短編小説(2庫目)

 文芸部の同期、Fは嫌な奴だった。
 誰にでも媚を売り、必要以上に持ち上げる。
 いつも腰が低くにこにこ笑っている、その辺に落ちているゴミのような奴だった。



 その日、部活の定例会が終わった後。
「Dくんの小説、今回も最高ですね」
 Fがすり寄ってきて、言った。
「Dくんほど明るく全ての人にオススメできる小説は誰も書けないでしょうね!」
 また大げさなことを、と思うが、他の奴の手前、一応礼を言う。
「ありがとう」
「ひよこ頭くんの小説も最高でしたね! ユニークかつエモい味が出ていて、まさにひよこ頭くんって感じがしますよね」
「そうだな」
 俺は頷いてやる。
「こんなにいいものが読める部活に所属できて、僕は幸せですよ」
「よかったな」
「おお……この感動をぜひ世界に広めたい! 僕たち以外の人にも皆の小説をガンガン読んでもらわねば! ……この後の製本作業、Dくんも参加しますよね?」
「……ああ」
 今日は部活の後に、大学祭用の部誌の製本作業がある。参加できるメンバーは参加するように、と部長に言われている。
 俺は特にこの後予定もないので参加するつもりだった。
 そして、Fもおそらく参加するつもりなのだろう。

 俺はFが苦手だった。
 常に下手に出て他人にごまをするその姿を見ていると、自分まで自尊心が低くなった気がして、吐き気がする。
 なるべく一緒の空間にいたくなかった。Fが製本作業に参加すると察したとき、途中で抜けようと思ったほどだ。
 だが、部長の手前そんなことはできなかったし、Fはあんな調子なので味方だけは多いから、表立ってそういうことをする気にもなれなかった。

「Dくん!」
「なんだよ」
「難しいですね、製本作業」
 Fは手先が不器用だった。
 紙を折る作業で紙を何枚も駄目にしたFは、早々に他の作業に回された。
 それが俺の隣だった。
 コピー機から吐き出される紙を仕分けする作業だ。
「僕、製本作業ってもっと簡単なものだと思ってました」
「そうか」
「意外と難しいんですね。……印刷所の人はいっつもこんなことやってるんですかね?」
「印刷所の人は機械に任せてるだろ、わからないが」
「そうなんですね! そんなことまで知ってるDくん、すごいですね」
「わからないって言ったろ」
「それでも、考えられることがすごいです」
「……どうもね」
 こいつのこういうところが嫌いなんだ。
 常に調子がいいところ。
 こいつの自尊心ってどうなってるんだろうな? おおよそまともな形をしているとは思えない。
「Dくんはすごいですねえ」
 Fはにこにこ笑っている。
「手、止まってるぞ」
「あ、すみません!」
 Fは慌てて仕分けを再開する。
 早く帰りたい。
 心の底からそう思った。



 製本作業が終わり、部誌を倉庫にしまった後。
 いつもなら部員は食堂に向かい、どうでもいい話をして駄弁る。
 それは今日も同様で。

 席に着いた瞬間、Fが隣に座ってきた。
 声はかけず、注文をするために席を立つと、Fも席を立ってついてきた。
「Dくん! 今日は何にしますか?」
「……」
 今日「は」って。俺が注文する内容をいつも知ってるみたいな言い方をするなよ、知ったかぶりが。と思うが、言わない。
「今日は揚げ豆腐のおろし醤油和えとかあるみたいですよ」
「何その渋いメニュー!」
 ひよこ頭が横から声をかけてくる。
「え、だって書いてありますし」
「ほんとだ、書いてある。ハハハ」
 軽く笑うひよこ頭。
「なあ~F、俺の小説どうだった?」
「素晴らしかったですよ! ユニークかつエモい……ひよこ頭くん以外にあんな小説は書けませんね」
「ハハ! だろ? 俺ってば天才だから」
「その通りです。ひよこ頭くんは天才です」
「だろだろ。誉めろ誉めろ」
「さすがひよこ頭くん!」
 Fの世話はひよこ頭に任せて、俺は先に注文を取ろう。
 俺はさっさと先に進んだ。

