短編小説(2庫目)
「向こう側」に行けたら違うんだ、と思った。
思っていた。
◆
「──」
「───」
教室。ざわざわと喋り交わす生徒たちを見ないようにして俯く。
おかしいな、こんなはずではなかった。
どこから歯車が狂ってしまったんだろう。友達が一人もできず、クラスで一人きり。
喋り交わす生徒たちの視線が全て俺を見ているような気がする。一言一言が俺への罵倒になっているかのような。
落ち着け。全て妄想だ。実際に俺を見ているはずがない、俺の悪口など言っているはずがない。妄想だ、気にしすぎだ……そう言われたじゃないか。
あの日、勇気を出して先生に相談した日……考えすぎよ、と言われた、先生が言うならそう、そのはずなのだ。
だいたいこういうものは往々にして考えすぎなのだ。大人にはそう言われる。そう言われるからそうなのだ。思春期特有の思い込み、考えすぎ……そうだ、そうに決まっている。
「向こう側」と「こちら側」……俺が属するのは「こちら側」の方だった。
様々なことをくよくよ考えて、友達がいなくて、一人ぼっちでいつも俯いていて、暗い。それが「こちら側」。
何かの間違いで俺も「向こう側」になれたなら何か違うのかも。なんて思って。
そんなのは幻想だし、そんなことが起こるはずもないというのはわかっていた、ただの夢想。
それでも、全身に矢が刺さるかのような毎日、夢でも見ていなければ過ごしていけなかった。
◆
そんなある日。
今日も学校に行かなければならない、本当に嫌だと、そう思いながら、半分眠った頭でふらふらと歩いていて、一瞬世界が歪んだと思ったら変な世界にいた。
まあそういうことがあったっておかしくはない。向こう側とかこちら側とか言ってる奴がそういう世界に迷い込むみたいなの、小説とかじゃよくあるし。
だけど……
俺はその変な世界を見る。
ため息。
オレンジ色の空から電信柱が生えていて、地面は透き通るような空色。
芸術家なら喜んだろうな、と思った。
だけど俺は芸術家でもなんでもない。ただの高校生。世界がどうなったって俺は別にどうだっていい。
そこまで考えてふと思う。この世界にも俺の家はあるのだろうか。
学校にはもう向かいたくなかった。行っても何もならない。それなら家に帰った方がましというもの。
俺はくるりと回れ右して、家の方向と思しき方向に歩き始めた。
◆
家。
表札が出ている。が、読めない。
ただところどころ残っている特徴からしてこれはたぶん俺の家で合っているんだと思う。
その証拠にほら、鍵をさしたら合ったし。
回して、開ける。
「ただいま」
おかえり、と知らない声がした。
◆
「おかえり」
「えーと」
「おかえりですよ、これは」
あなたは誰、とか、この世界は何、とか、聞くことはあった。しかし、あまりにも当然のように接せられるものだから、疑問を飲み込んだ方が正しいのだろうかとか、そもそももう俺は何もかもがどうでもよくなっていて疑問を疑問として認識することさえどうでもいいとか……
そう思って。
目の前の生物は背が高く、着物で、狐の面を被っている。
よくある感じのやつだ。
「学校には行かなかったんですね」
言われて、俺は頷く。
「それでここに来たんですね」
「うん」
「おかえり、おかえり」
平坦な声。けれど心を込められるよりそちらの方が俺は楽だった。
なぜかは知らない。
◆
狐面がお茶とお菓子を出す。
「帰ってきた人にはおもてなし、決まりですからね」
「うん」
こういうのを食べるとやばい感じなのは知っていたが、元の世界に戻っても何もいいことはないし、何よりお茶とお菓子がおいしそうだったので食べる。
「おいしいですか」
「おいしい」
茶は暖かく、いつからかずっとこわばっていた身体をほぐしてくれるかのような心地がした。
◆
縁側に座る。
俺の家には縁側はなかったはずなのだが、この家にはなぜか縁側と庭があり、茶を横にして座ってぼうっと庭を見る。
狐面は離れたテーブルで茶を飲んでいる。
庭。俺の家には小さな庭があった……本当に小さな庭で、家族が見栄のためか何か知らないが、狭いスペースに土を入れて花や何やを育てていた。
