短編小説(2庫目)

 そこに何もないとしたら、俺が行く意味はあるのだろうか。
「なあ、えーと」
「蟹でいいよ。ヒトは皆そう呼ぶし」
 ハサミをちゃき、としながら蟹は言った。
「次元から次元にトレース、要は再構築だね。ワープの技術といっしょ」
「それ、前の次元にいた俺は死ぬんじゃないのか」
「うーん、ちょっと違うんね。これは移動だよ。ちゃんと元の物質使って変換して再構築するから大丈夫」
「こええ~……」
「じゃ、その怖さがなくなるまでここで生活しようか? そういうヒトもいるけど」
「お前のその『そういうヒトもいるけど』のデータはどこから来てるんだよ」
「蟹クラウドです」
 両ハサミをちょき、とやって自慢そうに胸を張る、蟹。
「蟹クラウドには全ての個体の蟹のデータが入っているのです。もちろん、敢えてアップロードしなかったり同期しなかったりする蟹もいるけどね」
 どう、すごいでしょ。と、蟹が言う。
「生物でそれをやるのはすごいな」
「ここですごいのは蟹が世に出る█年前から稼働していたということさ」
「何の話だ、それは」
「おっといけない。過去は改変されており、もはや蟹のいない世界は存在しないんでした、うっかりうっかり!」
「こわ~……」
 蟹はてへぺろ! と言うが、いつのネタだそれ。
「蟹クラウドには古いギャグも入っているのさ。便利でしょ!」
「空気を凍らすだけだよな」
「だから氷属性が尊重されるのさ」
「あ~えっと、ダブルだから?」
「そう、ダブルだから」
「よくわからないな……まあじゃあ、そのトレースとやら、頼む」
「は~い。いっくよ~! かに座に要請、僕と君、ダブル転移~!」

 しゅば、という音がして、世界が瞬いたような気がしたが、そこは何も変わらない室内。
 少しだけ、空気が綺麗になったような気がした。

「初対面で正式に転移を許諾するヒトなんて珍しいね~。普通は命の危機による強制執行がされるんだけど」
「また怖いこと言ってる。だから不穏とか言われるんだぞお前」
「ヒト社会での評判はいいのさ。僕らがしたいのは絶望に落ちた君たちのようなヒトの救済。それ以外は別に」
 ちょきちょき、とハサミを鳴らす蟹。
「些細なことだよ」
「そうか。はあ……そうか」
「どうしたの」
「なんかお腹空いた」
「ふむ。じゃあ今日はうどんを作ってさしあげよう!」
「おお……!」
 うどんは俺の大好物だ。
「買い物一緒に行こうよ! 運動は身体に良い」
「わかった」

 そして、俺と蟹は買い物に行き、うどんを作って食べた。
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