 席に着いて、カウンターの方を見やると、ひよこ頭はまだFと喋っていた。
 Fはぺこぺこと頭を下げている。
 ひよこ頭はどうしてFのあんな態度を我慢できるのだろうか。
 俺にはとても耐えられない。
 格の低さを全身で表現するようなあの態度を見て腹が立たない奴がいるというのが信じられない。
 反吐が出る。

 俺はカレーを口に運ぶ。
 どんなことを考えていても、この食堂のカレーだけはいつも美味しい。
 ひょっとすると、特に考えて作られたカレーではなく、業務用のルーを使っているだけかもしれないが、俺は食堂のカレーが好きだった。
「Dくん」
「……」
「すみません、ひよこ頭くんにしばらく捕まってしまって」
「なんで謝る」
「あ、そうですよね、謝るのはおかしいですよね……すみません」
「別に……俺、カレーに集中したいからさ。話しかけないで」
「あ……! カレー、楽しんでください」
「……」
 カレーを、口に運ぶ。
 Fが横で俺の様子を伺っているのがわかる。
 いつもなら周囲と話して、過度な持ち上げをしているのに。
 俺なんかの様子を伺わなくても楽しいだろう。
 腹が立つ。
 カレーの味がわからなくなる。
 心底嫌だった。



 またある日。
 Fが部誌に出した小説が部活の批評会に回ってきた。
「Fくんの小説はなんか華がないんだよねえ」
 副部長の言葉に、部長がうんうんと頷く。
「書かれてる内容も、正直意味がわからないんだよね。もうちょっと読者にわかるように書いたら?」
「あはは……すみません」
 Fはへらりと笑う。
「小説って難しいですねえ」
 頭に手をやるF。
「もっと他の人から学ばないと。■■■■とかは読んでる?」
 部長が続ける。
「浅学ながら、未読でして……この後購買部に買いに行きますね!」
「うんうん。それがいいよ。私としては、●●●●とかもオススメなんだけど」
「部長のオススメですか! それは絶対買いですね! 後で見てみます」
 笑顔でメモを取るF。
 Fはいつもメモを持ち歩いていて、何かあるごとにそこに書き込んでいるようだ。
 今の時代に、ご苦労なことだと思う。そんな努力をしてもFは物覚えが悪いようで、試験などはいつも赤点を取って笑われている。こいつはどうやってこの大学に入ったんだ? と思うが、そんなことは俺には関係のない話だ。どうせまぐれでいい点を取ったに決まってる。
「Fくんも勉強すればきっとDみたいにいい小説書けるようになるよ」
「Dくんみたいに!? それは素敵ですね! 是非Dくんのようになりたいといつも思ってるんです」
「だってさ、D」
 なんでそこで俺に話を振る? と思ったが、半ば仕方のない話でもある。自慢めいて聞こえるかもしれないが、俺の小説は部内での評判が良い。おそらく、部の気質に作風が合っているのだろう。そして、Fはそんな俺の小説のファンだということを公言している。引き合いに出されたのはきっとそのせいだろう。
 俺は前を向いたまま、どうもね、と返す。
 Fはわあ、と言う声を出して満面の笑みになった。
 部長をはじめとした周囲の人間も、おかしそうに笑っている。
 世界一嫌いな空気だ。今すぐに席を立って、何もかもぶち壊してしまいたい。
 だが、そんなことで俺が今まで築いてきた人間関係まで駄目にしてしまうのは悪手だし、想像するだけに留めて奥歯を噛み締める。
 その後の展開は適当に聞き流し、部活が終わって食堂に行って、またFが絡んできて、ああとかうんとかあしらってその日は終わった。



