文披(ふみひらき)31題

 普通に暮らしていると決して解けない謎がこの世にはある。
 謎を解く鍵は神だ。信じていれば幸せになれる。
 しかしこの世には神を信じない不幸な人間がたくさんいる。
 世の中を変えるには行動だ。不幸な人々に神を教え、世界を平和にしてあげよう。
 そう思って、旅に出た。
  
「興味ありません」
「まあまあそう言わず。信じていれば救われるのです。この世界は不幸です。けれど、神を信じさえすれば終末後でも幸せになれるのです」
「ほんと興味ないので、帰ってください」
 切れるインターホン。
 布教活動はうまくいっていたとは言い難く、それでも俺は「いいことをしている」つもりで次々にインターホンを押しまくった。

「神を信じれば幸せになれるんですよ」
「結構です」

「神を信じないと不幸になりますよ」
「帰れ」

「この世界は間違っています、神を」
 無言で切れるインターホン。
 
 なぜ皆神を信じようとしないんだ? 心底疑問に思う。
 信じてさえいれば、どんなことが起こっても不幸ではなくなるのに。
 温かい信徒の皆のことを思い出す。
 俺が布教の旅に出ると言ったとき、皆は感動で泣きながら見送ってくれた。
 迷える子羊が少しでも救われますように。
 そう言って、地区長は俺のために祈ってくれたっけ。
 仲間たちは本当に優しく温かく、この人たちに報いるためにも俺は信徒を増やすのだ。そう思って、めげずにインターホンを押し続けた。
 
 そうしてあるアパートのある部屋にさしかかったとき。
 インターホンを押す。
「こんにちは、あなたは神を信じますか?」
「神? 神ねえ……ふふ。待ってね、今出るから」
 ドアが開かれる。
「お待たせ」
 出てきたのは若い男だった。
 色素の薄い髪に白すぎる肌、目の下に大きなクマがある。きっとこの人はとても不幸で、神を信じないからこんなことになっているのだろう。
 それなら俺がなんとかしてあげないと。神を教えてあげないと。
「あなたは救われたいですか?」
「救い……ね。そんなものが本当にあるなら僕は救われたいけれど」
「大丈夫ですよ。神を信じれば救われます」
「へえ……どんな神?」
「神は我々の前に姿こそ現しませんが、天にいらっしゃっていつも俺たちのことを見てくれているのです」
「ふうん……」
「この世界にはいずれ終末がやってきます。神を信じる者たちだけがその終末を生き残り、天国に行けるのです」
「天国」
 男はおかしそうに笑う。白い犬歯がちらりと見えた。
「いいねえそれは」
「……! これ、パンフレットなんですけど、おひとつどうぞ」
「……ありがとう。ねぇ君……君、今晩泊まるところはあるのかい?」
「えっ……」
 どうして俺が旅をしているとわかったのだろう。
「なに、神を信じていればなんでもわかるさ。これはきっと神の祝福だよ。これ、いいパンフレットだね、今日から私も信徒になるからうちに泊まっていくのはどうだろう」
 信じる。祝福。信徒。なんていいことを言ってくれるのだろう。
 布教を断られ続けていた俺にとって、それはまさしく慈雨だった。
「……ありがとうございます!」
「ふふ。パンフレット、読みながら君に解説してもらおう」
「喜んで!」

 その晩は用意してもらった食事を食べ、男にパンフレットのことや神のことを教えてあげながら寝た。

 次の日。
「もう行ってしまうのかい?」
「はい。まだまだ迷える子羊はたくさんいますから。神のことを教えて、目を開かせてあげないと」
「……君。しばらくここを拠点にして活動するのはどうかな? 僕もまだまだ神のことを勉強したいし、君、教えてくれよ」
「……!」
 こんな熱心な子羊に出会ったのは初めてだ。感動で涙が出てくる。
 お願いを断るわけがない。
 俺は喜んで、
「はい!」
 と答えた。
 
 次の日もその次の日も、男は神についての話を聞きたがった。
 それに応えて俺はたくさん神についての話をした。
 こんな風に誰かに話を聞いてもらったのは初めてだ。信徒の皆は何にでも結論を出したがったが、この男は俺がどんなに喋っても嫌な顔ひとつせず、柔和に笑って相槌を打っていた。
「神、聞けば聞くほど素敵だねぇ。天国に行けるものなら行きたいよ」
「終末の後ですからね。でも、あなたほど熱心な方ならきっと神様も喜んで、天国に導いてくれるでしょう」
「ふふ……そうかな。もしそうなら、嬉しいねぇ」
「あなたなら大丈夫ですよ。……正式な信徒になるなら、洗礼を受ける必要がありますが」
「洗礼?」
「水を頭からかけるんです」
「へえ……夏にはよさそうだね。君、やってくれよ」
 男は俺に顔を近づける。首元はすらりと白い。
 本当に熱心な人だ。きっと優秀な信徒になるだろう。でも、
「俺はまだその資格持ってないんで、本部に行かないと無理ですね」
「本部はどこにあるんだい?」
「ええと……ここからだとだいぶ遠いですね」
「君はその本部からやってきたのかな?」
「ええ、そうです。布教の旅をしていて……」
「旅は順調?」
「…………」
 順調です、と答えたかったのに、何かが俺の言葉を阻んだ。
「信徒は増えそうかな?」
「……わかりません」
「君にもわからないことはあるんだねぇ」
「神は全知全能ですが、俺は何も知らないしもべなので」
「へぇ……」
 男は目を細める。
「ねぇ君……君は神を信じているよね」
「もちろんです」
 俺は頷く。
「神はいつも見守ってくださっている」
「ええ」
「きっとこの部屋も見てくださっているだろうね」
 男は首を傾げる。白い肌。
「ねえ君……」
「……」
「何か、欲しいものはないかい?」
「ほ、欲しいもの……ですか」
「僕は信徒だから、布教活動をしている君のことは全力で応援したいと思っているんだ。僕に何か捧げさせておくれよ」
「ええと……」
 どうすればいいのかわからなくなって、俺は下を向いた。
「何でもいいよ。新しい寝袋でも、なんなら■の■■でも」
「え……?」
 言葉が一部聞き取れなくて、俺は聞き返す。
 男の表情はいつもの柔和な笑み。
 肌が白い。
 この人は、普段外に出ることがあるのだろうか?
 荷物はいつも宅配便で来るし、食材もネットスーパーで購入しているようだ。
「あの……■■さん」
「なんだい」
「一緒に散歩がしたいです」
「へえ? 君は……思ったより無欲なんだね」
「神のしもべである以上、個人的な欲を持ってはいけませんから」
「ふうん……敬虔だね、君は」
「それで、散歩は……」
「夜ならいいよ。最近、昼は暑すぎるだろう? 倒れたりしたら危険だからね」
「ありがとうございます」
「ふふ……それまで神の話を聞かせてくれ」
「はい!」

