短編小説

 いなくなってしまった存在のことを、ふと思い出す時がある。
 それは春の桜の下だったり、夏の暑い日のことだったり、秋の落ち葉を踏んだ瞬間だったり、今日みたいな冬の朝のことだったりする。
 朝、カーテンを開ける。晴天、薄い雲が空を所々覆っている。
 この地方の冬はいつも荒天で、寒さの厳しい今の時期は雪が激しく降ったりするのだが、今日は珍しく晴れ。
 晴れなのだが日差しはどこか頼りなく、過ぎる雲が薄い日差しを遮ってゆく。
 暖房をつけたばかりでまだ冷える身体を温めたくて、私は窓際で伸びをした。
 背中。肩。首。順に伸ばして、力を抜く。
 弱い日差しが目に入る。薄く雲の隙間から漏れるそれは頼りなく、少しも眩しく感じない。
 いなくなってしまった。
 そう思う。
 それは、随分と前に。

 私は彼にとってただの他人だった。親でも家族でも近所の人ですらない。例えるなら、友人の友人、という関係が一番近い。
 友人から彼の話はよく聞いていた。鎌のトゲの細かさをどうするか迷っているとか、情操教育で小説を読み込ませているけれど探偵物ばかり読むので偏りが心配だとか、真面目すぎる性格なのか雑談を一切しなくて困るとか、そんなことを。
 一度、彼にお世話になったこともあった。その複眼で失せ物を見つけてもらったのだ。
 それは彼が正式稼働する前のテストのうちの一件で、テストということで依頼料は格安だった。
 私が失せ物を口にするより早く、彼はわかりましたと言ったのだ。
 その失せ物、提出する予定の書類は、私の部屋の本棚の上に放置されていた。鞄を整理するときに出したまま忘れていたのだろうということだった。道理で仕事場をいくら探しても見つからないはずだ。
――ありがとうございます。
 彼にお礼を言うと、彼は無言で複眼を光らせた。
――この書類がないと、再発行代を払わなくちゃだったから本当に助かりました。
――こいつに敬語なんて使わなくてもいいよ。俺の子供みたいなもんだしさ。
 友人が彼の背胸部をばしばしと叩きながら言った。
――それでも、私にはない能力を持ってるんだから敬うよ。何より書類を見つけてくれたんだもの。本当にありがたい。
 言いながら、私は友人に依頼料を手渡した。
――助かるよ。研究費がさ、いくら使ってもなくなるんだよね。
 友人はお金をポケットにしまいこむ。
――お前にも金をかけてるんだから、優秀なプロトタイプになってもらわなきゃ困るぞ。あっちで粗相でもされたらことだしな。
 彼はまたも無言だった。
 私の部屋の天窓から射し込む朝日に彼の鎌がきらきらと緑色に輝いていた。複眼に映った、たくさんの冬の陽光。
 それじゃ、と言って友人は去る。彼もその後を追っていなくなった。
 それが彼との最初の記憶で、最後の記憶だった。

――最近、彼はどうしているの? 本格稼働はもうしたの?
――あいつは消えたよ。もういない。
 え、と声が口から漏れる。
――ミナミヤマ社のあるB星に運ぶ途中で、無人輸送機が故障したのさ。軌道が狂ってそのまま恒星に突っ込んでパーだ。
――そんな……
――あっちがよこした無人機だったからさ、向こうのミスってことで開発費とかは弁償してもらえたんだけど、なんだかなあ。俺の苦労返せって感じだよな。ま、データは残ってるから作ろうと思えばまた作れるんだけど、しばらくは並行開発してたデブリ駆除メカトンボに戻ろうかなって。幸いスポンサーは見つかってるしさ。あーひどい目に遭ったよほんと。
 言葉が出なくて、私は手元のコーヒーカップを見つめる。
 それから友人はメカトンボ開発の話を始めたが、なぜか全く頭に入らず、気の抜けた返事をしながらコーヒーを啜っていた。

 友人も悔しがりさえすれど悲しんではおらず、それから彼の話をすることは二度となかった。忙しい人なのだ。
 他人。
 失せ物を見つけてもらったのはこんな冬の朝で。
 こんなところで私だけが一人、空なんて見ながら彼のことを思い出している。
 そう関わりもなかった存在のことを悲しむなんておかしいだろうか。随分時間が経った今でも思い出してしまうのは、間違っているだろうか。
 わからなかった。
 思いを振り払うようにして窓から離れると、コーヒーカップを取ってデスクに座る。
 冬の太陽を映した複眼が、焼き付いたように頭に残っていた。


(おわり)
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