 この前製本した部誌が頒布される大学祭の日がやってきて、仮装喫茶をやることになったうちの部活は、痛い衣装の奴等が行き交うゴミのような空間を生成した。
 幸いにも俺は裏方だったので、いつものファストファッションに上からエプロン一式を着た状態で働いていた。
「いらっしゃいませー! ご注文は何になさいますかー?」
 キッチンにいても聞こえる、Fの高めの声。
 Fはこの歳に見合わない少年のような声をしていた。それが「その筋の人には受けそうだ」という部長たちの意見でウェイターに選ばれたのだ。
 正直、裏で一緒に働かなくて済むことに安堵していた。
 どうせ同じ空間にいたらいつものように寄ってくるに決まってる。仕事の邪魔だし、鬱陶しい。
 声が聞こえてくるのは嫌だったが、一緒の空間に押し込められるよりはよっぽどましだった。
「お~いD」
 ひよこ頭が声をかけてくる。
「何だ」
「俺らで昼メシの買い出し行けってよ」
「あー……わかった」
 俺はひよこ頭と連れ立って、購買部に出掛けた。

 学祭中の購買部は驚くほど空いており、あっという間に買い出しが終わる。
 ひよこ頭が振ってくる教授の愚痴やら教養科目の課題やらを聞き流しながら喫茶のある棟に戻ると
「あー、Dにひよこ頭、やっと帰ってきてくれたか」
 副部長が慌てた様子で廊下を駆けて来た。
「副部長~、廊下は走っちゃ駄目っすよ」
「今裏すごく大変でねえ……昼食は私が分配しておくから早く入ってくれ」
「何があったんすか?」
 とひよこ頭。
「見ればわかる」
 と副部長は言って、また走って戻って行く。
「何なんだろうなー。早くって言われたから早く戻らなきゃなんだろうけど」
「そうだな……」
 その時にもう、嫌な予感はしていた。

「Dくん……」
 泣きそうな顔のFがそこにいた。
「カフェオレ零しちゃいました……」
「服には零してないのか」
「大丈夫です……」
「じゃあお前は表出てろ。後は俺たちがやっとくから」
「ありがとうございます……」
 Fはとぼとぼと裏を出て行った。
「なんかFが裏入ってめっちゃ失敗するから大変なことになってたらしい。グラス割ったり飲み物零したりミキサー落としたり」
 ひよこ頭が耳打ちしてくる。
「へえ……」
 相槌を打つ裏側で、苛立ちが最高潮に達しかけている。
 どうせそんなことだろうと思った。
「注文遅れて回転率下がりまくりだってよ。ハハ」
「そうか……」
「D?」
「じゃあ集中しないとな」
「ああ! そうだな!」
 俺たちが「大変なことになった」裏を元通りにして、客の回転が通常ペースに戻り始めた頃に、学祭は終わった。

「今日はお疲れさま! みんなよく頑張った!」
「部長~部誌の売り上げはどうだったんですか?」
「ひよこ頭くん、そういうこと聞くー? ……よく売れたよ」
「よかったっす。な、F」
「そうですね……」
 Fの顔からはいつもの笑みが消えている。
「どした?」
 とひよこ頭。
「今日はたくさん失敗してしまったので……」
 とF。
「いいのいいの、気にしない! 失敗の思い出もまた、学祭のうちだから。誰も怪我なくてよかったよ」
 部長が手を叩く。
「じゃ、打ち上げの出欠取ろうかー」

 打ち上げに出たFの顔にはいつもの笑みが戻っていて、鬱陶しく絡んでくるのもいつも通りで、いつものように適当に流して。
 Fは前後不覚になるまで飲んで、吐いて、介抱されて、誰かの家に泊まったと聞いた。



 次の部活の日。
 いつもなら俺にすり寄ってくるFが、その日はいなかった。
「あれ、D! Fはどうした?」
 ひよこ頭が聞いてくる。
「そんなの知らないよ。課題とかで忙しいんじゃないか」
「そうかぁ……寂しいな!」
「……」
 寂しいわけがない。
 いつもいつも纏わり付いてきて鬱陶しいFが、今日はいないというだけで心が軽くなる。
 いるだけで場の雰囲気を悪くする、あんな奴はいないのが一番だ。

 結局その日はそれっきりで、Fは来なかった。



 次の部活のときもFは来なかった。
 その次の部活のときも。
 最初こそ気にしていたひよこ頭や部員たちだったが、そのうち何も言わなくなった。
 Fがいなくても部活は普通に回っている。
 当然だ。
 ごますり役など、いてもいなくても変わらない。
 それどころか、いない方がよく回るほどだ。
 おべんちゃらの評価などない方が良い。
 この部活は心からの評価のみを言い合うところなのだから。

