短編小説

 言葉が呪詛のように纏わりついて消えない。
「これしきの労働時間で音を上げていてはいけない」
 泥のような呪詛。出所不明の呪詛。気がついたら心の中にあった。
「お前より長い時間働いている人はたくさんいる」
「うるさいよ」
 僕は呪詛を振り払ってPCを閉じる。
「仕事は終わったんだからほっといてくれ」
 呪詛は少しの間空中をさ迷ったが、しばらくするとまた僕に纏わりついてきた。
「楽な仕事だ。世の中にはお前より大変な仕事をしている者はいくらでもいる」
「黙って。疲れてるんだ」
「これしきの労働時間で音をあげる気か?」
「黙って……」
 声が震える。心臓を鷲掴みにされているかのような不快感。それを作り出しているのは誰だ? 僕か? この呪詛はいったいどこからわいてきている?
 わからなかった。重たい何かが胸に沈殿して思考を鈍らせている。呪わしい質量。
 ここからまた1時間半、電車に乗って帰るのか。それはおそらく簡単なことなのに、途方もない仕事であるかのように感じてしまう。これも呪詛のせいなのだろうか。
「お前よりも遠いところに住んでいる者はたくさんいる。お前より遅く帰る者もたくさんいる」
「……」
「お前より遅く寝る者もたくさんいる。お前より早く起きる者もたくさんいる」
 僕は鞄に書類を詰めた。整理できていないせいでその重量は重く、帰路をよりいっそう困難に感じさせる。
「きちんとした社会人は鞄の中身も整理されているだろうな」
 僕はぐっとこらえる。会社さえ出てしまえば呪詛は黙ることを知っているからだ。
 スーツを羽織り、鞄を持ち上げる。やはり重い。傾いた姿勢になりそうになるのを無理に戻す。
 そして歩いてドアを出て、エレベーターに乗って裏口から出た。
 息を吐く。
 街は明るく、しかし、所々に立つマンションの部屋の明かりはほとんど消えていた。
 寝ているのだろうか。
 羨ましい。僕の方は、今日もまたきっと眠れないんだ。
 そう思う。最近、布団に入ってもなかなか眠れない日が続いていて、朝起きるのが日に日につらくなっているところだ。
 こんなこといつまで続くのかと思うが、生きている限りお金は必要で、きっと僕も生きている限り働かなくてはいけないのだ。
 ずっと疲れきって、夜眠れなくて、重たい身体を引きずるように布団から這い出し会社に向かって、仕事をしている間中呪詛に責められ続けている、そんな生活が、生きている限り永遠に続くのだろうか。
 そもそも僕はそれに耐えられるのだろうか。だって、朝はますますつらくなって、このままでは布団から起き上がれなくなる日も近いかもしれない。
 そうなったら、どうなる?
 どうなるのだろうか。働けなくなって、お金がなくなって、借金まみれになって、取り立てに耐えられなくなって、死ぬのだろうか。
 呪詛は沈黙しており、胸の中をぐるぐる回るだけで何も答えてくれない。
 役に立たない呪詛だ。自分にかかっている呪詛が役に立ったらそれはそれで問題だろうが。
 駅までの道をてくてくと歩く。道は遠い。変に静まり返った頭は退屈で、何か考えようと思うも何も思い付かずに空虚さだけが増してゆく。
「はあ……」
 ため息。会社なら即座に呪詛が色々言葉を吐きかけてきていただろう。だがここは帰り道。呪詛の力は及ばない。
 呪詛がない今の状態がいいのか悪いのかはよくわからない。呪詛が纏わりついてきているときはうるさいし心がしくしくするし早く解放されたいと思うが、呪詛が消えたら消えたで何を考えればいいのかわからなくなるからだ。
 僕はどうしたらいいんだろうな。
 何が変わる気配もない。このまま緩やかに崩壊していって、口を開けている破滅に怯えたり怯えなかったりすることしか僕には残されていないのだろうか。
 それはあまりにも、救われない気がする。
 だが救われないからといって、特にどうにかなるわけでもない。呪詛の言うとおり、僕よりひどい状況の人はたくさんいて、僕なんかはまだまだましな方だろうから。
 そう、だから我慢しなければいけないのだ。耐えて、このまま崩壊していくことを耐えて、なるべく長く踏ん張っていることしかできない。行き着く先に破滅しかないとしても。
 今晩もきっと眠れないのだろう。
 そしてまた朝がしみ出してくるのだ。
 ひび割れた器の隙間から。


(おわり)
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