短編小説(2庫目)

 君に教えてもらった歌を、今もまだ聴いている。
 機械人形の■の歌。



 懸命に恋をする君が好きだった。まっすぐに恋をする君が好きだった。
 君が恋した人は気まぐれで、秋の空のように機嫌を変える子だった。
 君の想いは周囲の人たちや当人にまで知れ渡っていて、知らないのは君一人。
 好きな相手に振り向いてもらおうとあの子からの難題に答える君、日常生活を懸命に過ごす君、勉強が不得意な君は進級すら危うく、あの子と一緒の学年で居続けるために必死で頑張っていた。
 そうだ。頑張っていた。時折落ち込みながらも、仲間たちに励まされながら、懸命に頑張っていた。
 「輝いていた」。
 そんな君の姿が、私は気に入っていた。
 それが■だったのかどうかはわからない。ただ、君の姿が好ましいと、そして、君のその恋が「ずっと叶わなければいい」と心の底で思っていたにすぎない。
 もし君の恋が叶ってしまえば、君は頑張るのをやめてしまうかもしれない。輝きを失ってしまうかもしれない。
 私のそのような考えが「君の恋が叶わなければいい」という願いを生んでいたのだと思う。
 もちろん、私も表向きは君を応援していたし、相談にも乗っていた。ああしてみればこうしてみればといったアドバイスもしたし、君が落ち込んでいたら慰めもした。
 しかしやはり、そうしながらも私は、心の奥では全然別のことを考えていた。
 けれども私は、そんな風に君の意に反する願いを抱きながら君と接していることについて、特に罪と思うわけでも悩むわけでもなかった。ただ、他人事のように、「自分はそういう人間なのだな」と思うだけだった。
 自分はそういう人間なのだ。それは君を好ましいと思う気持ちについてもそうで、他人事のように捉えたまま大きくなることも小さくなることもなく、日常の中で音もなく静かに続いていった。



 日常の延長線上。「好ましさ」という感情の扱いに困ることもなく、外面と内面の不一致に悩まされることもなく、ただ平穏に日々が過ぎる。
 そんなある日のことだ。
 いつも交わしているものと同じ、なんてことのない会話の中で、君がとある歌を教えてくれた。
 おすすめの曲らしい。
 私はその頃から音楽を聴くのが好きで、その日はちょうど聴く曲のストックが切れたところだった。
 答えが返るとは思わずに気まぐれで、君に話題を振ってみたのだ。
 予想外なことに、君はぶっきらぼうな態度で私に一つだけ曲を教えてくれた。
 その日の講義を終えて部屋に帰った後、私はその曲を検索し、携帯端末にイヤホンを接続して聴いた。
 ――機械人形が恋に戸惑う歌。
 意外にもそれは好みの曲調で、私はその曲を気に入った。
 
 それから、私はその曲をたまに聴いては楽しんだ。
 君と話した日、相談に乗った日、君が笑顔だった日、悲しそうな顔をしていた日、君が落ち込んでいた日、君が嬉しくて仕方ないのを隠せていなかった日。その度に私は、学部の廊下で、休憩スペースで、大学図書館で、一人の帰り道で、部屋の中で、その曲を聴いた。



 平穏に、ただただ平穏に日々は過ぎ、次第に卒業が近くなる。
 恋に弱気で勇気のない君は、きっとあの子に告白することなく、このまま卒業してゆくのだろう。
 そう思っていた。

