短編小説

 桜の木の化身になったわけだが俺はどうすればいいのだろう。
 山桜の下にあるアパートのベッドの上で俺は思案する。
 桜の木の化身。たぶんそう。なんてったって俺の髪と目、まつ毛までばっちりあの山桜と同じ色。動く度に足元から桜が舞い散り、離れると消える。床が汚れなくていいと思うが、しかし不可解この上ない。
 現実は腹が減ると言った。だが腹は一向に減らない。もう一週間ほど何も食べていないのだが、ぐうともくうとも鳴らないし、意識ははっきりしているし、身体もぴんぴんしている。
 そして、まるで健康な人のそれのように、天窓から差し込む太陽の光が気持ち良い。その気持ち良さと言ったら想像を絶する。とてつもなく腹を空かせた状態で絶品のラーメンでも食べているかのような充足感。いつまでも日に当たっていたい。
 しかしこんな状態では外に出られない。元々引きこもっていて外に出る気はなかったが、こうなる前は腹も減るし一応コンビニくらいは行っていた。それがこんな状態、こんなおっさ……お兄さんの髪とか目とかまつ毛が桜色になって、奇異な目で見られること間違いない。およそ「普通の人間」とは思ってもらえないだろう。現実的に考えて。
 まあ俺だって変わった色の髪と目とまつ毛の人間に偏見を持つものではないという建前くらいはわかる。だが現実、世間様はまだまだ変わった色の髪と目とまつ毛の人間には厳しい。それは間違いない。
 こんな格好をしているのはよほどファッションにこだわりのある人間か、バンドマンか芸術家くらいではないのか。そういう人間ならまだいい。俺の今の服装は高校の時から使っている学校指定の緑ジャージなのだ。
 いや、桜の木の化身なのだし、葉っぱの色だと考えれば緑色のジャージでも問題ないのか。
 なんだかよくわからなくなってきた。一般の桜の木の化身はいったいどんな服装をしているのだろう。なんか神官がよく着ている着物っぽい感じの服が思い浮かぶ。今まで生きてきてそんな世界とは無縁だったので一向に想像がつかないのだが。
 待て。桜の木の化身などに俺がなる、なんてことは全然現実的ではない。だが、現にこうなってしまっているのだから信じるしかあるまい。おかしい。ではサンタや神や妖精や幽霊もこの世には存在するのだろうか。いやそれはいないだろう。じゃあ桜の木の化身は存在するのか?
 どう考えてもおかしい。だがこうなってしまっている現状を否定することもできない。もしかして夢を見ているのかと思って頬をつねったりもしてみたが、一週間経っても目覚めないのだ、リアルすぎる夢だ。
 わからん。寝よう。そう思って伸びをするとみしみしという音を立てて樹の幹が背中から生えてきた。何だ。そういうのは困る。引っ込めと念じると幹は空気に霧散した。出し入れできるのか、意外に便利だ。
 寝る気を失った俺は数カ月ぶりにゲームでもしてみるかとPCの前に座った。途中までプレイしてやめていたフリーのダンジョンRPGを開く。
 そのまま陽が落ち夜が更ける頃までプレイした。ゲームはクリアした。主人公のギルドが繁栄するという終わり方だった。特に桜の木の化身なんかは出てこなかった。もしかしてゲームが現実になっていたりするのかもしれないと思ったが、俺の記憶ではそういうゲームをプレイした覚えはない。では、未知のゲームが現実になっているとしたら?
 未知のゲームが現実になったとして、何か利点はあるのだろうか。ないと思われる。この考えもあまりうまくはない。
 考えても考えても答えは出なかった。そもそも現実になってしまっていることについて悩むなどということは無駄なのだ。現実なのだから。
 もう深夜だし、人も少ないだろうし、久々に外に出てみるか?
 俺は椅子から立ち上がり、靴を履いて外に出た。人通りはない。
 空はよく晴れていて、月がまるく輝いている。
 伸びをするとまた背中から幹が出たので引っ込めた。
 道を歩く。足元から桜の花びらが散る。案外綺麗だな。俺は自分の足元にしばし見とれた。
 コンビニは不夜城だ。そしてよく知った場所でもある。しかし今入る勇気はなかった。店員から向けられるであろう冷たい視線に耐えられる気がしなかったからだ。
 山桜でも見るか?
 そうと決まれば早かった。
 俺はのんびり歩いてアパートの上にある山桜のところまで行った。
「よう」
 山桜はただそこに立っていて、夜風に花びらを散らしている。
「俺を桜の木の化身にしたのはお前なのか?」
 山桜は答えない。当然だ。化身にでもなれば会話ができるかなどと数年ぶりにファンタジーな思考をしていたが、やはり現実的に山桜などと会話ができるなんてことはないのだろう。
 しかし、桜を見ているとなぜか心が落ち着くような、そんな気がした。
 俺はたん、と足踏みをした。
 足元から散る花びらが山桜の花びらと一緒になって、ひらひらと舞う。
 桜の名所巡りの旅にでも出るか。
 漠然と、そう思った。


(おわり)
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