短編小説(2庫目)

 上り続けろ、と誰かが言った。

 階段を上っていた。
 いつから上っていたかはわからない。どこから上ったんだったか、会社に行こうと思って地下鉄のホームから地上に続く階段を? それとも寮に帰ってきて、3階に続く階段を? いやいやもっと前、学校の、自分のクラスに続く階段かもしれないし、通学路の階段かもしれない。
 どの階段だったかはもうわからない、俺の生活にはとにかく階段が多すぎたから。
 生活?
 それとも……
 そんなことはどうでもいい。問題は俺が今、階段を上ってる、ってことだ。
 足を上げて、上の段に置いて、身体を持ち上げて、もう片方の足をさらに上の段に。
 重力。
 身体の重みを感じるのはそんなとき。
 だいたいいつも寝不足で、頭も身体も重いのだが、こういうときは余計にそう思う。それとも運動量の増加による鼓動の感覚がうるさすぎて何もかも「聞こえなく」なっているのだろうか。
 わからない、身体の感覚が重すぎて、逆にそこから頭が遠ざかってゆく。
 何も考えられなくなる、今この階段を上っている、そのことしか認識できなくなる。
 いつから上っているのだっけ、いつまで上らなければいけないのだっけ。
 これはどこに続いているのだっけ。
 俺は?
 どこまで上ってきたのだっけ。
 足が止まる。
 階段を、見下ろす。
 瞬間、胃の底が冷える。
 恐怖。
 上ることに夢中で忘れていた、自分は高所が苦手だってことを。
 俺はどうしてこんなところにいるんだ? どうしてここまで上ってきてしまったんだ?
 だがもうここまで上ってきてしまった、こんなところまで、地上から遠く。降りられない。あまりの高さが恐ろしくて、下りの段を視界に入れるなどとても。
 それでは上り続けるのか?
 どこまで?
 段を見上げる。
 段は続き、その先は霞んでいた。
 俺は……
 だが止まることはできない。止まれば飢えて死んでしまう。早くこの階段を抜けて、どこか安心できる場所に、そうだ、家に、
 帰らないと。
 足をまた持ち上げる。
 階段を一歩、また一歩、
 恐怖は封殺した。
 疑問も封殺した。
 そう、上るよりほかはないんだ。
 途中で死んでしまったとしても。
 俺にはそれしかない。上り続けろ、と言われた、それだけが俺の。
 ……そんなことはどうでもいい。もとより戻るべくもない。俺は上り続けるだけ。頭が重いなんて、身体が重いなんて、恐怖も不満も疑問も「それ」の前ではどうでもいいんだ。
 「それ」に比べれば何もかもが――
 どうでもいいことだった。
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