短編小説(2庫目)

 この凍土の地下に何があるのかを知ってはいけない。
 そうかな? 知っても別に大したことないだろ。
 で、この地下に何があるかっていうとまあ……「憂鬱」だよな。巨大な憂鬱の塊……黒くて油みたいにべとべとしていてどろどろの塊がな……眠っているんだ。
 どうせならそれを資源として取り出して燃料にできればいいんだが、憂鬱の属性は虚無なので燃料にはならない。俺のいるこの世界で無から有を生み出せるのはヒトじゃない生命体だけだからな。
 で俺はわざわざこの地下まで降りてきているわけだが……ここで足を滑らせて憂鬱に落ちたらどうなるかを考えるとぞっとしてくるので早めに切り上げた方がいいのは間違いない。
 なんで地下まで降りてきてしまったんだ。寒いし湿っているし、だいぶ後悔している。
 なんでかって?
『地下にはうさぎがいると聞いたから』
 今言ったのは誰だ? そんな嘘を吐くのはやめろ、笑えないから。
 うさぎは死んだ、生き返ることはない。その上消えた、誰からも知られることなく。
 そんなうさぎのことを知っているとしたら俺と、■■だけ。しかし■■がこの凍土にいるはずがないからな、■■は[禁則事項]なのでこんな世界にいるはずがないんだ。あれはもう俺ではないので。
 ならば地下にうさぎがいると言ったのは誰だ?
 そもそも俺はもうそこまでうさぎに執着してはいないはずなんだ。そうだ、そのはず。うさぎのことは過ぎ去った過去で、二度と戻らぬ「悲劇」であり、そんなものを思い出す必要など……
 あるのだろうか。
 話を戻そう。誰がそれを言ったか、だった。俺と■■しかそれを知らなくて、ここには俺しかいないんだとしたら、それを言ったのは俺以外にいないじゃないか。なぜってここにいるやつは俺以外そのことを誰も知らないんだから。
 まあそもそもここにいるやつ、とか何とか言ったがここに俺以外の生命体はいないのだし。
 苔はある。それはまあ、生命体……と言えるのかもしれない。たまに一人で苔に話しかけてる怪しいオッサンがいるかもしれないがそれは俺なので心配しなくていい。いや心配するか。これを読んでる奴も俺のことなんてあんまり知らないはずだもんな。知ってるかもしれないのは、凍土に住んでる、ってことぐらい。あ、あと、今その地下に降りてて黒々した「憂鬱」を目にして後悔してるってこととか。
 そんなことはどうでもいいんだ。俺はどうしていつもどうでもいいことについてぐるぐる思考を回してしまうのだろう。不健康なんだよ。知っての通り。だから、よせばいいのに凍土の地下に降りるし、よせばいいのに「憂鬱」の水面を見て後悔してる。
 そして、不健康だから……もう一人の「俺」にうさぎのことなんて言われてふらふらと、それもあるかもしれない、なんて思ってしまう……本当はもう一人の俺なんていなくて、俺は今ここにいる「俺」一人きりで、俺にそれを言ったのは俺自身だというのに。
 どうでもいい、どうでもいいことを回す。今一番大切なのは、こうして「憂鬱」の水面を見るのはやめてさっさと地上に上がることなのに。
 だが。
 「憂鬱」の存在を除けば地下は存外居心地がよく。
 俺はしばらくそこに留まったのだった。
133/158ページ
    スキ