うちに本いっぱいあるよ」
「え、どうして探してるってわかるんですか?」
「歩いてくるお兄さんを見てたんだよ。最初から本屋を目指して来てたみたいだったから」
「ああ、その窓から見て? 全然気付きませんでした」
「ほら、入って入って」
「わかりました。では、失礼して」
 半壊しているドアを慎重に開ける。ぎぎい、という音がした。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。私の部屋は二階だから、上がってきて」
 家の壁には穴が空いていたり、携帯食料の箱が床に散らばっていたりしたが、階段は無事だった。少女はきっと、普段二階で過ごしているのだろう。
 きしむ階段を慎重に上がる。壁には写真が貼られていたが、どれも破れたり剥がれたりしていた。
「上がったら一番手前の部屋だから」
「了解です」
 一番手前の部屋の扉には木で作られた表札がかけてあった。
『×××の部屋』
 傷だらけで読むことができない。
「……失礼します」
 深呼吸してから部屋のドアを開けると、少女は甲羅型リュックを膝に置いた状態でベッドに腰掛けていた。
「わーいお客さんだ。あ、ドアは開けたままでいいから。ここに亀仲間が来るのは初めてなんだ。嬉しいなあ」
 少女は足をぱたぱたさせる。そんなに喜んでくれるとは。来てよかった。
「本は書斎にあるから一緒に行こ。私の甲羅、持ってくれる?」
「甲羅を?」
「うん。重いから」
 大事な甲羅を見知らぬ他人である僕に預けるとは、人を簡単に信頼しすぎなのではないか。
 まあ、同じ亀同士だからかもしれないし、こちらは案内される立場だし、僕自身、甲羅を持つのが絶対嫌というわけではないからいいか。
「よいしょ」
 僕は少女の甲羅型リュックを持ち上げた。
「こっちこっち。来て」
 少女は開きっ放しのドアから廊下に出て、一番奥のこれまた開きっ放しのドアに入った。僕も後からドアをくぐる。
「おおすごい」
 そこは書斎だった。色々な本や書類が壁一面に並んでいる。
「お兄さんが探してるのはどんな本?」
「地図です。ここにあったらいいんだけど……」
「この辺の地図を探してるの?」
「ええ。この辺りから北の山まで乗ってる地図です」
「うーん、どこらへんにあるのかはわかんないけど、一緒に探してあげるね。お兄さんは右側探して。私は左探すから」
 そう言うが早いか、少女は左側の本棚の側にしゃがみ込み、背表紙を追い始めた。
「ありがとう」
 僕はお礼を言うと、さっそく右側の本棚に手を付けた。

 探していくうちにわかったのだが、この本棚に並んでいる本はサイズこそ揃えられているもののジャンルは統一されていなかった。
 書斎の主は本を集めはするが読まない人なのだろうか。
「この部屋って誰の部屋なんですか?」
「お父さんのだよー」
「ここを探すのにお父さんの許可は取らなくていいんですか?」
「うん。いなくなっちゃったからね、お父さん。お母さんも」
 少女は後ろを向いたまま答えた。
「すみません……」
 余計なことを尋ねてしまった、と僕は後悔した。
 少女は軽い調子で言葉を続ける。
「ある朝起きたらいなくなってたんだ。でも、お父さんもお母さんも亀じゃなかったし、あんまり悲しくなかったよ」
「そうなんですか……」
「ただ、私が邪魔でいなくなっちゃったのかなとは思った。私だけ亀だったからかな。お父さんもお母さんも、いつも私を仲間はずれにしてたし」
 仲間はずれ、か。
「……亀だと仲間はずれにされますよね。僕もそうだったから」
「お兄さんのお父さんとお母さんは亀じゃなかったの?」
「僕の両親は……」
 とっさに自分の両親のことを思い浮かべようとしたが、出てきたのは甲羅を背負った姿だった。
 おかしい。父さんも母さんも甲羅型リュックなんか持っていなかったはずだ。
 僕は懸命に甲羅なしの両親の姿を思い出そうとしたが、無理だった。
 自分が亀であるということと同じくらい、自分の両親も亀であるということが確からしく感じられた。
「亀だったかもしれない……でも、人間だったかも……数年離れて暮らしただけでこんなわからなくなるものなんですね」
「あるある。私も小学校の友達の記憶とか曖昧だし、しょうがないよ。まあ、中学の友達はみんな亀だったけど」
 そこから話は少女の中学の友人たちのことに移った。僕はなんだかほっとして、地図を探しながら少女のおしゃべりを聞いていた。
 本の数は膨大で、地図はなかなか見つからなかった。
 部屋に西日が刺し始めた頃、
「あったよ!」
 少女が叫んだ。僕は顔を上げる。
「どこです?」
「そこの右上! 私届かないからお兄さん取って!」
「どれどれ」
 少女が指さした方を見ると、確かにあった。この地方の地図だ。
「よいしょっと」
 背伸びして地図を取る。ページを開くと埃が舞って、くしゃみが出た。
「お兄さん大丈夫?」
「大丈夫、ちょっと埃が入っただけです」
 ぱらぱらとページをめくる。中ほどのページにここ周辺の地図があった。追ってめくると、地図のエリアは北の山周辺に移っていった。
「おお、これだ。間違いないです」
「よかったー!」
 少女はぴょんとジャンプした後に窓の方を向いて、あ、と言った。
「もう夕方なんだね。暗くなっちゃうから、うちに泊まっていっていいよ」
「本当ですか、ありがたい」
「私の部屋の隣が寝室だから」
 たぶん、ご両親の寝室だろう。一緒に寝るなんてことにならなくてよかった。仲良くなったとはいえ、僕も自分の家族以外の人と一緒の寝具で寝たことはないし。
「私の甲羅を私の部屋に運んでくれたら、後は好きにしていいよー」
 僕は余計な考えを頭から振り払った。
「もちろん運びますよ。そのくらいは喜んで」
 そして、机の上に置いていた少女の甲羅型リュックを持ち上げた。