それを見ると、どこにも行けない庶民の窮屈な、型に嵌まった自由の形、のようなものを感じてしまって息苦しくなって、俺は自分の家の「庭」を見るのが嫌いだった。
だがこの世界の「俺の家」にはその小さな庭はなく、代わりに中くらいの大きさの庭がある……中くらい? それはどのくらいなんだろう。わからないが、子供一人が駆け回って遊べるくらいの広さはあるのではないだろうか。
庭には松の木が一本生えていて、その横に池があった。
まあ、テンプレだな。
しかしテンプレの庭でもあるのとないのでは大違いというか、こういう庭はやはり見ていると和むというか、無心になれる。
今まで生きてきてそんな庭、テレビやゲームの中でしか見たことないけど。でもあるのとないのではやっぱり違う。
そよりと風が吹き、松が揺れ、水面に波が立つ。
いつの間にか、狐面が側に来ていた。
「……いたんだ」
「ええ」
それきり会話はなく、そよりそよりと吹く風を受けて俺はまたぼんやりとする。
「向こう側」に行ったら違うんだと思っていた、その向こう側とは決してここのことではなく、もっと明るく、きらきらしていて、別世界のような何か、夢想だった。
◆
「……昼ご飯を食べましょうか」
「え、いいの?」
「ここはあなたの家ですから」
テーブルを見る、器が載っている。
何が入っているかまではわからないが、湯気が立っていた。
「うどんですよ」
「そっか」
茶を持って歩いて行って、テーブルにつく。
うどんだった。
食後。
何をするでもなくぼんやりと、壁の絵なんかを見つめる。
俺の祖母は見栄を張る人で、お気に入りの芸術家なんかが複数いたらしく、その人たちから買った絵を壁に飾っていた……けれどこの絵はその絵ではない。
何度も見た、見て、風景になった「あの絵」ではない。
何が描いてあるのかを気にする気はなかった。薄緑の、おそらく森で、それさえわかれば別にもう絵の中身なんて気にする必要はない。
あの絵とは違う、ということがわかりさえすればそれで。
◆
「俺の家」の自室に戻る。
自室はそこそこ広く、いつもの机と鞄と本と、ベッドと、PC。
PCが外に繋がっているのかどうかは知らないし、今は開ける気もない。
そういえばスマホも持っていたな、と思い出して探すが、見当たらない。
視線を元に戻すと、机の上に充電しっぱなしのスマートフォン。
家を出るときに置いていったのか、それとも勝手に移動していたのか。わからないが、わかったところで何かがどうにかなるわけでもないし、どうでもいい。
充電器からスマホを外し、引き出しに放り込んだ。
机の上にあった昔の本を見る。
出した記憶はない、が、「俺の家」であるならあってもおかしくはない。
俺はその本をちょっとだけ開いて読んで、少しだけのつもりだったのだがなかなか面白く、集中して最後まで読んでしまった。
読み終わって顔を上げる、それでも空はオレンジ色のまま。
◆
自室から縁側に戻る。
空はオレンジ色、動くことはない。
日差しは暖かく、地面は空色。
ちぐはぐな世界。
座って、息を吐く。
狐面がやってきて、俺の側に腰掛ける。
非日常のはずなのにそんな気がせず、最初に狐面が言ったとおり「おかえり」で帰ってきたような、ようやく戻れたような、それでやっと息が吐けるような、そんな感覚。
おかしいなあ。
俺ってそんな風だっけ。
思う、
いつも張り詰めていて、他人の視線を気にしていて、■の目、飛んでくる叱責、■られて■が■くなる。
やめたい、どこかでこれが終わったら、でも終わらなくて、俺は■■ていて、それで、それで――
風が吹く。
もはやそれらは色褪せたスライド、二度と起こることはなく、遠く。
もう気にする必要はないことを、わかっている。
「行きたかったですか」
狐面が問う。
「どこに」
「……『向こう側』に」
風が制服を揺らす。
「別に、そういうのはもう、……いいかなって思った」
そうですか、と狐面。
その声は、これまでずっと平坦だったそれと違って少し、嬉しいような、悲しいような、そんな色のこもった音で。
そより。
俺は目を細める。
風の行方は誰も知らない。
思っていた。
◆