 晩冬。
 卒業論文の提出も終わり、就職に伴った引っ越しをする者もちらほらと出てきて皆が名残を惜しみだした頃。
 君が告白した、という噂を聴いた。
 
 私は君を探しに研究室に出かけて行った。
 研究室に着くと、わざわざ探すまでもなく、ソファにもたれて座っている君が目に入る。
 どことなく沈んだ様子の君に、私は声をかけた。
「やあ」
「ああ……■■か」
「告白したんだって?」
「え。誰から聞いたんだ」
「いや。もうみんな知ってるよ。噂になってた」
「そっか……」
 君は息を吐き、ソファに沈み込む。
 その様子を見るだけで、結果などわかってしまうようなものだった。
 しかし不可解なことに、そのときの私は、君からそれを直接聞きたいと思った。
 だから、質問をした。
「で、どうだったの、結果は」
 少しの沈黙を挟み、君が口を開く。
「駄目だった」
「……そう」
 予想通りの結果。何一つ意外ではない。
 君は言葉を続ける。
「恋愛対象として見れないって言われて……そりゃそうだよな、っていうかあいつ彼氏いるもん」
「それなら意識させるように頑張ってみればいいんじゃない」
「無理だよ……、俺たちもうすぐ卒業だぜ」
「じゃ、諦めるの?」
「そうだよ……。どう考えても無理でしょ……」
「でも、まだ好きなんでしょ?」
 無言で頷く君。じわりと何かが心に滲む。わかりきったことを聞いて、わかりきった答えが返って来たはずだった、だから私は、その靄が何かはわからない。わからないものは無視するに限る。そんなことよりも、目の前で沈んだ様子の君の力になろう。
 私は思考を切り替える。
 あの子に対する君の恋の始まりは確か、「一目惚れ」。新入生ガイダンスの時に隣に並んでいた彼女を見て「好きだ」と思った。昔、君がそう言っていたのを覚えている。
 一般的に、一目惚れを諦めるというのは難しいことだろうなと思う。私は一目惚れをしたことがないからわからないが、否応なく恋に落ちてしまうそれは自分の意志ではどうにもならない。だから、諦めることに関しても、自分の意志ではどうにもならないはずだ、と、推測することくらいはこの私にもできる。
 かけるべき言葉の方向性を考えてから、口を開く。
「まあ、卒業してからも交流できるでしょ。会いに行けばいいじゃない。しばらくは卒業生飲みとかもあると思うし」
「でももう敗れちゃったからなあ。……いいんだよ。もう、いいんだよ。俺は、さ」
「……そっか」
 今度こそ、沈黙が落ちる。
 私は君を見る。君は物思いに沈み、ぼうっと視線を宙に向けている。色素が薄めのブラウンの瞳は失意、諦め、そのようなものを映していた、ように思う。
 君はたびたび落ち込む人だが、毎回少し経つと完全に復活し、明るく頑張る君に戻る。
 今回もきっとそうだ。君のこの度の失恋は今までにない落ち込みであろうとは思うが、君には私以外の皆もいる。しばらくしたらまた、元の明るい君に戻るのだろう。
 そうして一連の思考を回す間中ずっと、君は私を見なかった。それはそうだ。それが私たちの「普通」であるのだから。
 沈んだ琥珀色から視線を外す。もう行こう。私は次を考える。今日は寒い。せっかく大学に来たのだし、日が暮れるまで大学図書館にでも寄っていこうか。
 そう思いながら踵を返しかけたとき、
「■■、」
 君が私の名を呼んだ。
「何かな」
 私は君に向き直る。ブラウンの瞳が正面から私を映す。なんでことのないその現象に、柄にもなく戸惑いのようなものが浮かぶのがわかる。
「お前はさ、好きな人とかいないの」
「…………」
 今度の沈黙は私の方だった。
 「好きな人」。この場合は、「恋い慕う人がいるかどうか」、ということだろう。
 私は考える。ブラウンの瞳はまだ私を映している。
 いない、と返そうとした口は惑いでもしたのか、
「どうだろうね」
 という言葉を紡いでいた。
「どうだろうねって……どうなんだよ」
 胡乱な回答に当然疑問を示す君。
 そうだな、どう答えようか。
 考える。
 私に恋い慕う人はいない。しかしながら、うっかり惑ったこの口が回答をぼやかしてしまった。
 ぼやけたものをわざわざクリアにする必要も感じない。わからないことはわからないままの方が綺麗だとも思う。
 私は回答を決める。白でも黒でもない。
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
 灰色。
「なんだよ、秘密主義か」
 君が口を尖らせる。
「謎があった方が面白いじゃないか」
 さらりと笑って見せると君はあっけにとられたような顔をして、一つだけ瞬きをした。
 その様子を、少しだけ愉快に思った。らしくもない、強めの正の情動はすぐに収まり、切り替わる。
「……じゃ、私はこれで」
「つまらないなあ、弱みを握ってやろうと思ったのに」
 君は少しだけ面白くなさそうにし、そして、
「またな」
 と笑う。何気なく、ただの同級生に向ける色。
 私は今度こそ君に背を向けた。研究室のドアを開けて、閉める。
 背後で君が再びソファに沈み込んだのがわかった。



 就職先は都会だった。
 あのやり取りのあとすぐに私は引っ越し、君とは会わなくなった。
 卒業式には出なかった、だから君とはあのやり取りが最後になった。
 もう二度と会うことはない。君の住む地方は遠く離れているし、何より私たちは特別に約束して会うほどの仲でもなかったからだ。
 連絡もなく、便りも着かず、近況も知らない。
 過ぎ去り終わったもの。とっくに忘れ、忘れられたもの。
 そんな関係。

 けれど。
 今日の日までずっと、今もこれからもずっと、通勤電車の中、夜道、帰り道、自分の部屋で、あの曲を聴くときだけ、私はそれを思い出す。
 過ぎた日々、輝いていた君のこと、曲を教えてくれた君のこと、冬の終わりのあの日、一度だけ私を映したブラウンの瞳。
 
 ――機械人形の歌。命も心もないそれが、恋に戸惑う物語。
 
 そんな話、
 だった。
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