 少女の隣の部屋は少し荒れていたが、ベッドは広くて快適だった。僕は日が暮れるまで地図を見続け、明日向かう方角を確かめた。

◆◆◆

 次の日。旅の緊張からか、割りと早めに目が覚めた。
 廊下に出て少女の部屋に向かう。ドアをノックすると、少女はまだ寝ていたようだった。
「起こしてしまって申し訳ない」
「ううん。眠いからここでお見送りする。お兄さんは出発しなよ」
 ベッドから起き上がりながら、少女が言う。
「そうします」
 しかし、ある考えが僕の頭をよぎった。この荒れ果てた家に保護者不在の少女を一人残して行くのはどうなんだろう。
 一緒に行きませんか、と言いたかったが、少女は幼い。その上、甲羅型リュックすら重く感じるようなか弱さだ。戦闘に巻き込まれたりなんかしたら命を落す危険性がある。しかし、僕も自分の身を守るのが精一杯、というか、戦闘なんかしたことがないからたぶんすごく弱い。そんな僕が少女を連れて行くなんて、危険に飛び込ませるようなものだろう。でも……
「うーん。何を考えてるかだいたいわかるよ。でも、私はここに残るから」
「……」
「気にしないで。私はここが気に入ってるんだ。ここにいればこれ以上悪くなることはないから。他の亀が来てくれたときとかには話もできるし」
「そっか……」
「ほら、行って」
 胸が締め付けられるような思いだったが、何か言うと言い訳になってしまいそうだったので、言葉を飲み込んだ。
 僕は少女に背を向け、階段を下りて、家を出た。
 少女と出会ったあの壊れた車の側から家を見上げると、彼女は窓から手を振っていた。
「またね!」
 その笑顔に曇りはない。
「うん、また……」
 僕は手を振り返してから道の方を向き、振り返らずに角を曲がった。
 歩くたびに、少女の家が遠ざかっていくのがわかる。暗い目をした男のときと同じ、また何かを置いていくような気分になって、僕は思いを振り切るように足を速めた。
 ある程度まで歩いたところで、地図を確認しなければということに思い至った。地方地図はリュックの中だったが、地域の地図は昨日切り取ってポケットに入れてある。僕はそれを出して眺めた。
 今はここだから、スーパーの側を通れば街を迂回できるな。昨日そういう計画を立てたんだった。
 地図をしまいながら踏み出した足が何か硬いものを踏みかけて、慌てて避けた。
「うわっ」
 よく見ると、それはミドリガメの甲羅だった。
「危ない……」
 僕はカメを民家の池でも移してやろうと持ち上げたが、その甲羅は思ったよりも軽かった。中を覗くと、甲羅は空っぽで何も入っていなかった。
 一旦持ち上げてしまったものを道に置き直す気にもなれなかったので、僕はそれを池の横の植え込みの陰にそっと置いてやった。
 そのとき、何らかの考えが浮かんだ気がしたが、捉えようとした瞬間に霧散してしまった。
 まあ、大事なことだったらいずれ思い出すときもくるだろう。僕はシルバーコンパスに目を落とすと、歩き出した。
 カラスが鳴いていた。
3/29ページ
スキ