「──」
「───」
教室。ざわざわと喋り交わす生徒たちを見ないようにして俯く。
おかしいな、こんなはずではなかった。
どこから歯車が狂ってしまったんだろう。友達が一人もできず、クラスで一人きり。
喋り交わす生徒たちの視線が全て俺を見ているような気がする。一言一言が俺への罵倒になっているかのような。
落ち着け。全て妄想だ。実際に俺を見ているはずがない、俺の悪口など言っているはずがない。妄想だ、気にしすぎだ……そう言われたじゃないか。
あの日、勇気を出して先生に相談した日……考えすぎよ、と言われた、先生が言うならそう、そのはずなのだ。
だいたいこういうものは往々にして考えすぎなのだ。大人にはそう言われる。そう言われるからそうなのだ。思春期特有の思い込み、考えすぎ……そうだ、そうに決まっている。
「向こう側」と「こちら側」……俺が属するのは「こちら側」の方だった。
様々なことをくよくよ考えて、友達がいなくて、一人ぼっちでいつも俯いていて、暗い。それが「こちら側」。
何かの間違いで俺も「向こう側」になれたなら何か違うのかも。なんて思って。
そんなのは幻想だし、そんなことが起こるはずもないというのはわかっていた、ただの夢想。
それでも、全身に矢が刺さるかのような毎日、夢でも見ていなければ過ごしていけなかった。
◆
そんなある日。
今日も学校に行かなければならない、本当に嫌だと、そう思いながら、半分眠った頭でふらふらと歩いていて、一瞬世界が歪んだと思ったら変な世界にいた。
まあそういうことがあったっておかしくはない。向こう側とかこちら側とか言ってる奴がそういう世界に迷い込むみたいなの、小説とかじゃよくあるし。
だけど……
俺はその変な世界を見る。
ため息。
オレンジ色の空から電信柱が生えていて、地面は透き通るような空色。
芸術家なら喜んだろうな、と思った。
だけど俺は芸術家でもなんでもない。ただの高校生。世界がどうなったって俺は別にどうだっていい。
そこまで考えてふと思う。この世界にも俺の家はあるのだろうか。
学校にはもう向かいたくなかった。行っても何もならない。それなら家に帰った方がましというもの。
俺はくるりと回れ右して、家の方向と思しき方向に歩き始めた。
◆
家。
表札が出ている。が、読めない。
ただところどころ残っている特徴からしてこれはたぶん俺の家で合っているんだと思う。
その証拠にほら、鍵をさしたら合ったし。
回して、開ける。
「ただいま」
おかえり、と知らない声がした。
◆
「おかえり」
「えーと」
「おかえりですよ、これは」
あなたは誰、とか、この世界は何、とか、聞くことはあった。しかし、あまりにも当然のように接せられるものだから、疑問を飲み込んだ方が正しいのだろうかとか、そもそももう俺は何もかもがどうでもよくなっていて疑問を疑問として認識することさえどうでもいいとか……
そう思って。
目の前の生物は背が高く、着物で、狐の面を被っている。
よくある感じのやつだ。
「学校には行かなかったんですね」
言われて、俺は頷く。
「それでここに来たんですね」
「うん」
「おかえり、おかえり」
平坦な声。けれど心を込められるよりそちらの方が俺は楽だった。
なぜかは知らない。
◆
狐面がお茶とお菓子を出す。
「帰ってきた人にはおもてなし、決まりですからね」
「うん」
こういうのを食べるとやばい感じなのは知っていたが、元の世界に戻っても何もいいことはないし、何よりお茶とお菓子がおいしそうだったので食べる。
「おいしいですか」
「おいしい」
茶は暖かく、いつからかずっとこわばっていた身体をほぐしてくれるかのような心地がした。
◆
縁側に座る。
俺の家には縁側はなかったはずなのだが、この家にはなぜか縁側と庭があり、茶を横にして座ってぼうっと庭を見る。
狐面は離れたテーブルで茶を飲んでいる。
庭。俺の家には小さな庭があった……本当に小さな庭で、家族が見栄のためか何か知らないが、狭いスペースに土を入れて花や何やを育てていた。
それを見ると、どこにも行けない庶民の窮屈な、型に嵌まった自由の形、のようなものを感じてしまって息苦しくなって、俺は自分の家の「庭」を見るのが嫌いだった。
