短編小説(2庫目)

 何もかもを忘れてしまった。
 そう言ったら、医者から████だと言われた。

 その病気は薬で治るもので、もう片方は治らないらしい。
 インターネットで調べたら、ひどい悪口が書かれているのを見た。

 俺は笑った。
 自分の人生のろくでもなさを。この先の人生の暗さを。

 笑っている間、蟹はやってこない。
 絶望した人間のところにやってきてパートナーになる概念、蟹。
 それは笑う絶望に興味はない。

 と思っていた。

「こんにちは~蟹です」
「頼んでないぞ」
「絶望していたのでは? わかります、わかります」
 昔のセールスマンみたいなヤツだな。
「蟹は頼んでないのでお帰りください」
「まあ、そんなことを言わずに」

 俺は黙り込んだ。
 今思えば、自分の悲惨な窮状を笑いものみたいにして軽く言う癖がよくなかったのかもしれない。
「貧乏人特有の行動」だと昔読んだ本には書いてあった。
 腹が立つな。そうだけど。

「大丈夫です? ソーダありますが」
「ソーダ」
 その日はとても暑かった。うだるような暑さ。エアコンをつけても暑さが消えず、ぜえぜえしながら布団に貼り付いていた。
「のみますか?」
「………」
「ほら」
 蟹の差し出したソーダはよく冷えていて、おいしそうで、
「………」
「まいどあり」
 にこ、と蟹は効果音をつける。

 蟹と一緒に暮らすことになったのはその日からだった。

 今は満足している。
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