短編小説

 この地方の冬の例に漏れず、その日はひどい雨だった。
 自室に帰ってきた僕は鞄を床に置いて、立ったまま静止した。
 雨が降っている。
 雨の音が全身から聞こえる。
 ぼんやりしている僕の頭の中を、身体を、雨が浸蝕しようとしている。
 太鼓を叩く音みたいで楽しい、なんて表現があるけど、そんなレベルじゃない。屋根に地面に力任せに叩き付ける音。
 耳が詰まる。雨の音しか聞こえない。呼吸が速くなるが、呼吸の音すら聞こえない。
 僕は存在しているのだろうか。ふと、そんなことが思い浮かぶ。
 もう夕方で、部屋は暗い。雨の音が世界を支配している。
 空気が湿っている。それを皮膚で感じるのが、かろうじてわかる僕の存在の証だ。
 目を瞑るといっそう雨に浸蝕されてしまうから、目はしっかり見開いて、瞬きは最小限に。
 雨が降っている。
 空を引き裂くような音。
 雷だ。
 怯えが襲う。落ちるのが怖い、とかではない。もっと直接的な、銃声に身をすくめるような、反射だ。
 身体がすくんで動けない。雨と雷が合わさって、なんだかよくわからないうるさい塊が世界中に満ちている。それを認識する「僕」は音にかき消されて、怯える「僕」だけになろうとしている。
 目を瞑ってはいけない。わかっているのに、何度目かの雷に、目を瞑ってしまった。

◆◆◆

「ーー様」

「ーーーー様!」

 はっと目を開ける。
 僕、はまだ存在していた。その事実に安堵する。
 ノイズがうるさい。雨の残響が、まだ頭を苛んでいる。
 僕は軽く頭を振った。
「ようこそ、捧者様。ここは第078世界です」
「えーとこんにちは……」
 ぼんやりと挨拶を返す。
 耳慣れない単語がいくつかある。しかし今はそんなことよりも、頭の中のノイズをなんとかする方が重要だった。
 ノイズは同量のノイズでかき消せばなんとかなる。こういったとき、僕はいつも自分を責める言葉を大量に用意するようにしていた。経験上、そいつを自分に突き刺せば、つらさでつらさが相殺されて楽になるのだ。
 僕はさっそく自責を開始しようとした。
「ああ、待ってください。せっかくのエネルギーがもったいない」
 ぎぎ、と頭が締め付けられるような感覚。
「……」
 僕は自責の言葉を自らにかけようとしたが、何も浮かんでこない。
 ノイズがひどい。
「今、抽出作業を開始いたします。大丈夫、あっという間に終わりますので」
 突然目の前が青白く光り、僕は思わず目を閉じる。
 脳内にざらりとした感触。一瞬後、頭の中に静寂が訪れた。
 一拍、手を叩く音。
 僕はのろのろと顔を上げる。
「良質なエネルギーだ。量も多い。今回の捧者様はいい捧者様ですね。どうですか、今後我々とエネルギー売買契約を結んでみるというのは」
 言いながら僕の目の前で両手を合わせているのは、白いローブを着て筒状の帽子を被った長身の人間だった。
「ええと、その……」
 状況が飲み込めず、僕は周囲を見回した。
 ぴかぴかに磨かれた床、壁に埋め込まれた電飾、古めかしい装飾、天井には何かよくわからない絵のようなものが描かれている。その様子は、昔教科書で見たどこかの国の聖堂を思い起こさせた。
「あなたの精神に発生したノイズのエネルギーを私どもがこちらで頂戴し、あなたは精神の静寂を取り戻す。いい契約でしょう?」
「ノイズって、僕の頭の中のノイズのことですか?」
「ええ。見たところあなたはノイズを感じやすい性質であられる様子。これまでさぞご苦労されてきたことでしょう。しかし、私どもと契約されればそんな心配はなくなります。ノイズに悩まされない、快適な生活が保証されるわけです」
「本当ですか? 副作用とかは……」
「ありません。少なくとも、これまで契約してきた方々からは一つもご報告がありませんので」
「そうなんですか……」
 ノイズに悩まされなくて済む。いい話だ。ノイズに気が散ってテストに集中できなかったり、参考書の読解が進まなかったり、友人との話の最中に気が逸れたりすることがなくなるなら、だいぶ楽になるかもしれない。
 楽になる?
 僕はノイズに悩まされることをつらいと感じていたのだろうか。
 僕よりもつらい人なんてこの世にもっとたくさんいるから、つらいと感じることなんて許されないというのに。
 許されない。
 許されない。
 頭が痛い。
「捧者様」
 青白い光。ざらり、思考が沈黙する。
「あなたは本当に優秀であられます。短時間でこれほどのエネルギーをご生成くださる捧者様はなかなかいらっしゃいませんよ。……契約のお話、前向きに検討していただけますね?」
 僕は頷いた。