 俺はなんとなく、Fの所属学部の前まで行ってみた。
 しかしそこにFの影はなく。
 あるはずもない。約束もしていないのだから。

 どうでもいい奴が突然部活に来なくなったって俺は構わないし、気にもしない。今回もそれでいいはずなんじゃないのか。
 誰も気にしていないのに、どうして俺だけ気にしないといけない?
 Fが俺によくすり寄ってきていたから? 理不尽だ。ただの尻拭いじゃないか。
「Dくん?」
「……」
 そこで会ってしまう。嫌な奴に。
「どうしてこんなところにいるんですか? ひょっとして、うちの学部に興味があるとか?」
「違う」
「そうなんですね! じゃあ、教授に質問とか?」
「違う」
「そうなんですね!」
「F」
「はい!」
「なんで部活に来ない」
「退学するからです」
「は……?」
 Fはいつもの笑顔だ。その表情に陰りは一切見られない。
「退学……?」
「勉強に興味が持てなくなっちゃったんです。最近は朝も昼も起きられなくて、講義にも出られてないし」
「……?」
 わからない。なんでそれを笑いながら言う? 何がおかしい?
 やっぱり吐き気がする。
「部活のみんなにお別れが言えないのは残念ですね。あ、Dくんから言っといてくれませんか?」
「自分で言えよ……」
「それもそうですね! すみません」
「……」
「今日これから退学届けを出して、そしたら夕方の新幹線で地元に帰ります」
「……なんでそれを俺に言う?」
「なんででしょうね? 偶然会ったからかもしれないですし、それとも」
 僕がDくんのこと好きだからかもしれません。
 と続けるF。
「……」
 腹が立ちすぎて、吐き気がした。
 ひたすら下手に出ておいて、対等の立場じゃないと散々アピールしておきながら、どの口がそれを言う?
 去り際だから言った、断られること前提で言った、そのものじゃないか。
 こいつは俺を舐めている。
 心の底から舐めている。
 下手に出つつもその実俺を見下げているんだ。
 腹が立って腹が立って。
「なんてね! 冗談ですよ、冗談! 本気にしました?」
「いや。元気でな」
 心にもないことを言う。
 俺はこいつが嫌いだが、最後ぐらいは取り繕って別れてやろう。
 それが俺の、俺からの、個人的な復讐なのだと。
「俺は……」
 言いかけて、そこで止める。
 Fの首筋。雪国の若者特有の、あまりに白く血の気のない……すらりとしたそれに、血管が薄く浮いている。
 ずっと持て余していたわけのわからぬ衝動。それが俺を焦がしている。ああ、俺は、今すぐにでも、こいつを。
 ……こいつを、何だ?
 ……クソが。
「なんでもない。……じゃあな」
 手を振り、後ろを向く。
 Fは迷っているようだった。
 引き留めたいと思われていることを重々理解しながら、俺は歩き出す。
 歩いて歩いて、角を曲がるところでちらりと後ろを振り返ると、Fは突っ立ったまま下を向いていた。

 俺は知らない、あんな奴のことなんか。



 それから、部活の奴らがFのことを聞いてくることはなかった。
 卒業するまでも、卒業してからも。
 就職して、帰りの電車の中でふと思い出す。
 Fのあのときの笑顔。
 朝起きて会社に行って深夜に帰って寝るだけの灰色の毎日の中、あの顔を思い出すと腹が立って腹が立って、
 その時だけは、生きているという気持ちになった。

 失敗が多いF。頭が悪いF。物覚えの悪いF。常に下から見上げてくるF。そしてあのとき、白い首筋に浮いた血管の紅。
 まるで焼けつくような、■■。
 ……どうでもいいことだ。あんな奴がどうなろうが俺の知ったことではない。
 遠くで勝手に生きていればいい。
 だが。
 今の俺にはもう、Fが元気に生きているとはとても思えないのだった。

 遠い雪の地に置いてきた、昔の話。
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