短編小説(2庫目)
お盆。
蟹とあちこち飛び回っていた。
と言っても、蟹といる時間はゆったりしていて、急ぐことはそうないのだが、
その時は違った。
「僕の友人の蟹が、ある人を探していてね」
「へえ。どんな人?」
「作家くずれなんだけど、どうも狂気らしい」
「狂気」
「精神の病に憑りつかれているのさ。絶望しきってないからこっちの姿が見えなくてね」
「それで?」
「僕たちで絶望させきるぞ……なーんてことは言わない。怖い蟹になりたくないからね。まあ、見守りさ。危ないところに潜り込まないかとか、危ない目に遭わないかどうかとか」
「へえ……?」
「怪異の作法みたいなもんだね。近付いてきているヒトは守る」
「そんな作法あるのか」
「あるよ。蟹小説でよく出てこない?」
「初耳だぞそんなの」
「……そう。ま、説明は早々にして、行くよ」
「どこに?」
「観光!」
海に行った。
蟹は波打ち際で水をぱしゃぱしゃやって、しー、見つかるよ、などと言った。
「ぱしゃぱしゃやってるのは蟹だろ」
「しーっ」
「まったく」
俺は水が嫌いなので、浜で貝を拾って遊んでいた。
しかし暑い。首に保冷材を巻いて帽子を被ってサングラスをかけて、その他諸々重装備しても暑い。
「さっさと帰ろうぜ」
よろよろ歩いている『作家』を遠目に見て、俺は言った。
『作家』は旅館に泊まった。
俺たちの泊まるのは蟹旅館である。
「蟹一匹と、人間一人!」
蟹は元気よく言った。
「承知いたしました」
受付も蟹である。
眼鏡をカチカチして『作家』の方は、と見ると、受付の蟹が透けて人になっている。レイヤーが違うのだろう。そういうことだ。
旅館の食事は豪勢だった。
蟹が蟹を食べるのはいいのか? と訊くと、蟹とカニは違うから、と答える。
そっか、と返して、でかい海老を口に放り込んだ。
海藻もいい味で、ぬめぬめなのに歯ごたえがよくきいている。
まさに、海の傍の蟹旅館、という感じだ。
『作家』は隣の部屋に泊まっているらしい。
何の物音もしなかった。
この蟹旅館は俺の蟹と違って、海由来の蟹によって運営されているらしい。
まだ人を選んでいない見習い蟹たちだそうだ。
深夜、ぱちりという音がした。
何かと思って、蟹を起こして――蟹は寝ないが――廊下に出る。
『何だ君は、蟹……?』
『おめでとう、貴方は蟹に選ばれました。……まあ、これから苦しむことはないってことだよ』
『それは、天国なのか?』
『残念ながら、違う。生物学的物理学的特徴を保ったままレイヤー移動してるし、寿命はあるからね』
『……』
『でも、苦しむことはない。僕がさせないよ』
ちょきん、という音がする。
『君の病魔は断ち切った。信仰があったからできたことだね。僕は天使じゃないけど』
『そ、うか』
その声は、ずっと背負い続けてきた重い荷物を下ろしたときのような声だった。
『まだ深夜だよ。とりあえず、おやすみ』
『ああ。おやすみ……蟹』
俺たちは部屋に戻った。
「選ばれたってことか」
「そのようだね」
「俺の快適旅館ライフは?」
「明日には発つよ」
「そんなあ」
「なんてことのない日常の中にこそ幸せがある……とか言わないけど、日常の中で備えておこう」
「何を?」
「さあね」
「はー……」
そうして、俺たちのバカンスは終わった。
蟹とあちこち飛び回っていた。
と言っても、蟹といる時間はゆったりしていて、急ぐことはそうないのだが、
その時は違った。
「僕の友人の蟹が、ある人を探していてね」
「へえ。どんな人?」
「作家くずれなんだけど、どうも狂気らしい」
「狂気」
「精神の病に憑りつかれているのさ。絶望しきってないからこっちの姿が見えなくてね」
「それで?」
「僕たちで絶望させきるぞ……なーんてことは言わない。怖い蟹になりたくないからね。まあ、見守りさ。危ないところに潜り込まないかとか、危ない目に遭わないかどうかとか」
「へえ……?」
「怪異の作法みたいなもんだね。近付いてきているヒトは守る」
「そんな作法あるのか」
「あるよ。蟹小説でよく出てこない?」
「初耳だぞそんなの」
「……そう。ま、説明は早々にして、行くよ」
「どこに?」
「観光!」
海に行った。
蟹は波打ち際で水をぱしゃぱしゃやって、しー、見つかるよ、などと言った。
「ぱしゃぱしゃやってるのは蟹だろ」
「しーっ」
「まったく」
俺は水が嫌いなので、浜で貝を拾って遊んでいた。
しかし暑い。首に保冷材を巻いて帽子を被ってサングラスをかけて、その他諸々重装備しても暑い。
「さっさと帰ろうぜ」
よろよろ歩いている『作家』を遠目に見て、俺は言った。
『作家』は旅館に泊まった。
俺たちの泊まるのは蟹旅館である。
「蟹一匹と、人間一人!」
蟹は元気よく言った。
「承知いたしました」
受付も蟹である。
眼鏡をカチカチして『作家』の方は、と見ると、受付の蟹が透けて人になっている。レイヤーが違うのだろう。そういうことだ。
旅館の食事は豪勢だった。
蟹が蟹を食べるのはいいのか? と訊くと、蟹とカニは違うから、と答える。
そっか、と返して、でかい海老を口に放り込んだ。
海藻もいい味で、ぬめぬめなのに歯ごたえがよくきいている。
まさに、海の傍の蟹旅館、という感じだ。
『作家』は隣の部屋に泊まっているらしい。
何の物音もしなかった。
この蟹旅館は俺の蟹と違って、海由来の蟹によって運営されているらしい。
まだ人を選んでいない見習い蟹たちだそうだ。
深夜、ぱちりという音がした。
何かと思って、蟹を起こして――蟹は寝ないが――廊下に出る。
『何だ君は、蟹……?』
『おめでとう、貴方は蟹に選ばれました。……まあ、これから苦しむことはないってことだよ』
『それは、天国なのか?』
『残念ながら、違う。生物学的物理学的特徴を保ったままレイヤー移動してるし、寿命はあるからね』
『……』
『でも、苦しむことはない。僕がさせないよ』
ちょきん、という音がする。
『君の病魔は断ち切った。信仰があったからできたことだね。僕は天使じゃないけど』
『そ、うか』
その声は、ずっと背負い続けてきた重い荷物を下ろしたときのような声だった。
『まだ深夜だよ。とりあえず、おやすみ』
『ああ。おやすみ……蟹』
俺たちは部屋に戻った。
「選ばれたってことか」
「そのようだね」
「俺の快適旅館ライフは?」
「明日には発つよ」
「そんなあ」
「なんてことのない日常の中にこそ幸せがある……とか言わないけど、日常の中で備えておこう」
「何を?」
「さあね」
「はー……」
そうして、俺たちのバカンスは終わった。
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