短編小説

 蟹がいた。山奥に。川の中に。
 蟹は水晶の塊の上に乗っていた。
 蟹が嫌いな小説家がいた。蟹が好きな音楽家がいた。僕はといえば、別段好きでも嫌いでもないが、食べるという観点から言うならば大好きな部類に入る。
 弟は蟹を食べると発疹が出るらしい。そんな弟とも話さなくなって久しい。何せ遠くに住んでいるもので。
 蟹を見ようと思ってここに来たわけではない。だが結果的に蟹はいた。いるものを無視するわけにもいかないのでずっと見つめ合っている。
 サワガニは唐揚げにするとうまいらしいが寄生虫がいるという話も聞くので食べようとは思わない。そもそも炊事用具を持ってきていない。いるとわかっていれば持ってきたのになどということもない。寄生虫は怖いし。
 少しでも動くと蟹が逃げてしまいそうな気がして、先ほどからずっと同じ姿勢で固まっている。そろそろ身体が痛くなってきた。しかし、蟹に逃げられて何か僕に不都合なことがあろうか。蟹が逃げるとまずいことでも? 特になさそうに思えるのだが。
 それでも動くのは怖い。ここまで我慢して見つめあっていたのだから、蟹が逃げるのは蟹一匹の都合だけに拠っていてほしい。何より、僕が原因で蟹が逃げたなんてことになれば外聞もよくないし。
 本当にそうだろうか。
 蟹は僕同様先ほどから1ミリも動かない。甲羅についている水が森に薄く差し込む光を反射しきらめいているぐらい。
 しかしこのままだと僕の方がきらめきに怯えて逃げ出しかねない。そして僕が逃げ出す動作をしかけると同時にきっと蟹は逃げるだろう。それは蟹の責任ではなく、僕の責任になる。
 何を馬鹿馬鹿しい。ただの蟹相手に僕は何を考えているんだ。蟹が逃げようが逃げまいが、僕にとってはどうでもいいことじゃないか。
 本当にそうだろうか。
 僕の人生において蟹一匹を逃がしたということがどれほどの汚点になるかということは、僕自身が判断することではなく、世間が判断することではないのだろうか。
 何だってそうだ。自分がどういう評価を受けるかということは自分が決めることではなく、世間が決めることなのだから。
 ままならぬ話だ。それならここで僕が蟹を取って食ったとしても、ばれなければ問題ないのではなかろうか。ここには僕と蟹しかいないし。いや、駄目だ。寄生虫がいる。寄生虫はきっと僕が蟹を食べた後に僕の中に住み着いて、僕の行く先々で蟹のことを叫び立てるだろう。告発である。するとどうなる。僕は仕事をクビになり、収入が絶え、蓄えもなくなり飢えて死ぬ。ここで破れかぶれになって蟹を食べるなどという行為をしてしまったがために不幸な死に方をしてしまうのだ。それは本意でない。
 蟹は食べない。そう、最初から決めていたではないか。
 ではどうする。身体は固まり、目はかすみ、川の水に長く浸かっていたせいで寒気はするし、足が震え出しそうだ。
 僕は耐えた。耐えに耐えた。寒い。痛い。目が痛い。そもそもなぜこんなことになっているのだっけ。山に来たからだ。山にはなぜ来たのだっけ。
 思い出せない。
 身体がますます冷えてくる。冷たい。違う。雨が降っている。
 雨はだんだん強くなり、やがて大粒の水滴が蟹に当たり、蟹は逃げ出した。
 僕は助かった。
 だが雨は、裁判にかけられるだろう。


(おわり)
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