 俺は男に神の話をした。たくさんたくさん神の話をした。
 そして夜。新月の日。
「準備はできたかな、君」
「大丈夫です!」
「じゃあ、行こうか」
 男と俺はアパートの小さな部屋を出た。

 夜道。
 虫の鳴く声。
「夜でもやっぱり暑いねえ」
「そうですね。……こんなに暑いのに、虫は鳴くんですね」
「虫は神を信じないからね。でもきっと、虫も一生懸命に鳴いていると思うよ」
「虫は救われるんでしょうか」
「……どうだろうね」
「森羅万象全ての生き物が救われればいいのに」
「君はそう思うんだ?」
「ええ。だって、できるだけ多くの生き物が救われた方がいいじゃないですか。そうすれば天国も寂しくなくなるし」
「天国が、寂しい?」
「選ばれた人たちだけが天国に行けるんなら、そこはきっと……人が少なくて寂しいんじゃないかって思うんです」
「…………」
「俺は……神をもっと多くの人に広めたい。天国が寂しい場所ではなくなるように」
「ふうん……」
 俺と男は並んで歩いている。
 暗いから、表情は見えない。
 歩くうちに、河川敷に差し掛かった。
「川ですね……」
「川は好き?」
「いえ、好きとか嫌いとか、そういうものじゃない気がします」
「じゃあ、どう思ってる?」
「夜の河川敷はちょっと怖いですね。でも」
「でも?」
「あなたと一緒なら……そんなに怖くない気がします」
「ふふ」
 笑った気配がする。
 男が俺に近づく。吐息が首元にかかる。
「ねえ、君」
 少し高い、テノールの声。
「ずっと一緒にいられればいいのにね」
「……■■さん?」
 刹那、意識が落ちた。



 気が付くと俺は河川敷に寝転がっていて、太陽が昇っていた。
 あの人は? と見回すが、気配はない。
「…………」
 とりあえず、あのアパートに帰ることにした。
 部屋の前。インターホンを押すが、返事はない。
 ポケットがちゃり、という音をたてる。
 何だろうと手を突っ込むと、鍵が入っていた。
 たぶんこの部屋の鍵だろうな、という確信があった。
 鍵を開けて、中に入る。

 部屋はもぬけの空だった。
 家具一つなく、俺の荷物だけが中央に置いてある。
 財布は、と探ると、中身が大きく増えていた。
「……?」
 あの人が入れてくれたのだろうか。
「■■さん、」
 当然、返事はない。
 そもそもあれは本当に現実だったのだろうか。
 スマートフォンの時計を見る。
 ここで過ごした分だけ時は経っていた。
 時間経過だけが嘘でないことを教えてくる。
 
 これから俺はどうすればいいのか、布教の旅を続けた方がいいのか、それとも本部に帰った方がいいのか。
 布教を続ける気が失せていて、本部に帰る気も失せていた。
 なんとなく、財布に入っていたお金でその部屋を借りた。
 なんとなく、この街に住むことにした。
 なんとなく、仕事を探した。
 待っていればあの人が戻ってくるような気がして。
 
 毎日行っていた神への祈りも、なんとなくする気になれなくなって、やめてしまった。
 神を信じていれば救われるのに。神を信じれば幸福になれるのに。
 俺は何をやっているのだろうか。
 わからなかった。
 
 新月の晩に、首元が少し疼く。
 あの人がいなくなったのは、新月のとき。
 それほど長く過ごしたわけではなかった。
 それほど親しくなったわけでもなかった。
 けれど、どうしてだろう。夜になるとあの人のことを考える。
 余計な感情が溢れて溢れて、神に祈ろうとするが、集中できない。
 神を信じていれば救われるのに。
 
 この世にはまだまだたくさんの迷える子羊がいる。
 迷える子羊たちを助ければ、善行は積まれる。そのはず。
 神よ。
 あなたは今どこにいるんでしょうか。
 俺のことも見ているんでしょうか。
『きっとこの部屋も見てくださっているだろうね』
 それならこの、堕ちてしまった俺のことも見ているのでしょうか。

 胸に大きな穴が空いたような気持ちで、けれども俺はそれが何なのかわからなかった。
 普通に暮らしていると決して解けない謎。
 神の声はなく、謎が解けることもない。
 神よ。
 俺はわからなくなってしまったのです。

 神の声はなく。
 答えは虚無の灰色だった。
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