概念サバンナの今日たち

 よせばいいのに見てしまった。
 何をって、ライオンを。
 複雑だと思っていたライオンの身体の構造は思ったよりも単純で、ただ、不足、不足、不足からできていた。
 ライオンは俺に資源の不足を突きつける。
 このサバンナには資源がない。俺一人しか人間がいないのだから当然で、その俺はただ生命を維持することに精一杯になっているあまり、誰も資源を掘る者がいないという事実。ここにあるのは俺が持ち込んだ資源のみ、他には何もなく、毎日目減りするばかり。
 終わっているのだ。俺の存在もまた。うさぎが死んで全てが変わった……いや、うさぎだけのせいにしてしまうのはうさぎに悪いか。
 常に存在していたライオンと違い、うさぎはかつては生きていた。今はいない。いる可能性がなくなった。いないことがこの世界では「正しい」というよりは「真実」であり、「現実」なのだ。狭間の世界で現実などという話を持ち出すのはどうかとは思うが実際そうなので仕方がない。
 うさぎの死とは違い、ライオンを見てはいけないということは現実というよりは決まり、正しいというよりはライフハックの方に近かったのだなと今になって思う。なぜかって、ライオンによる不安を回したところでサバンナはサバンナ、状況は何も変わらない。それならライオンを見ないまま、目を逸らしたまま眠り続ける方がずっとましというもの。
 ましかどうかはわからない。俺がそんな風に停滞することは死んだうさぎに対しての罪かもしれない。いや、そもそもうさぎを殺したことそれそのものが罪なのだからそんなことを言い出したらきりがない。ゆえにやめておいた方が良いのだ。
 だがしかしそれが罪だとしても、うさぎは俺を許すのだと思う。うさぎは俺ではなかったが、それにもはや力はなく、過ぎた過去に在るのみ。
 許す許さないの話ではなく、俺自身に委ねられているのだ。つまり、俺が許すなら許される、俺が許さないなら許されない。
 簡単な話だ、俺の停滞は許される。このまま再びライオンを忘れて眠り続けることもまた許される。本当にそれをやるかどうかはともかくとして。
 眠っている間にライオンに食べられてしまうのもまあ、悪くはない。
 俺がライオンを忘れたとしても夢の中のライオンは力を増し、夢が悪夢になってゆくのだろうが。
 とことん救われないと思う。どこから歯車が狂ったのだろうか。わからないし、希望を示すこともできない。申し訳ないとは思っている。俺が存在することそのものがもう救いようのない泥沼の存在の証明だからだ。
 泥沼は忌避される、そういう存在。
 排除されたもの、その先でサバンナができているのだろう。精神の終着点。何もない平原……
 だからどうだという話だ。俺が理屈を捏ねたところで誰も救われはしないし、それは俺自身についてもそう。この話はこの辺りでやめておいた方が吉なのかもしれない。
 といっても、俺がいなくなるわけではないし、サバンナがなくなるわけでもない。ライオンを見てしまった俺は狂気という名の正気に落ちるが、しばらくすれば全てまた元通りになるからだ。そういう生き物。喉元過ぎれば熱さを忘れる。全てはジャミングなのだ。
 サバンナに雪が降る。雪が積もったサバンナは正常なのかどうか、わからない。
 うさぎの穴もライオンの身体も全て隠して雪が降る。俺の上にも雪が降る。
 明日は快晴、雪の光は眩しいが、何も照らし出すことはない。
 そこには何もないから。
 「ないことになっている」から。
 そうして明日も眠るのだろう。
 サバンナは快晴。
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