短編小説(2庫目)

 忘れ去る。
 だから次が書けるのだと思う。

 日記を毎日つけている。
 今は八月の、下旬。
 ふと思い立って二月の日記を捲ってみたら、驚くほど何も思い出せなかった。
 何やら後悔やら反省やらを書いていたようなのだが、その内容に覚えがなく、まるで初めて読んだもののようだった。
 いつもそうだ。
 半年過ぎると忘れてしまう。
 それが俺の記憶のリミットなのかもしれない。
 半年。
 長いようで短いようなそんな時間だ。いつもいつも覚えていられたら俺も幸運に身を委ね最高の気持ちになるのだが。
 いや、幸運でもないか。
 記憶を覚えていられることを「幸運」と表現する時点で俺はもうどうしようもないのかもしれない。というか、どうしようもないのだろう。
 そう言い切ってしまうことに躊躇いはあるが、世の中から見て俺がどうしようもない部類の人間なのは事実なのだから。
 小さい「どうしようもなさ」の積み重ねが俺を「どうしようもない人間」にした。
 おそらくはそう。
 なんでもすぐに忘れてしまうこと、目の前のものに集中しているときは何も聞こえなくなること、雑踏を歩いているときに横の人の声が聞こえなくなること、そのほかたくさん、たくさん。
 俺はどうしようもない人間で、このどうしようもなさからくる苦しみを発散しようと日記をつけ始めたのだった。
 その日記も忘れてしまい、同じ失敗を何度も繰り返す。
 きっと読み返せないからなのだろう。俺の日記は鍵付きで、一度書いたら思い出したくなくなるので書くとき以外は鍵をかけたまま放置している。だから忘れる。意図して忘れようと試みているまである。
 そういう気持ち。
 もう少し若ければ「若者の悩み」でなんとかなっていたものを、こうも歳を取ってしまうと出来損ないのぼやきにしか見えないのはどうしてだろう。それは俺が俺であるからこそで、俺は自分のことが嫌いなんだ。似た者同士なんだ、結局は。だから……
 だから?
 誰と?
 何か俺は大事なことを忘れているような。
 大事なものを忘れているような、そんな気がして。
 生活の中の、抜けた穴。日記。二月の次を読む。ページはところどころ黒く塗りつぶされていた。
 そんなバカなことがあっていいのか?
 自分で書いた日記を自分で塗りつぶす。じゃあそれを書いたときの俺はそれを覚えていて、覚えていながら塗りつぶし、忘れることを見越して放置したのか。
 自分に対する工作じゃないか。
 辟易する。
 何を忘れているか、そんなのは人名に決まってるんだ。物語のセオリーはそうなんだ。俺は誰かを忘れていて、生活の中の穴というのは消えた誰かであって、思い出せないから生きる意味が見出せなくて、じゃあその誰かはどうしたかっていうと。
 俺が殺したんだ。
 当たり前だろ。

 プライドが傷つけられたから殺した。
 大事な人だったが殺した。
 耐えられなかったから殺した。
 殺した理由なぞ沢山ある。
 たくさんの。
 「俺」を殺した。
 
 俺に生きる人格の数々を。
 邪魔だったから。耐えられなかったから。
 俺と俺と俺と俺は全員、違っていた。けれども全員似た者同士で、俺のことが嫌いだった。
 そうなると殺し合いだ。
 主人格の奪い合いが起きた。
 俺たちは全員俺のことを想っているとある人は言った。それでも俺は信じられなくて、目についた俺を全部殺した。
 殺害だった。
 自分の人格を殺すことは罪にならないんですか?
 いつかの俺は、そう訊いた。
 まあそりゃ当然、ならないらしい。
 面白い話だ。
 面白くもない。そのときの俺の相手をした末端の人の時間と気力を奪ったことに俺は吐き気がして、心臓がぎゅうと痛む。この歳だし、病気かもな。なんて。ハハハ。
 何も面白くない。
 こんなことを思い出したくはなかった。

 だから。
 忘れる。今日は日記を書かない。
 空白のページに俺は書く。
 ――今日は何もなく、とてもいい一日だった。

 ……またひとつ、記憶が死んでゆく。
 
 ページを閉じて、
 めでたし、めでたし。
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