短編小説(2庫目)

「……」
 羊の顔、無機質でさらりとした仮面に触れる。
 白。
 羊の持つ羊毛と同じ、無の色だった。
 羊の毛は白い。「ヒツジ」とは違う。

 俺はヒツジが嫌いだった。
 そもそも動物……その母集団である「生物」が苦手なのだ。この国の清潔すぎる無臭と温度のない風景の中で育った俺は、「生物」という存在に順応することができなかった。
 もちろん、己自身にも。
 自然は清潔じゃなくて、生物もそうだ。生きている限り行われる新陳代謝は身体を汚し、身体構成要素である水もそう。
 感触に耐えられない。肌の上に積層する肌だったもの、常に粘膜に存在する水分、損傷すると染み出す体液、体温調節の汗、水分で曇る吐息。
 感情に耐えられない。向けられる「好き」「嫌い」、好奇、執着、疑念、嫌悪の目。表情、視線、声の温度に肌の感触。叱責、罵倒、説教、諭し、愛の言葉。
 何もかもがノイズになって脳を刺す。
 俺の「世界」はうるさすぎた。
 
 狂っているのだろうか。「普通」の人間はそうではないのだろうか?
 そんな風に悩んだこともあったが、もう過ぎた。
 自分にとっての「現実」を否定したって何にもならない。
 
 生物を受容できなかったからこうなったわけでも、ノイズに疲れたからこうなったわけでもない。
 原因はおそらく複合的であり、俺自身の資質と環境によるものだったのだろう。
 今となってはもう、考えることすら遅いのだ。
 終わってしまったからこそあんな店に「呼ばれた」のだと思う。
 そして、終わってしまったからこそ、俺の隣にはこんな「羊」が存在している。
 それともこれは俺を終わらせないためにいるのだろうか。
 
 さあね。どうでもいい。
 
 羊には新陳代謝がない。その身体に水分が存在しているかもわからない。
 羊は感情を表さない。移動以外の動きはなく、白い仮面は表情を隠す。瞳は虚無の黒い穴。
 決して汚れることなく常に白く、感情もなく。
 それは「生物」としては異常だった。
 この世のものではないのかもしれない、俺はずっと狂っていて、幻覚を見ているのかもしれない。
 だがそれも、どうでもいいことだ。
 羊はここにいる。
 汚れも感情もない羊は決して俺を刺さず、羊に意識を向けることは己への集中を散らすこと。
 好くことも嫌うこともなく、肯定することも否定することもなく、余計な言葉は何も発さずただ「無」のまま、決まった鳴き声一つきりで受容するもの。
 それが何であるのかはそう、何度も言った通り。「どうでもいい」。

 傍にいるのが「楽」だった。
 だから消えずにここにいる。
 
「羊」
「メー」
 温度のない音が応え、空間が埋まる。
 仮面の縁を、つう、となぞる。
 白があった。
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