◆◆◆

 気が付くと、元の部屋に戻っていた。
 妙に静かだった。
 窓の外を見ると、雨は小降りになってはいるもののまだ降り続いている。
 いつもなら何も録音されていないテープレコーダーを回すような音が耳につくのだが、今は全く気にならなかった。その代わりに感じるのは、精神の静寂。妙に凪いだ心は平坦で、不安も焦りも全く存在しなかった。
 きっとあの人がノイズを吸い取ってくれているのだろう。
 これからは平穏に生きられる。
 僕は安心してベッドに入った。

 次の日、起きると雨は上がっていた。
 薄い雲が所々に広がり、弱い日差しが床を照らしている。晴れだ。
 買っておいたパンをかじり、身支度をして外に出る。
 イヤホンを耳に入れ、道路に出て、音楽をかけてしばらく歩いてふと違和感を覚えた。
 いつもなら音楽で色々なことを思い出してしまって苦しくなるのに、今日はそれがない。心に何も浮かんでこないのだ。
 これはありがたい。毎登校時、浮かんでくる記憶を振り払うため電信柱に頭をぶつけたくなる衝動と戦うのは大変だったから。
 気持ちが少しだけ浮ついたが、それもすぐに収まり、静寂が戻ってきた。
 僕はそのまま講義に出、部屋を移動して必修の授業を受け、一人で昼食を食べたあと午後の講義に出席し、夕食を食べていて気付いた。
 今日の食堂のメニューは僕の好きなナスの揚げ浸し。とてもおいしいはずなのに、心が動かない。おいしいなとは思う。だが思うだけで、いつも感じていたあの心が浮き上がって爆発しそうな喜びがないのだ。
 でもまあいいか。僕の体調の問題かもしれないし、料理の出来の問題かもしれない。夕食で強烈な喜びがなかったからといって、何か困るわけでもない。
 食器とトレーを片付けると、僕は帰路についた。
 街灯は眩しくなく、夜の闇は恐ろしくなく、音楽は何も思い起こさせず、星を見ても何も感じない。
 切れていたチョコレートを買いに薬局に入っても、大量の物で目がチカチカしたりはしなかった。
 平坦な気持ちで部屋に帰り着く。電気をつける。ベッドサイドに鞄を置く。
 そのままコート類を片付け、課題をした。
 参考書の些細な記述に感動して読み込んでしまったり、一つわからないところがあるだけでずっと悩んでしまったり、そういうことは全くなく、スムーズに課題は終わった。
 時計を見ると、20時だった。いつもよりずっと早い。
 寝るまでに何かしようかと思って思考を巡らせるも、何も浮かんでこない。
 それなら他の授業の課題も終わらせてしまうかと思い、棚から参考書類を取り出す。
 いくつか終わらせたところで22時になったので、明日の準備をして寝た。
 静寂。夢は見なかった。

◆◆◆

 僕はそのまま何の問題もなく進級し、卒業し、就職した。今は工場の事務の仕事をしている。
 週末は同僚たちとサッカーをしたりして身体を動かす。余暇は体力作りのためのランニング。
 昔あれほど聴いていた音楽は全く聴かなくなった。聴いても何も感じないのだ。
 たまに、ごくたまに、あの契約のことを思い出す。
 契約は今でも働いているのだろうか。平穏な心で過ごせるようになってみると、あの妙な世界に行った一瞬は夢だったようにしか思えない。
 古い友人とは連絡を取らなくなり、職場の友人たちと毎週飲みに行く。
 飲み会は楽しい。ビールで頭がふわふわした幸福な気持ちを味わいながら、いない同僚の噂話やら得意先の愚痴やらを言い合うのだ。そうしている間に夜は更けて、チームリーダーが締めの挨拶をする。
 帰り道、星空を見上げながらわいわい言う友人たちに混ざって、一人白い息を吐いた。
 静寂。


(おわり)
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