短編小説(2庫目)

 今日もコーヒーを飲む。
 考え事をする際にコーヒーを飲むという人もいるが、私はコーヒーを飲んでいるときあまり何も考えていない。味わうことを優先するからだ。
 昔はコーヒーを飲みながら考え事をすることもあった。あのカフェテリア、四方から降り注ぐ蝉の合唱、私に愛想をつかせた彼女にぬるくなったアイスコーヒー。
 珍しく、思い出している。今日が暖かいからかもしれない。
 思い出すなら夏だろう。だが今は春。行きつけのカフェの窓からは五分咲きの桜が見えている。
 彼女との思い出は冬、春、夏。秋を共に過ごすことはなかった。
 最初から齟齬は見えていた。付き合うという契約のような手順を踏んでおきながら、カフェで会っては話すだけ。そういうどこか前時代的なお付き合いを私たちは続けていた。彼女の方はもっと先に進みたかったのかもしれないが、私はそれ以上進む必要性を感じていなかった。
 そもそも恋愛感情というものを自分が感じているかどうかすらわからなかった。それは彼女の方もきっと同じで、だからこそ私たちは契約を交わしたのだろう。うまくいかなかったが。
 わからない者同士、シンパシーを感じていたのかもしれない。だが、彼女の方が他人にも自分にも少々厳しかった。わからないということが許せなくなってしまったのだと思う。こう書くと私の方は許せていたのかと思われるかもしれないが、私もやはり、許さないとまではいかずとも少し焦っていた。
 彼女に対して執着のようなものはあった。私以外の人間と親しそうに喋っていると焦ってしまうし、話していると新たな発想が湧いてきて楽しかった。それを恋と呼ぶかどうかは人によるだろう。
 恋がわからない、なんて大層なことを言うつもりはない。何より彼女と出会うより前、恋をしようとしてできたことはあった。実績があるのだ。
 わからない者同士だから無理に恋をすることはないと思っていたが、このまま恋愛感情が曖昧なまま付き合い続けるのは世間的にどうなのかなどと私は考えてしまっていて、彼女のことより世間体を優先するその態度を見透かされていたのかもしれない。
 だが本当のところはわからない。彼女は回りくどい話し方が好きだったし、話が飛んで何の話をしているのかわからなくなることもしばしば、気付いていることをほのめかされていたとしても私にはそれがわからなかった。少なくとも当時はわからなかったし、今思い返してみてもキーになるような記憶はない。
 だいたい、コーヒーを飲みながら彼女とのことを思い出すなんて行為自体があまり生産的ではないのだ。仕事のことを考えるならまだしも、思い出に浸っていていいことなどあまりない。彼女とはもう縁が切れているし、関係性について反省してみても生かせる場所がないし。
 契約のように付き合ってみるなんて頻繁にやりたい行為ではない。周囲への説明も面倒だし、何よりあの二人の間に漂う建前感がなんとも微妙に絡み付くのだ。共犯者意識だって始めこそ楽しく味わっていたが、ずっと共犯者でいなければならないのかなんて思うとなんだかうんざりしてくるし。
 駄目だ。また彼女のことを考えてしまっている。
 表の桜がはらはらと散っている。
 思い出も桜の花びらのように散り消えてしまえばいいのに。
 そう思いながらコーヒーに口をつける。
 ポットで頼んだそれは既に冷めてしまっていた。

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