概念サバンナの今日たち

 鐘が鳴る。
 学校の鐘だ。脳に染みついた呪いの鐘。対人ができない、対人ができない、対人ができない。
「おい」
「は……何……」
 ここに人などいないはずだった。なぜならここは夢の中なので。そこに人がいるのならそれはまやかしで、この「人」というのは……
「お前いつもぼーっとしてるよな」
「……」
「■■■■だよな」
 ――。
 目の前の「人」がかき消える。
 幻だったのだ。
 こういうものはさっさと目を覚まさない限り繰り返す。
 俺は目を閉じた。
 そして目を開ける。
 けれども学校はそこにあり、あちらこちらから「人」が出てきているのが見える。
 俺は教室のドアを閉め、内側から鍵を掛けた。
 そもそもこんなご時世なのに学校が開いていて中に人がいる……だが大学以外の学校はそのまま続けるところが多いんだったかどうなんだったか、詳しくないのでわからない。
 俺だって普段はサバンナにいるもので。
 サバンナに外の情報は入ってこない。なぜならそこには己だけなので。己だけの世界に外の情報は存在しない……わかっているのにどうしてそこに留まるのか。
 わからない。だが問題は今のこの状況だ、このままこの教室に閉じこもり続けたとして、果たして目が覚めるのか?
 無から「人」が現れないとも限らないし、しかしそれならどうしろというのか。
 ライオンは見ないふりをすればいい。
 うさぎは悼めばいい。
 だか「人」への対処をどうすればいいか、俺は知りはしないのだ。
 黒板を見る、数式が書いてある。
 俺はそれらを全て消した。
 背が低いので全て消すのには時間がかかった。届かない部分はジャンプして消さなければならなかったのだ。夢の中なので疲れはしないと思ったが普通に疲れる。理不尽だな。
 最近の学校はホワイトボードなのか? それとも黒板なのか? 知りはしない、情報がないから。ここは俺の記憶の中の学校であり、従って黒板消しを掃除する機械か何かも旧式なのだ。動かすとうるさい音が鳴るので放っておこう。この黒板消しは……放置だ。
 ぱしぱしと手をはらう。はらったってそこまで綺麗になりはしないのをわかっているが払う。それが人間というもの。
 教室を見回す。人はいない。が、それぞれの席の椅子には真っ黒い影のようなものが低く垂れ込めている。
 ホラーだ。
 だが真っ黒い影はゆらゆらと揺れるだけで何もしてきはしない。ホラーだが害がないなら放置してもいい。「人」よりはましだ。なぜなら影は喋らないから。
 何が怖いかって会話が一番怖いのだ。俺は対人ができない。なので会話が怖い、会話は俺の劣等ぶりを明らかにする。何もできない、ゴミのような、間違った人間。社会的に死んだ人間であるというその事実を。
 ……思考を回し続けていれば悪夢から覚められるならそうするが、そういうわけにもいかないのだろうか。
 死ねば覚める、などと聞いたことがあるが、残念ながら俺はこんな夢の中でも死ぬのが怖い。
 なので席に近付いて、真っ黒い影をつんつんとつついた。
 影はぷるぷると震える。スライムみたいだな。
 ぼんやりと窓の外に目をやると夕焼けが広がっていた。
 夕焼け。
 学校での夕焼けはいつも絶望だった。
 猶予時間が終わってしまうこと。日が暮れて真っ暗になること。そして、家に帰らなければいけないこと。
 家に帰るとそれが吠える。ずっと、ずっと吠え続ける。俺に対しても、俺じゃなくても、ずっとずっと。
 俺は耳を塞いでうずくまる、そうするともっと吠えられて、終わらない、終わらないから、俺は。
 そんなことを思い出したくなんてないのに。
 この景色が夕焼けで固定されているということにはおそらく何かの意味がある、それこそがこの夢が悪夢であるということの証左なのかもしれないが。
 家に帰る、日が暮れる、そんなこと何もかもどうでもいい。だってここは夢の中だし、ここにそれはいないし、うさぎはもう死んでいるんだ。
 どうでもいいと思わないか?
「なあ、お前も」
 影は答えない。
「どうでもいいと思うだろう」
 ふるふる、と震える、影。
 そこで目が覚める。
 いつものサバンナだった。
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