だがこの世界の「俺の家」にはその小さな庭はなく、代わりに中くらいの大きさの庭がある……中くらい? それはどのくらいなんだろう。わからないが、子供一人が駆け回って遊べるくらいの広さはあるのではないだろうか。
庭には松の木が一本生えていて、その横に池があった。
まあ、テンプレだな。
しかしテンプレの庭でもあるのとないのでは大違いというか、こういう庭はやはり見ていると和むというか、無心になれる。
今まで生きてきてそんな庭、テレビやゲームの中でしか見たことないけど。でもあるのとないのではやっぱり違う。
そよりと風が吹き、松が揺れ、水面に波が立つ。
いつの間にか、狐面が側に来ていた。
「……いたんだ」
「ええ」
それきり会話はなく、そよりそよりと吹く風を受けて俺はまたぼんやりとする。
「向こう側」に行ったら違うんだと思っていた、その向こう側とは決してここのことではなく、もっと明るく、きらきらしていて、別世界のような何か、夢想だった。
◆
「……昼ご飯を食べましょうか」
「え、いいの?」
「ここはあなたの家ですから」
テーブルを見る、器が載っている。
何が入っているかまではわからないが、湯気が立っていた。
「うどんですよ」
「そっか」
茶を持って歩いて行って、テーブルにつく。
うどんだった。
食後。
何をするでもなくぼんやりと、壁の絵なんかを見つめる。
俺の祖母は見栄を張る人で、お気に入りの芸術家なんかが複数いたらしく、その人たちから買った絵を壁に飾っていた……けれどこの絵はその絵ではない。
何度も見た、見て、風景になった「あの絵」ではない。
何が描いてあるのかを気にする気はなかった。薄緑の、おそらく森で、それさえわかれば別にもう絵の中身なんて気にする必要はない。
あの絵とは違う、ということがわかりさえすればそれで。
◆
「俺の家」の自室に戻る。
自室はそこそこ広く、いつもの机と鞄と本と、ベッドと、PC。
PCが外に繋がっているのかどうかは知らないし、今は開ける気もない。
そういえばスマホも持っていたな、と思い出して探すが、見当たらない。
視線を元に戻すと、机の上に充電しっぱなしのスマートフォン。
家を出るときに置いていったのか、それとも勝手に移動していたのか。わからないが、わかったところで何かがどうにかなるわけでもないし、どうでもいい。
充電器からスマホを外し、引き出しに放り込んだ。
机の上にあった昔の本を見る。
出した記憶はない、が、「俺の家」であるならあってもおかしくはない。
俺はその本をちょっとだけ開いて読んで、少しだけのつもりだったのだがなかなか面白く、集中して最後まで読んでしまった。
読み終わって顔を上げる、それでも空はオレンジ色のまま。
◆
自室から縁側に戻る。
空はオレンジ色、動くことはない。
日差しは暖かく、地面は空色。
ちぐはぐな世界。
座って、息を吐く。
狐面がやってきて、俺の側に腰掛ける。
非日常のはずなのにそんな気がせず、最初に狐面が言ったとおり「おかえり」で帰ってきたような、ようやく戻れたような、それでやっと息が吐けるような、そんな感覚。
おかしいなあ。
俺ってそんな風だっけ。
思う、
いつも張り詰めていて、他人の視線を気にしていて、■の目、飛んでくる叱責、■られて■が■くなる。
やめたい、どこかでこれが終わったら、でも終わらなくて、俺は■■ていて、それで、それで――
風が吹く。
もはやそれらは色褪せたスライド、二度と起こることはなく、遠く。
もう気にする必要はないことを、わかっている。
「行きたかったですか」
狐面が問う。
「どこに」
「……『向こう側』に」
風が制服を揺らす。
「別に、そういうのはもう、……いいかなって思った」
そうですか、と狐面。
その声は、これまでずっと平坦だったそれと違って少し、嬉しいような、悲しいような、そんな色のこもった音で。
そより。
俺は目を細める。
風の行方は誰も知らない。
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